2013年7月7日日曜日

我「容疑者Xの献身」を楽しむ者に如かず

1999年のクリスマス。
僕はドイツ行きの飛行機に乗っていた。
妻がゴスラーという小さな町にある菓子店でやっていた修行が空けるので、迎えに行くためだった。

その年大ヒットした東野圭吾の「白夜行」が道連れだった。
隣にはドイツ人の女性が座っていて、話しかけたそうにしている。

僕は大学時代、必修のドイツ語を何度も落とし、再履修を重ねてやっと卒業したのでドイツ人に話しかけられるのが怖かった。
だから食事の時間を除いて11時間ずっと「白夜行」に鼻を突っ込んで過ごした。

無理をする必要はなかった。
その小説はとても面白くて、読む手を止めることはできなかったからだ。
最後に押し寄せたカタルシスはあまりにも大きく、本を閉じて思わず、ずっとこちらの様子を伺っていた隣席のドイツ人に微笑みかけてしまった。

彼女は「You finished ?」と英語で言って笑った。
Yes,Very interesting.と応えたものの、少し違和感は残った。
これってミステリだったか?


それ以降の数冊も、探偵(役)が、提示された根拠から論理的な推論で犯罪の全容を解き明かす本格推理小説の本道を外れ、ヒューマン・ドラマ寄りの作風になっていったように感じられて、寂しいな、と思っていた。

その東野圭吾が、容疑者Xの献身という作品で、2005年度の直木賞を獲り、同時に本格ミステリ大賞や本格ミステリベスト10の第一位を獲ったと聞いて、おお本格の世界に戻ってきたんだね、よかった、と思っていた。

しかし、推理小説文壇では、作家二階堂黎人氏の、これは本格ではないという発言に端を発する「容疑者Xの献身、本格論争」なる騒動が起きていた。
くわしくはこちらをご覧いただきたい。

ここでは、この問題に関する私見は述べない。

今年2013年に公開されたガリレオシリーズの映画第二弾「真夏の方程式」に合わせて、「容疑者Xの献身」がテレビ放送されるというので、二階堂黎人氏が、議論の発端とした、

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この本の真相(湯川の想像)には、読者に対する手がかりも証拠も充分でなく、読者はそれをけっして推理できない。よって、作者が真相であるとするものが最後に開示されるまで、読者は真相に到達し得ない。つまり、そういう結末の得られ方(作者からの与え方)は《捜査型の小説》であるから、《推理型の小説》ではない(=本格推理小説ではない)、ということなのである。
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に注意して、それが映像でもそうなっているのか、という視点で全編見なおしてみようと思ったのだ。
叙述のみに頼る小説よりも、映像が提示されてしまう映画では、手がかりを「隠す」こと自体が難しいからだ。

実際、あらためてそのような目で観てみると、むしろ映像を効果的に使って、真相を想起させる効果をあげているシーンがいくつか挿入されている。
しかしそれが「伏線」だったか、と言われると、それを探偵(役)が使って推理した形跡はなく、今問題になっている視点では大きな構造に変化はないのだ。

「読者が真相に達し得ない」ことが本格と呼ばれるジャンルの瑕疵になるのだとしたら、その瑕疵は確かに存在するようだ。
しかし、それでも映画を観た人間はガリレオの仮説構成能力には舌を巻くのではないか。
そして天才VS天才の、息詰まる頭脳戦を、つまり論理的な帰結をはるかに超えていく人間の心の複雑さにこそ、この物語の真髄があるのではないか。

書評投稿サイトでは、ミステリに対してよく「途中で、犯人わかっちゃった」というコメントを見かける。
自分の推理力を自慢したいのだろうね。

犯人がわかればいいのなら探偵や、警官になればいい。
容疑者Xもコロンボの諸作も犯人自体は最初にわかっている。
読書家は真相の露呈を避けようとする犯人とそれを暴く探偵の頭脳戦の品質を楽しむものだ。

その意味でこの「容疑者X」はガリレオという探偵役の造形を含め、充分なエンタテインメント性を持つ作品になっていると思う。

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