2015年1月28日水曜日

日本語と私:大野晋

最近、北海道の砂川市という小さな街にある、いわた書店の一万円選書が話題だ。
その人の嗜好にあった本を、これまでの読書歴から店主が勘案して一万円分の本をセレクトして送ってくれるというサーヴィス。

店主のブログなどを読むにつけ、驚かせてくれそうで気になるが、自分で読みたいと思う本で僕の時間は精一杯だ。
逆にこの本ならすべての人に読んで欲しい、と思う本ならある。
でも書店さんのように責任はとれないからブログに書く程度にしておこう。

今なら断然この本。
大野晋先生の「日本語と私」だ。


日本語と私 (河出文庫)
日本語と私 (河出文庫)
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大野 晋
河出書房新社
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国語学者が著した、学問としての「日本語」との格闘の記録。
だが、ここにはあらゆる働く人への示唆が満ちている。

夏目漱石の小説からすべての「は」と「が」の用法を書き抜いて、はじめて主格の助詞の用法を知る。
いくつかの時代にまたがる古い辞書をくまなくひいて、はじめて「お」と「を」の仮名遣いの相違の真意を識る。
コソ・・メの用例を知りうるだけ集めて吟味をして、万葉集の句に異解を示す。

誰もがハンナ・アーレントの言う「イェルサレムのアイヒマン」になる可能性がある。
そうならないための本当の確信とは、このような徹底した作業によってしか生まれないということだろう。

その大野先生から見れば、現代の国語教育はまことに不本意なものだろう。
古今東西の名作を2~3ページに細切れにし、「犬君が雀を逃した」という部分を「源氏物語」だと言って教える。こんな非道いことはないと嘆く。
このような形ばかりの平等主義を教育に導入したものこそ「アイヒマン」の精神なのだと感じられる。

では私学による個性的な教育に期待しようということになるが、そうなると経済格差が教育成果にまで及び、さらなる格差の拡大につながる。
北欧のように、教材は教員の自由という行き方がいいのではないかという思いが募るところだ。

教育改革に話が及べば、本書にも終戦以降の教育改革の歴史が記されており興味深い。
こうある。

戦後は、国語教育に、生活経験学習という行き方がアメリカから輸入された。文部省はそれを新教育と呼んでいた。従来の教育を暗記偏重、生活から遊離した知識の習得と非難し、実生活を通じた生きた知識を身につけなくてはいけないととなえた。

今さかんに議論されている大学入試の改革でも聞かれる言葉だ。
いつの時代も、それまでの教育は「知識偏重」と見えるのである。
ということはだ。
要するに、やはり教育とはどこまでいっても「暗記による知識の習得」であるということなのだろう。
新しい時代への対応のために、それまでの教育を批判しなくてはならなくなった時、ほかに言いようがないから「知識偏重」と言っているだけのことだ。

一見クイズのように見える問題が入試に出たとして、問うているものの本質がその解答限りのものであるという考え方は少し偏狭なのではないか。

もし大学入試改革が、ネットでの軽薄な言説のように、部分を切り取って批判を積む手法で行われるとしたら、戦後から今までずっとやってきた迷い道と同じだ。
こんなときこそ、大野晋先生が日本語と格闘するときにお見せになる、あくまでも真摯に事実と仮説を行き来する方法が採られるといいと思っている。
そして「働く」ということのすべてのシーンで、この真摯さが必要とされているはずだ。
その意味で、あらゆる人におすすめしたいと思う本なのである。

2015年1月15日木曜日

ぼくの住まい論:内田樹

内田樹先生の「日本辺境論」からは、「中華思想」というアジア全域を舞台に、想像を絶する長い時間をかけて展開し続けた壮大な政権交代システムのことを学んだ。

日本辺境論 (新潮新書)
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内田 樹
新潮社
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「現代霊性論」という著作からは、信仰のあるなしにかかわらず、「死者を正しく弔うこと」への畏れの感情があることを学んだ。なぜなら人は死者のほんとうの気持ちがわからないからだ。

現代霊性論 (講談社文庫)
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内田 樹 釈 徹宗
講談社 (2013-04-12)
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これらの「論」には定性的なエヴィデンスがない。
しかし心が納得する。
それはきっと自分自身のこれまでの経験が、その論を支えている思考の展開を支持するからだろうと思う。


新潮文庫に新しく収録された「ぼくの住まい論」は、それらよりもずっと身近なテーマを題材にしているが、論調は変わらない。

ぼくの住まい論 (新潮文庫)
内田 樹
新潮社 (2014-12-22)
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冒頭から、誰のものでもなかったはずの土地に、勝手に線を引いて売り買いする権利はどこから発生したのか、という刺激的な疑問の提起からこの本ははじまる。
家を建てるための最初の一歩である「土地の入手」への疑義からこの本ははじまるのである。

続いて、一般的な家族の有り様や、家の構造が、家族の中で最も弱いものをかばうようになっていないことに強い疑義が提示される。
家が、傷つき疲れたものが体を癒やし英気を養うためのものでなく、強者が住まうことが前提になっているから、バリアフリー化をしたり、手すりをいっぱいつけたりしなくてはならない。
その家に住めなくなった者のための施設も必要になる。
国家予算の半分ちかくを社会保障に費やす必要があるのは、個々の家に福祉の“思想”がないからだと喝破しているのである。

また家を建てるための材木を探す中で、グローバリズムが日本の林業を壊滅寸前まで追いやっている現状に直面する。
“安いからこっちを買う”という精神の貧しさ。
近隣の産業を壊滅させれば、今まで自分の生活を消費者として支えてくれていた隣人を失うことに気付けない愚かしさを指摘する。

左官職人や瓦職人の生き方から、分業でないことの力強さを語る。
寺田寅彦の「文明が進むほど、自然の暴威に破壊されるものが大きくなる」という言葉を引用し、レヴィ・ストロースの言う、間に合わせで生きていく技術「ブリコラージュ」に言及する。
なぜ分業し高度化するのか。
それは経済的成長のためだ。
では、経済的成長とは、いや有り体に「儲かる」ってどういうことだ。
内田先生、ここに至ってカネをたくさん得ることへの疑義を呈する。

「交換」を効率的に行うために作られた“虚構”であるところの貨幣は、それ自体に価値はない。
交換して得られるべきものも、自分の身体のサイズを超えて得る意味は無い。
サイズを超えて求めれば、貨幣で貨幣を買うしかない。
この滑稽なゲームが我々が現在金融経済とよんでいるものの正体であると。

家作りの工程に併せて、内田先生の社会観がひとつの形になっていく見事な論説集と思う。
いや、意地悪な言い方をすれば、今まで出されてきた衒学的で寄せ集め感の強い論考集の多くが、家作りという人間存在を嫌でも「表現」してしまうテーマの元でうまく統合された、というべきか。

効率重視で勝つことが最優先の世界への疑義。
弱き者への視線が社会を根本から変えていくというビジョン。
現代にこそ提示されるべき「小国寡民」と「アジール」の思想。
それらのすべてが「住まいの思想」の中に統合され得ると証明してみせたことが本書の真の果実なのである