2013年7月10日水曜日

「人間の建設」知には情を説得する力はない

「人間の建設」



これは評論家小林秀雄と、他変数解析函数論で世界中の数学者が挫折した三つの大問題をひとりで全部解決してしまったという大数学者、岡潔先生の対談集だ。

まさに知の巨人としかいいようのないこの人たちは、文系代表小林秀雄からアインシュタインと哲学者ベルクソンの確執のエピソードが飛び出したり、理系代表岡先生からドストエフスキーやらピカソの論評が飛び出したりでまったく油断できない。

さらに小林の言葉には独特の難解さがつきまとう。
論理が飛躍しているからだ。

この本は対談集だから、対談相手に伝わるように例解してくれるのでその飛躍の正体がわかるが、それはその言葉の本来の成り立ちとは関係のない彼自身の「世界の見方」のようなものを付加させて語られているということだと思う。

芭蕉の「不易流行」は、句作には「変わらないもの」も「はやりもの」もどちらも大事だ、という意味の言葉だが、小林にかかるとこの「不易」という言葉に、「詩的言語」は必ず幼時の記憶から生まれていると言う彼の確信を織り込まれて語られる。
だから「伝統的」という意味合いの不易という言葉に「個人の記憶」という意味合いがまとわりつくのだ。

逆に岡先生は、対談で取り上げられる様々なテーマの主題をことごとく「情緒」という言葉ひとつに集約させていく。

小林は、だから岡にとっての「情緒」という言葉にどんな「個人の記憶」がからみついているのかを暴こうと、「色彩」がゴッホの絵を変容させていったという話になれば、ゴッホがどれほど色彩を芸術的にではなく心理学的に捉えていたかというエピソードを持ち出し、トルストイの小説の「稚気」に話が及べば、ドストエフスキーの俗な邪心に触れ、都度都度激しく「知」と「知」が激突し、小心な僕は思わず目を背けることさえあった。

しかし、この知の奔流に圧倒されてはいけない。

この対談で彼らが一貫して言っていることは、結局のところ「知には情を説得する力はない」ということだからだ。

近年の原発事故後のエネルギー政策の議論が空転している主な要因が、低線量被爆での発癌率は受動喫煙のそれと同じかやや低い程度と知っても、「怖さ」が薄れるわけではない、というあたりにあるところを見ても、まさに「知には情を説得する力はない」のである。


この本は1965年の対談だが、いまだ我々はこの問題を解決できていないようだ。
であれば、さらに巨人たちの言葉を続けて聞こう。
彼らはさらにこう言い募る。

万人の感情を満足させるほどの力は「確信」したものからしか生まれないと。また、確信するまでは事物は複雑で言葉にならないと。だから、確信していない人を確信するように説得することは端から出来はしないし、余計な理屈が並ぶだけで意味がないと。

結局のところ我々が社会の中で交わしている言葉の多くが、「この体系の中には矛盾はない」ことだけを証明しようとやっきになっていて、個人が実物の中に感じる「直感」のようなものを感じる力が失われているのではないか、と彼らは訝っているのだ。

そして自然、彼らは理屈と対症療法に塗りこめられた教育の問題に切り込んでいく。
そして意味がわからなくとも古典を丸覚えしたご自身たちの経験が長い思索の人生の中でどれほど大きな効用をもたらしたかについて語っている。

まさに「人間の建設」としての教育を憂う、本書は箴言のカタマリだ。

20年弱、間接的にではあるが教育という事業に関わった一人としてまことに胸が痛い本だった。

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