2013年9月30日月曜日

ジャレド・ダイアモンド「文明崩壊」を読む(1):イースターに黄昏が訪れるとき

ジャレド・ダイヤモンドの「文明崩壊」は、古代、中性の社会が経験した数々の文明崩壊の実例を検証し、現代社会の問題を抉ろうとする労作だ。

しかし、激動の二十世紀に我々の社会に起こったほんの数十年前の過ちでさえ、なぜその時そんなことになったのか、にわかには理解できないほど自明な過ちに見える。
そして科学的合理性は充分検討されているように思われる二十一世紀になっても、その自明な過ちを僕らは簡単に繰り返しているように思える。

僕自身も一度は興奮して読んだこの「文明崩壊」に編み込まれている意図が、本当には理解できていないのではないか、と自分を疑っているところだ。
そこで、過去の文明崩壊の実例を検証する第2部を中心に精読してみることにした。

本稿では第2部第2章「イースターに黄昏が訪れるとき」を読む。

イースター島は、巨人(モアイ)像で知られる南海の孤島だ。
1722年4月5日、復活祭(イースター・デイ)の日にオランダの探検家ヤコブ・ロッへフェーンによって発見され、発見した日にちなんでこの名が付けられた。

発見された時、この島には2~3000人程度のポリネシア人が住んでいたのではないかと言われている。
しかしこの島はまさに孤島なのである。
東方向に隣接するチリの海岸までは3600kmの距離があり、西のピトケアン諸島からも2100km離れている。
人が住む場所としては最も孤立した立地である。

彼らの持っていた舟は雑多な木材を矧(は)ぎ合わせて作った上、水漏れを止める機構も持たない原始的なもので、当時のヨーロッパの新型艇でも十七日もかかるような航海をこなせるようには見えなかった。
彼らはどうやってこの島に入植してきたのか。

さらにヨーロッパ人たちを驚かせたのはもちろん巨人像で、ろくに舟を作るための材料もない枯れ果てた島に、巨大な木造の構造物の助けを借りなければ立てることができない巨石による像が無数に立っているのである。
いったいどうやって作ったのか。

このような謎は、学者たちの好奇心を強く刺激し、しかし孤島であるがゆえの困難もあり、この島の研究は断続的ながら徹底的に行われた。
ノルウェーの探検家トール・ヘイエルダールは、インディオ入植説をとなえ、インカ帝国の巨大石造建築との関連を説いた。
スイスの著述家エーリッヒ・フォン・デニケンは、地球外生命体が不時着し、その高い知性と最先端の工作機械で石像を作ったという想像力豊かな仮説を提出した。

しかし島から掘り出された土器や石器、家屋や聖堂の遺跡、食物の有機堆積物、そして人骨の考古学的考証からは、探検家や著述家のロマンティックな想像力をはるかに超える意外な真相が姿を現したのだ。

この島は、まだ人間が入植する前の数十万年のあいだ、さらには紀元900年頃に入植が始まってから暫くの間は、背の高い樹木と低木の茂みからなる亜熱帯性雨林の島だった。
そして不毛の荒れ地となったイースターには今や営巣する海鳥はほとんどいないが、その頃は太平洋全体でも最も豊かな鳥類の繁殖地であったらしいことがわかっている。
アシカやウミガメ、大型のトカゲなどのタンパク源にも恵まれ、島の社会は大いに繁栄し、少なくとも1万5千人以上の人口を抱えるまでになったようだ。

イースター島の首長と司祭は、かねてより自分たちと神とのつながりを声高に唱え、島民たちに繁栄と豊穣を保証することで支配層としての地位を正当化していた。
このイデオロギーは、大衆を感服させるための大掛かりな建造物と儀式によって強化されていた。
巨人(モアイ)像はその象徴的なものである。

この巨石を加工し、垂直に立てるには大規模なクレーンのような機構が必要で、当時の住民は大量の木材を切り出し、その機構を製作した。

豊かな森林資源に支えられて大きくなった社会には、必然的に権力闘争が起こり、その闘争はより大きな巨人像を作ることによって行われた。
必然的な帰結として島中の樹木はあっという間に刈り尽くされ、全種の樹木が絶滅した。
そこからイースターの文明の終焉がはじまる。

まず、木材をくり抜いて作っていたカヌーが作れなくなり、外洋魚や海獣をタンパク源として摂取できなくなった。
島に営巣していた海鳥類のほとんども姿を消してしまい、従来通り手に入る食糧はネズミだけになってしまった。

また樹木がない土壌は、実や落ちた葉や枝などによる自然堆肥がなくなり、枯渇していく上に、養分の溶脱がどんどん進んでいってしまう。
目に見えて農業の収量が落ちていき、食糧は絶望的に減っていった。

また、冬のイースターは気温10度程度で、強い風雨にさらされる。
この期間を凌ぐための薪が手に入らなくなった。
火葬も不可能になり土葬になった。
衛生状態も悪化し、病気も蔓延しただろう。


それだけではない。
もともとこの事態を引き起こした巨人像は神の恩恵による繁栄と豊穣の象徴なのであり、その保証が絵空事に過ぎなかったことが証明されてしまったことによって、彼らの社会は秩序を失った。

モアイ像は引き倒され、島民同士が残された少ない資源を取り合い、闘争が慢性化した。
その同士討ちは、資源のない環境の中ですぐに食人習慣(カニバリズム)に変容した。

なんという急激な凋落か。
しかもその原因は社会の繁栄がもたらした「不用意な環境破壊」だ。
現代に生きる我々からみれば、自明な不用意さも、その場にいた当事者にとってはそうではない。
そしてその我々だって、その不明さをまだ捨てきれてはいないのだ。

決定的な危機に直面してさえ、彼らが最初にやったことが「モアイを引き倒すこと」であったという象徴性からも僕は目を離すことができない。
ソヴィエト連邦が崩壊した時にはスターリンの、ルーマニアの共産党政府は倒れた時にはチャウシェスクの銅像が、やはり打ち倒されていたではないか。

我々は、自身の文明のステータスがどのようになっているのか、思った以上にわからないまま生きているということを、イースター島文明の滅亡は時空を超えて我々に教えてくれているのではないだろうか。

2013年9月28日土曜日

皆川博子「開かせていただき光栄です」:皆川幻想ワールドと古典的本格ミステリの相克(これは共存ではない)を見よ

皆川博子さんの「薔薇密室」は数年に一度出会うかどうかの傑作だった。

退廃的で、耽美的な小説世界に溺れそうになりながら、そこが夢の中なのか、それとも誰かの妄想の中なのか判別がつかないまま、その不思議な世界をさすらう彼らの旅の行方が気になって気になって最後まで連れて来られてみれば、精緻に構築された論理の世界の上を自分自身が旅をさせられていたことに気付き、唖然とした。

なんと巧みな書き手なのかと思って調べてみると、このときすでに御年75歳。
そこが一番びっくりだよっ!

なんて若々しい想像力なのか。
と、思っていたら今度は2012年に「本格ミステリ大賞」を受賞されたという。
受賞作の「開かせていただき光栄です」が文庫化されたのでさっそく読ませていただいた。


あえて言うなら、この重厚な本格ミステリを彩るキャラクタが少々個性的すぎる嫌いがある。 そこが皆川ワールドなのである。 そうなのだが、結論への道筋に必要なキャラクタが後から造形された感が感じられると、事実リアルでない物語世界は、その仮初のリアリティを簡単に失ってしまうものだ。 「開かせていただく」というのが解剖のことを意味しているというのは、実に皆川さんテイストでなるほどなあ、と頷く。
また時代設定が実に巧みで、まだ医学がそれほど発展していない18世紀のロンドンが舞台になっている。

解剖学が先端科学であると同時に偏見にも晒された時代に、医学の明日のために法を犯してでも屍体を確保し、研究し続ける外科医ダニエルの解剖教室。

今日も違法に入手した妊娠六ヶ月の屍体を解剖しているところに警察が踏み込んでくる。
慌てて秘密の隠し場所に屍体を隠すが、なんとかごまかして、さて続きをと取り出してみると、そこにあるはずのない屍体が隠し場所の奥からさらに二体も出てきた。
四肢を切断された少年と顔を潰された男性の屍体。

なぜ屍体が増えていくのか。
戸惑うダニエルと弟子たちに、治安判事は捜査協力を要請する。
だがその事件の背景には、詩人を夢見て田舎から出てきた少年が携えてきた稀覯本をめぐる恐ろしい運命があったのだ。

あえて言うなら、この重厚な本格ミステリを彩るキャラクタが少々個性的すぎる嫌いがある。
そこが皆川ワールドなのである。
そうなのだが、結論への道筋に必要なキャラクタが後から造形された感が感じられると、事実リアルでない物語世界は、その仮初のリアリティを簡単に失ってしまうものだ。

それでもなお、どう考えても合理的な決着点が想像できない謎の提示からしてもう本当に見事だ。
盲目の判事が、証言を疑いながら吟味を重ね、確かな事実だけを抽出し、行きつ戻りつしながら隠れている真相に近づいていく。
本格ミステリ大賞にふさわしい堂々とした黄金期の古典本格っぷりが素晴らしい。

2013年9月27日金曜日

森晶麿「黒猫の遊歩あるいは美学講義」:この博識の書は僕の読書がいかに甘っちょろいかを暴いてしまった

早川書房が主催しているアガサ・クリスティー賞の第1回受賞作なのだという。

美学・芸術学を専門とする若き大学教授、通称「黒猫」。
彼の同級生で、同じ研究室に所属している女性の大学院生が主任教授から黒猫の「付き人」をつとめるよう命じられる。
駆け出しの研究者である彼女は、エドガー・アラン・ポオを専門にしている。
(この作品の紹介サイトでは「ポウ」と表記されていた。ポー、ポオ、ポウ。様々は表記をされる名前だが、せめて作品での表記ポオに統一すべきだろう)

でたらめな地図に隠された意味。
しゃべる壁に隔てられた青年。
川にふりかけられた香水。
現れた行方不明の住職と失踪した女性研究者。
頭蓋骨を探す映画監督。
楽器なしで奏でられる音楽。

日常に潜む謎は、黒猫の手で美学のロジックで解かれてしまう。
この警察の捜査のような手順を踏まない推理の道筋と、その解説に用いられるボオの名作たちの個性的な解釈がこの小説の読みどころだ。


それにしても筆者の芸術一般に対する博識は、現代の浮薄なサブカルチャー・ミックスの中にあって異彩を放っていて貴重だ。
僕はクラシック音楽を聴くが、何気なく時代区分のようなカタチで使っていた「古典派」と「ロマン派」という言葉の本当の意味合いをこの本によって知った。
音楽の専門書も何冊となく読んだが、本書での「古典派」「ロマン派」のとらえ方が一番腑に落ちた。

本書では、古典派とは精神の高揚のために感情の高まりを抑制しようとする芸術的態度であり、ロマン派は、そうした抑制から解放され感情そのものを芸術として表現しようとする態度である、とする。

この「精神」と「感情」という言葉を厳密に区分する態度こそが哲学であり、美学である。

そしてさらにこの厳密な態度を黒猫は読書に援用する。

そうして生まれるポオの解釈には、巧妙に隠されていた伏線が見事に回収された時のような驚きがあって、読んでいるこちらも思わず「あっ」と声が出てしまう。


だから惜しい。
このミステリ、謎の設定はこの上なく魅力的で、解法も申し分なく個性的だが、ミステリとしては少々「真相」が貧相なのだ。
なんとなく読後感が少年少女向けの小説に似て、これだけの美点にもかかわらず、少し物足りない感じがしてしまうのはそのせいだろう。

本作にはすでに続編が2作出ている。
ぜひこの魅力的で個性的なミステリにふさわしい「真相」を、今度こそ読みたい。ぜひ。

2013年9月22日日曜日

「四月は君の嘘」第7巻:演奏者が命をすり減らして磨く技術は作曲者の意図を再現するためのものか

今一番最新刊が待ち遠しい漫画がこの「四月は君の嘘」。
その7巻が発売された。


かつて国内外の数々のピアノコンクールで優勝し「神童」と呼ばれた有馬公生は、指導者であった母の死をきっかけに、ピアノを弾き始めると、その音が聴こえなくなってしまうようになり、音楽から距離を置くようになる。
3年後、14歳になった公生は幼なじみの椿を通じ、同い年のヴァイオリニスト、宮園かをりと知り合い、かをりの個性的で情熱的な演奏を聞き、音楽を通じてあらためて自分と死んだ母、それらを含む過去のすべてと向き合いはじめる。

今巻では、かをりと共に伴奏で出場するはずだったコンクールに、行きがかりで単独でステージに上がる羽目になり、亡き母との想い出の曲を演奏しているうちに、母の秘めた想いに辿り着く。

もうこの長い演奏シーンは本当に圧巻で、涙が後から後から溢れてきた。
実際には音が聴こえない漫画という器に載った演奏は、実際のどんな演奏とも違う感動を与えてくれる。
でも、それはやはり音楽の感動なのだと思う。
それは僕達が、音楽には本当にそういう力があることを知っているからだ。

この有馬公生の奇跡の演奏に、審査側が漏らす「演奏者は作曲者の意図を再現するためにいる」という思想が対置されている。
しかしこの思想は、作曲者の意図だってまた演奏者の人生の範囲でしか解釈されえないという側面を無視している。
どんな楽曲も、作曲者の人生をかけた設計図を、演奏者の人生をかけた表現で描き出してこそ完成するのだと僕は思う。
それと同じ、表現の相克の感動が、この「四月は君の嘘」という漫画には、楽曲を漫画家の人生をかけた表現で描き出されている。

だからこの漫画は素晴らしい。
マエストロの名演に酔うように何度も何度も味わいたい作品だ。

2013年9月20日金曜日

デニス・ルヘイン「夜に生きる」:とびっきりの文学的愉悦に支えられて活写されたアメリカ裏面史は、現代に生きる我々の心の隅を照らす普遍の灯りだった

クリント・イーストウッド監督の「ミスティック・リバー」という映画を観た時、「許されざる者」にも通ずる人間の業の深さや、それがもたらす善と悪の境界を巡る葛藤に放心した。
また、マーティン・スコセッシ監督の「シャッター・アイランド」を観た時も、人の心の狂気と正気の境界と、その尊厳を守ろうとするキツい戦いのドラマに痺れた。

後になってこの二つの映画の原作がデニス・ルヘインという同じ作家によるものだと知った。

彼の最新刊「夜に生きる」も、ベン・アフレックによる映画化が決定していると聞いて、先に原作を読んでみたくなって手にとった。


その「夜に生きる」にもミスティック川が登場する。
禁酒法時代のボストンはギャングの街だ。
この作品においても、ミスティック川は人間のあらゆる想念を巻き込みながら流れていく。しかし、大きく蛇行していくアメリカ、いや世界の命運を象徴してか、この物語はミスティック川を離れ、フロリダ州のタンパへ、さらにキューバへと舞台を移していく。

主人公は、ジョー・コグリン。警察署長トマス・コグリンの息子でありながら、「自分でルールを決める」生き方を求めてギャングの手下として生きていた。

強盗に入った賭博場で知り合ったエマという女と恋に落ちるが、エマは対立する組織のボスの情婦であった。
その恋は悲劇を引き起こし、ジョーは囚人となる。
父の助けで刑務所内でチャンスを掴むが、その代償として父そのものを失う。

ジョーは、刑務所で知己を得たギャングの首領からシマを得て、ビジネスを成功させのし上がっていく。
その上り階段のさなかにも繰り返される裏切りと殺し。
そして新しい恋。
その恋は新しい生きがいを生み、彼をただのギャング以上の存在にしていく。

それでもそれは血塗られた道。
前に進んでいるように見えても、彼は失い続けている。
まるで、失うためにあらゆるものを得ているかのようだ。


「夜に生きる」が描いているのは殺伐としたアメリカの裏面史そのものだが、作品から得られる文学的愉悦はとびっきりだ。

気の利いた台詞。
教養に溢れた修辞的表現。
歴史背景を巧みに織り込んで描かれる見事な心象風景。

刑務所の中の人間模様や、クー・クラックス・クランの人々のねじ曲がった信仰と暴力、キューバの絶対的な貧困の中で少年たちがすがる「野球」という名の希望。
そういった人間を描く描写の中に、ルヘインの文学的技術が見事に結晶化していて、一文読むごとに、登場人物の心まるごとありありと脳裏に再現され、読んでいる自分自身の、もう忘れかけていた過去までが照らされていく。

この深みのある人間描写こそが、ルヘインの作品の多くが映画化される理由なのだろう。
そしてそれは映画化されたものが一級のものになる理由でもある。
どうやら続編も予定されているようだし、映画も楽しみだ。
角川から出版されている「私立探偵パトリック&アンジー」シリーズにも興味がわく。(コチラの方は、デニス・「レ」ヘインと表記されているが、同一人物である)


2013年9月19日木曜日

火星のプリンセスの映画化「ジョン・カーター」は、誰のための映画であるべきだったのか

「火星のプリンセス」が映画化されると聞いて、興奮しないSFファンはいないだろう。
魅力的な主人公と、SF史上に残るヒロイン、デジャー・ソリスの恋。
奇想天外な火星人社会と恐ろしくも魅力的なクリーチャーたち。
そしてなんといっても異形の火星犬ウーラの外見を裏切る忠実さと能力といったら!
めまぐるしく展開する物語構成も含めて、これが映画になるならぜひ観てみたいと、少年時代にスペースオペラに胸を熱くした者なら誰でも思うはずだ。

そしてそれは実現した。
したものの、ファンは一抹の不安を覚えたはずだ。
製作がディズニーで、2億5000万ドルを投じる「ウォルト・ディズニー生誕110周年記念作」なのだというのだから。

スペースオペラというのは、科学的根拠なんてそっちのけの荒唐無稽さが面白いのだし、安っぽい色気こそが似合うのだし、クリーチャーはグロテスクだからこそイイのである。
万人が面白いと思うようなものではないのだ。

これは中途半端なものになりそうだぞ、と多くのファンは思ったに違いないし、報道でも興行的には映画史に残る大失敗になりそうだと報じられていた。


実際に観てみると、半分は予想通りで、半分は嬉しい裏切りが待っていた。

監督を務めたアンドリュー・スタントン監督(ピクサー)は、バロウズへの愛情をこの映画にきちんと盛り込んでいる。
映画の序盤、ジョン・カーターが買い物をするところで、店主に黄金を突きつけたカーターは、豆(beans)を出せと大声で怒鳴る。
これはエドガー・ライス・バローズが、自分の書いた処女作が余りに突飛な作品であったために、Normal Bean(普通のソラ豆=正気の男)というペンネームでデビューしようとしたという、故野田昌宏宇宙軍大元帥がご著書で紹介してくれた有名なエピソードに引っかけた洒落だ。
もうこれだけでニヤリなのだ。嬉しいではないか。


昔のSFファンの初恋の人はだいたいデジャー・ソリスか、ジョオン・ランドールと相場が決まっているが、正気を疑われるのを覚悟で個人的な見解を申し上げれば、日本では武部本一郎画伯の挿絵の清楚さでデジャー・ソリスが半馬身ほど有利だったと思う。
鶴田謙二氏の挿絵で復活したジョオンがすごい勢いで形勢逆転したわけだが、それに関してはここで語られるべき話ではないだろう。

で、普通に考えれば、このデジャー役にハリウッドの有名美人女優をあてて興行収入を稼ぐというのが常道だろうが、ここでもスペースオペラのいい意味での「安っぽさ」を監督は尊重してくれている。

しかし、だ。
ものが「ウォルト・ディズニー生誕110周年記念作」なのだ。そんなキッチュな造りでスポンサーが納得するはずがないのである。
また、アンドリュー・スタントン監督の所属するピクサーは、集団でストーリー作りをすることで知られている。
結果物語は整理され、科学的整合性を得て、非常に安定感のある物語になった。

この安定感が「敵」なのだよ。
ジョン・カーターが火星へ移動する理屈は、原作では「不思議なことに」の一言ですましている。
これに納得行く説明を与えて、説明する画面作って、登場人物出して、とやっているうちに普通のSF映画になってくる。
そうすると今度は、重力の差で凄いジャンプが出来るということだけが優位性だったジョン・カーターに、どうしてあそこまでの大活躍ができるんだろうかという、まあこの物語の背骨ともいえる構造に亀裂を入れてしまう。

だから今度はカーターの人物造形に力を入れることになるが、その際、ピクサーの方程式に合わせるために、大切なものに執着するカーター像を作る必要があって、地球にも妻子がいたことにしなくちゃならなくなる。
唐突だし、書き込み不足と感じられてもしかたないだろう。

反面、いいこともある。
移動の根拠に使った、不思議な力を使う民族「サーン」は、原作には出てこない。
もっと後の続編に出てくるのだ。
これを地球往復のエピソードに使ったことで新しい物語の幅が出てきたと思う。

続編への自然な導入にもなるだろう。
この映画は故スティーブ・ジョブス氏に捧げられている。
続編には、唯我独尊と言われても我が道を貫いた故スティーブ・ジョブスに倣って、これがいったい誰のための映画であるべきだったのか、をもう一度考えていただきたいと心から思う。

2013年9月16日月曜日

コニー・ウィリス「航路」:心と体はやはりどうしようもなく不可分なんだよ

現代アメリカSF界を代表するストーリー・テラー、コニー・ウィリスの大傑作「航路」は、それがヴィレッジ・ブックスから出版されていたという不幸から、広く知られていたとはいえない。

ヴィレッジ・ブックスは、2001年のソニー・マガジンズのメディア事業撤退に際して作られた後継レーベルであったが、2006年のソニー系列会社大規模リストラで会社ごと売却されてしまった。
そのような事情で、この世紀の大傑作は永い間重版されず、僕も手にとる機会がなかった。

商業出版なんだから、こういうこともあるだろう。しかし、そういう事情の犠牲になるべきでない作品というものもあるのだ。
出版という事業には「ココロザシ」が必要だ。

で、その志ある出版社のひとつである早川書房が、メインレーベルのハヤカワSF文庫から「航路」を再出版してくださった。
発売日を待ちに待って、入手。

上下巻にわたる大作で、しかもコニー・ウィリス作品なんだから、どうせ読み始めたら他のことはできなくなる。
用事のない休日を待っていてなかなか読み始められなかったが、昨日、雨の日曜日。
「今日だな」と思い定め、ページを開いた。

まったくの予想通り、夜の11時までほぼぶっ通しで読み続け読了した。


傑作なのである。
この作品に関してだけは、あらすじを書くような野暮はやめるが、これはSFのフォーマットでなければ書けなかった「心」の物語なんだと思う。

村上春樹の「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の世界の終わり側の物語を医学的考証に基づいて書いた、とでもいえばイメージしてもらえるのではないか。

言うまでもなく、心は体と一体だ。
そんな身体のメカニズムが「意志」を帯びるということの不思議を、この物語は人格の形成プロセスに仮託して描いているのだと思う。
人間が他者とともに時間の中を生きている、ということ自体が「心」の一部なのだと。

ひたすらに実験データにしがみつき、脳内物質の濃度に囚われて人間を見ることがなかった科学者と、自分の人生を足を使って振り返り、多くの人と再会し、話を聴き続けた実験助手がたどり着いた場所がどれだけ隔たっていたか!

そしてこの隔たりを文学の奇跡で埋めてしまわなかった作者の英断にも拍手を贈りたい。
そんなことをしたら、文学史にきっと残る、あの最後の一文が生まれなかっただろうから。

この一文が指し示す心のありようこそ、僕が「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」のラスト・シーンに欠けていると感じていたものだ。
それまでの記憶や、関わった者たちの想いを背負ってひとつの世界となった「心」が消えて行く時に必要なものは、運命への諦念ではないはずだ。
そして僕にも、「その時」は来る。
その時、彼女のように力強い「祈り」の言葉が僕の中からも出てくるといいと思う。

2013年9月10日火曜日

トマス・H・クック「ローラ・フェイとの最後の会話」:時が満ちてこそ気付く親子の愛情の盲目性こそがこのミステリのトリックである

自分に娘ができ、子育てに悩み、成長に喜ぶ日々を送ってみると、自分がいかに両親に愛されて育てられたかに気付く。
そして子どもの頃、思うようにならないことのすべてを親のせいにしてみたり、感謝すべきことにも、親が子どもを育てるのは当たり前のことさ、とうそぶいてみせた自分が恥ずかしくてたまらない気持ちになる。

親子の愛情とはまるで時間に隔てられたマジックミラーのようだ。
時が満ちなければ決して見ることができない。
トマス・H・クックの「ローラ・フェイとの最後の会話」では、この不思議な盲目性をミステリの構造の中に隠し持っている。



物語の主人公ルークはアラバマ州グレンヴィルという田舎町の高校で抜きんでた秀才ということで知られていた。担任はハーバードへの進学を薦め、市長の推薦も受けた。

彼の夢は市井の人々を生き生きと描いた小説を書いて世間に認められることだった。
そしてハーバードから入学許可の通知が来る、しかし肝心の奨学金は認められなかった。

父親はだらしない性格で、流行らないバラエティ・ストアを開いていた。雑貨屋そのままに、商品の整理も出来ていない、父親の性格そのもののような雑然とした店だった。

母は体が弱く、そのころはもう回復の見込みの無い病気に蝕まれていた。
ルークは店員の女(ロ-ラ・フェイ)と父の関係を疑っていた、倉庫を探って浮気を確信した。そして愛して尊敬する母をいっそう不憫に思っていた。


そして父が射殺される。犯人はローラ・フェイの別居中の夫でウディという男だった。

父の保険金が20万ドルあると聞いてルークは胸をなでおろす。
受取人の母はそれを自分の進学資金に充ててくれるだろう。
ところが父は亡くなる二ヶ月も前に保険も解約して、手にしたという三万ドルもなくなっていた。負債を抱えていた父の死後、債権者に店も品物も母の貯金も渡ってしまう。

彼は絶望して途方にくれた。
しかし重病だった母が亡くなり、家を売って学費が出来た。

ルークはハーバードを出たが、思い通りの本は書けなかった。
しかし何冊か本を出し、小さい大学で小さな講座を持ち、時々は地味な講演を頼まれる。夢に描いた姿とは程遠いが、今回も自分の新刊本を並べてサイン会の席に座っている。
そんなとき、講演先のセントルイスに彼女は現れた。

27歳の若さに輝いて父を誘惑した娘は、老いの影の忍び寄った47歳の太目の女になっていた。
彼女はル-クに話があるといい、気が乗らないままにルークはホテルのラウンジに誘う。

ローラ・フェイは馴染みのないカクテルを前に、話し始める。彼女はその後事件を追って調べつくしていた。
ルークは謂れの無い緊張感とおびえを感じる。彼の過去はそういうものと「輝かしい青春」が混在するものであったが、すべては思い出したくないものだった。
ローラは「ルークの旅路」に迫ってくる。ほのかな当てこすりと、遠まわしな感想。それはルークの傷をまた開かせる時間だった。

そして、過去のあの時、事件の原因と結果が、二人の前に真実の光景を広げてみせる。


その二人の謎に満ちた会話の中にクックがしかけたいくつものミスリードをかいくぐり、話題の一つごとに明らかになっていく嘘に翻弄され、辿り着いた結末がもたらす不思議な感動は、ミステリのそれではなく、スタインベックの諸作から感じられるものに似ている。

結局のところこの作品に書かれているのは「謎=ミステリ」ではない。
「愛情」そのものだ。
その愛情そのものが、内包する時間軸をも味方につけて我々を欺く謎なのだ。

短いエンディングを読み終えた後、それまでこの物語に感じていた重苦しさは姿を消し、不思議にシーリア・フレムリンの中編のような、とても愛らしい、人間の良心のようなものにほっとする、いつまでも手元に置いておきたい書物に見えてくるのだ。

アメリカ・サスペンス・ミステリの懐の深さを感じる一冊だ。