2014年2月10日月曜日

文学の受難の時代

最近ネットで話題の中学生が書いたという、太宰の「走れメロス」のメロスは実は走っていなかったという論考を最初読んだ時、面白いことを考える子もいるもんだな、と思った。

 微笑ましいこの小さな才能をみんなでシェアして楽しむのも悪くない風情に感じた。

そして、さらに叶うなら、文学を愛する者の立場から、大人になってしまった僕達がもう一度メロスを読む絶好の機会になるともっといい、と思っている。
 

そして、その時こそはこの少年の労作のことは忘れていただきたい。
メロスが妹の村に向かう場面を太宰はこう書いている。

「メロスはその夜、一睡もせず十里の路を急ぎに急いで、村へ到着したのは、翌あくる日の午前、陽は既に高く昇って、村人たちは野に出て仕事をはじめていた。メロスの十六の妹も、きょうは兄の代りに羊群の番をしていた。よろめいて歩いて来る兄の、疲労困憊(こんぱい)の姿を見つけて驚いた。」

 実際には急ぎ足に歩いても充分着く距離を踏破したメロスが、体力がないせいかよろめいている、と読むべきではない、と僕は思う。
 

ぜひ、今一度、冒頭にある、王とメロスとの諍いの場面。その王のセリフに注目してご再読いただきたい。(僕はこの冒頭部こそが走れメロスの最重要部と思っています)

 大人になった今、この王の気持には共感出来る部分がある。
むろん残虐な暴君を認めるわけではないが、
 
「仕方の無いやつじゃ。おまえには、わしの孤独がわからぬ。」
「疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心は、あてにならない。人間は、もともと私慾のかたまりさ。信じては、ならぬ。」
 
という王の言葉に、なにか思うに任せない社会というものへの諦めのようなものを感じ、他人事には思われないのだ。

そして、それを許せないメロスの「青臭さ」が、彼を走らせている。
友の命をかけてまで走らせている。
だから彼の走りは「燃焼」であり、「焦燥」なのだ。
そこに計算は、きっとないのだ。

 太宰は、そのような男としてメロスを描いたのだ。

そして、同時に確かに太宰には、このような距離と速度と時間の関係について「計算」をしておく義務があったように、僕も思う。
この論考を書いた中学生が発動した一級のユーモアに身を委ねて、文学を読む態度についての考察ができた。
 
 
 
だが、こちらはユーモアでは済まない。
村上春樹が文藝春秋誌に掲載した短編「ドライブ・マイ・カー」の一件だ。
 
 
小説内で、北海道中頓別町出身の女性が、車窓から火のついたたばこを外に投げ捨て、主人公が「たぶん中頓別町ではみんなが普通にやっていることなのだろう」と思う場面が描かれていたのだそうだ。
 
これに中頓別町議が抗議。
 
ノーベル文学賞候補となる作家が事実と異なることを小説にしたことが町のイメージダウンにつながり、このまま放置すれば、本町への偏見と誤解が広がる訳ですから、作家に遺憾の意を伝え、なんらかの対処を求めることの緊急性は高いと思います。

活字化の事実を知りながら公式には何もしないということは、不本意な表現を認めることになります。環境美化や交通安全に励む町の代表である議員や首長は、こうした問題に敏感に反応すべきでしょう。

と述べている。
 
この事案からは、常に他者の失点を探して、自分の得点を上げることが求められる現代の病も感じる。
 
そして、決定的に文学を読む態度が、この国から失われ始めている危機感を感じる。
 
北海道中頓別町出身の女性が、車窓から火のついたたばこを外に投げ捨て、主人公が「たぶん中頓別町ではみんなが普通にやっていることなのだろう」と思う
さて、この文中に、「中頓別町で、たばこを投げ捨てている人」は登場しているだろうか。
もちろんしていない。
 
この「ドライブ・マイ・カー」という短編小説を、小説として読んだ時、中頓別町に悪いイメージを抱く人はいないだろうと思うが、それは、分析的に読まなくても、中頓別町の何かの部分がたばこのポイ捨てをさせる、というつながりがそもそも書かれていないから、読者が感じ取らないからなのだ。
 
だが、中頓別町の関係者だけは、中頓別町の内実についてそれぞれ思うところを持っている。
その内実が、この短編小説の「中頓別町」という単語に強く結びついて、読み方が変わってしまう。
文学とはそういうものなのである。
 
とはいえ、それは読み違いであることには変わりなく、こういう読み違いをしないために、我々は教育というものを受けている。
しかしその教育にも実効はなく、だから日本人の読書時間は極限まで減っている。
結果として、このようないいがかりがまかり通るのである。
 
だから町議の懸念は見当違いだと思うが、それでもこれからは実在の町名で小説を書くことは控えたほうがいいのかもしれない、と思う。
 
だって、これが出版されたら、けっこうな人数が、北海道旅行のついでに中頓別町に行って、レンタカーの窓から火のついたままのたばこを投げ捨てて、写真をとって、「中頓別町で、たばこを投げ捨てているなう」とかやりそうな気がするもの。
 

村上春樹氏は、単行本化の際、町名を変更する旨を発言しており、事実上事態は沈静化したと言えるだろう。
文学の受難の時代は続く。
まいったね。

2014年2月1日土曜日

アガサ・クリスティ「なぜエヴァンズに頼まなかったのか?」

米澤穂信の「古典部シリーズ」は原作もいいが、京都アニメーションの渾身のアニメ化が素晴らしいわけで、もちろん全作読破&視聴している。

原作での第二作にあたる「愚者のエンドロール」は、学園祭の出し物に自主制作された映画が、結末部の撮影前に脚本担当の女生徒が倒れてしまうという事態に、みんなで脚本家の意図した真の結末を推理するというお話だ。

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筆者はあとがきにて、バークリーの「毒入りチョコレート事件」と我孫子武丸の「探偵映画」からの影響を認めているが、サブタイトルには「Why didn't she ask EBA?」と記しており、これはアガサ・クリスティの「Why didn't they ask Evans?」(なぜエヴァンズに頼まなかったのか?)から名付けられている。


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ストーリーには影響を受けていないと明言されているが、この、なぜエヴァンズに頼まなかったのか?というタイトル。
なんとも気になるではないか(古典部だけに)。


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というわけで、久しぶりにクリスティを読んでみたのだが、これ無名の作と思ってたけど、実に面白い。

お転婆な貴族の少女フランキーが実にいきいきしてるし、これに純真な鈍感少年がセットになってて、もう現代のライトノベルに遜色ないヒット性の高いキャラクター造形がとてもいい。

二転三転していくプロットも、これぞ推理小説!という感じでドキドキするし、何気ない証拠から思いがけない真相を思いつかれた時に、やられた!と思うのが真の本格魂というものである。
クリスティ、やっぱすごいな、と思って見ると、本作はあのオリエント急行殺人事件と同年の作。納得の筆さばき。ノリにノッてるわ。

爽快このうえないラストも含め、読後もずっと手元においておきたい愛着ある一作となりました。