2014年1月24日金曜日

マーク・プライヤー「古書店主」:ミステリの魂

ハヤカワから出た「古書店主」を読んだ。

古書店主 (ハヤカワ文庫NV)
マーク・プライヤー
早川書房
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あらすじを読むと、パリ、セーヌ川河岸で古書店主が次々と消える事件を扱っているようで、パッと見ミステリに見える。
しかし、これはハヤカワ文庫NVというミステリ、SF以外のフィクションを扱うレーベルに分類されているのだ。

確かにミステリ用レーベルHMとNVレーベルとの境界はあいまいではある。
ハードボイルドの傑作中の傑作「深夜プラス1」はHMだが、物語に探偵も出てこないし、謎解き要素もほとんどない。チャンドラーの諸作も名作ではあれど、マーロウは事件の整理はしても謎は解かない。しかしそれでもあれを(広義の)ミステリに分類すべきでないという人はいないだろう。
これらの冒険活劇を広義のミステリに含めるのなら、「鷲は舞い降りた」だってそうとうなレベルのミステリだと思うが、あれはNV扱いである。

さて「古書店主」だが、実際に読んでみるとこれはミステリ以外の何物でもない。
古書店主たちを殺害しているのは誰なのか。
一見仲間に見えるように描かれて、共感を誘うところがかえって怪しい、主人公を取り巻く個性的な登場人物たち。
裏側で何やら怪しげに蠢く犯罪組織の影。
さらに要所要所でチラリと見え隠れするクリスティとホームズへのオマージュ。

しかしそれでも、筆者がラストに練りこんだ、いかにも熱心なミステリ・ファンらしいトリックを読み終えて本を閉じた今、これをNVに分類した編集者に僕も同意せざるを得ない。
この小説はよくできた「ミステリ仕立てのストーリイ」ではあっても、ミステリの「魂」は備えていないから。

どんな人の人生も清廉潔白ではない。
友達についてしまった嘘。
拾ったけど警察に届けなかったコイン。
躊躇しているうちに譲るタイミングを失った電車の席。
もしかしたらもっと大きな罪の記憶を持っている人もいるかもしれない。

我々はミステリを読むとき、そうとは知らず、そのような人間の背徳を「そういうこともあるよね」と承認してもらいたいと望んでいる。
そしてその代弁者が糾弾されているのを安全な場所から見て、ほっとしている。
「善」の心地よさを右手に、しかし心の中に確かにある妬みや他者を憎む気持ちを左手に持って、その両手の重みが釣り合っているのが人間なんだと僕らは心のどこかで理解している。
それを左手の方から見つめていくのがミステリの魂なんだと僕は思う。

「古書店主」は、あくまで右手側の小説で、犯罪さえも右手から見て書いている。最後のトリックだけが唐突に見えるのはそのせいだ。真犯人にこっそりと共感することもできない。心の裏側の真意が描かれていないからだ。

もちろんだからといって詰まらない小説だ、ということにはならない。
後半のスピーディな展開に興奮させられるし、ちょっと都合のよいラブ・アフェアも不快でなく読んでいて楽しい。
ましてやこれが処女作だというのだから恐ろしい才能だ。
次作にも期待したいと思う。

2014年1月20日月曜日

「直観を磨くもの: 小林秀雄対話集」(3)湯川秀樹編〜人間の進歩について

小林秀雄対話集「直感を磨くもの」収録の第三対談。
ここがおそらくこの対談集のピークか。
日本人初のノーベル賞受賞者湯川秀樹先生の登場だ。

小林は世界の湯川を前に、無学ゆえに盲蛇で愚問を発します、と前置いて、しかし科学の発展の終着に原子爆弾が破裂した、と大きなテーマも傍らに置いた。

湯川はそれに応え、科学が必ず「観測」を伴い、故に人間性と無縁ではないと指摘する。
原子や分子や、量子って言ったって、それを調べるための道具まで原子に還すわけにはいかんのだからと。
小林もそれに応え、確率論から、ラジウムの壊れ方の哲学的解釈(現代ならば、ああシュレディンガーの猫ね、で終わりなのだが、当時まだこの表現は考案されていない)、エントロピー論まで話が及んでいく。
そして二人は科学でも文学でも「主義」とか「派閥」のようなものがどれほど無意味なもので、それを考えた「人間」というものにすべて帰結していくという方向に収束していく。

そして小林から、このようなまとめの言葉が起案される。
「ある行為者の個人的な無意識の純粋な努力というものが歴史のうちに埋没していて、傍観者には見えない。その行為者がやむなく着た社会的着物だけが歴史家に見える。」

例えば、なんとか史観みたいな名前のついたものを俎に載せて議論することの無意味さを往時の知の巨人たちは喝破しているのだ。
さらに言えば、それは教育によって得られるような教養的知見ではない。

教養=カルチュアは「耕す」という意味である。栽培法を工夫して林檎の味を良くする、のが本来のカルチュアの意味で、人間に当て嵌めて現在の語義を得た。
だからそれは、人間が素の状態で持っている基本的能力を最大限伸ばしていくことが目的とされるものである。それが教育の原理だ。
歴史という人間の営みの複雑な因果律を「感じ取る」のに必要な「個」の完成に必要なものは「道徳原理」なのであって、それは「教育原理」とは別のものなのではないか。
少なくとも日本全国共通の理想に近づけていくために考案されたカリキュラムで教えられることではないだろう。(その意味で個を伸ばすための教育というのは字義的にも矛盾している)
ましてやネットに溢れる情報で何がわかるというのか。
現代の情報過多な我々が犯しがちな思考停止の罪についての、これは予言なのだろう。

そして話は、また様々に迂回しながら、小林が用意した「原子力」の問題に接近していく。
湯川博士は、
「戦争が惹き起こされて相当の数の人が死ぬといっても、それは戦争がなくても餓死する人がたくさんできるとか、そういうことが起こったら、相対的な問題となるが、原子力の時代となると、ほかのあらゆる問題より平和を永続さすことを優先的に考えなくてはならない。だからこれは絶対的な問題です」
と、やはり科学と言っても人間の問題であるとの立場を貫く。

小林はそれに応え、
「それが技術の復讐という問題だ」という。
「平和の技術はまた戦争の技術でもある。目的如何にかかわりない技術自身の力がある。目的を定めるのはぼくらの精神だ。精神とは要するに道義心だ」と続け、焦点を政治に振り向けていく。

「だから、科学の進歩が平和の問題を質的に変えてしまったという恐ろしくはっきりした思想が一つあればいいではないか。あとは平和を保つ技術、政治技術の問題だ。
民主主義だ、共産主義だとかいう曖昧模糊としたイデオロギーを掲げて争う愚かさ。
政治は人間精神の深い問題に干渉できる性質の仕事ではない。人間の物質的生活の整調だけを専ら目的とすればいい」

ああ、僕はこの言葉をここ数年、自分の裡にずっと探していたのだ。
小林の指摘を現代から見る我々は、科学がもたらしてくれるメリットの享受に忙しくて、それが進歩するほど強く「道義心」を問われるのだということに目を瞑っていたのだと気付かなければならない。

もう本当にそろそろ自分自身との大事な話を始める頃合いだ。
そう思う。

2014年1月19日日曜日

高野和明「ジェノサイド」の傷

間違いなく力作ではあるよなあ、と思う。
2012年「このミス」国内編のグランプリ作、ジェノサイドである。

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高野 和明
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新味があるとは言えないがスケールの大きなアイディアを惜しげなくつぎ込んで、構成もまあ破綻してはいないと思う。
ただしこの小説には、どうしても心ごと預けるような共感を抱きながら読むことが出来ないようなところがある。
それはやはり「いざとなったらいつでも殺せるんだよ」という絶対的な力を、権力へのアンチパワーとして対置してしまったところにあるのではないか。

誰だって、いつでも自分を殺せるような力をもった存在を愛でたりはしないだろう。
花を美しいと思えるのは、いつでもそれを手折れるからだ。
だから、そういう力を持った超人類が、愚かな権力者が相手であろうと、あっさりと殺してしまったり、こともなく赦してしまったりする構図に、やはりどこまで行っても共感することは出来ないのである。

その不共感の上に築かれた物語構造ゆえに、読者は、自分と異なる価値観を見つけた時に過剰反応してしまう。
Amazonのレビューがさながらナショナリズムのショーケースのようになっているのはそのせいだ。

別に誰がどう読もうとかまわないわけだが、レビューの中に散見される「著者の思想や歴史観」という言葉だけはどうもいただけない。
小説に書かれた以上、それは登場人物の思想なのであり、その先に著者の姿を探す読み方は文学を読むときの一番基本的な禁じ手なのだ。

もちろん著者の持つ思想や歴史観は作品に大きな影響を与える。
しかし同時にそれは「読まれる」ことによって読者による介在性に常に晒されている。
つまりそれが「言葉」と「読者」の間にある受容空間という架空の「現実」である。
この架空の現実を、著者を取り巻くリアルな「現実」と混同してしまうのは明らかな錯覚であり、著者が一定の技術的配慮によって、そう「みえるように」構築した小説世界に分け入っていくための道を閉ざしてしまうものである。

冒頭に申し上げた「絶対的な力」の置きどころに関する問題が、読者を間違った読み方に導いたのだとすれば、それがこの小説に潜んだ欠陥だと僕は思う。


このミス国内編の2006年のグランプリ「容疑者X」は、ミステリ界にその後長く続く「容疑者Xは本格か」論争を巻き起こした。
そして2012年のグランプリである本作にも文学のありように関わる傷を抱えている。
本というメディアが「売れてから読まれる」ものである以上、この事態は、売り手の読む力が問われているのだ、と考えるべきだと思うのだがどうだろうか。

2014年1月18日土曜日

「直観を磨くもの: 小林秀雄対話集」(2)横光利一編〜近代の毒

「直観を磨くもの: 小林秀雄対話集」収録の第二対談は小説家、横光利一の登場だ。

横光利一といえば「機械」という短編で、なぜかと言えば「あの」宮沢章夫が、読もうと思えば一時間で読めるこの「機械」という短編をなんと11年かけて読むという奇怪な試みを雑誌連載のカタチで実現した「時間のかかる読書」という奇書の存在があるからだ。

機械・春は馬車に乗って (新潮文庫)
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時間のかかる読書―横光利一『機械』を巡る素晴らしきぐずぐず
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11年の読解に堪える短編を書く作家とはどのようなものだろうか。
小林との対談の最初の話題は、横光が主張する「文学者は、科学による人間の機械化と闘争している」という論からはじまる。
まずは、新聞がこの論を横光の科学否定と報道したことを誤りであると抗議する。
三木に続いて、またも新聞を槍玉にあげている。そしてここでは疑いなくジャーナリズムの問題として書かれている。

小林の言葉で書けば、その毒は「ジャーナリズムは精神の消費面であるにもかかわらず、文化の生産面だと錯覚するところから来るのだ」ということらしい。
小林と横光のその後のやり取りから見えてくるのは、「報道」の消費財的な側面、つまり商業的なものに寄り添っていく側面と、「批評」があくまでも文化の生産面として経済的活動の論理から独立していなくてはならぬというスタンスが、どうにも曖昧になっている時代への強い苛立ちだ。

1947年に行われたこの対談から67年も経った現在を眺めてみて、どうやらお二人の懸念はもはや取り返しのつかない事態まで進行し、少なくとも活発に文学や音楽を鼓舞する「批評家」は今ぼくらの周りには見当たらない。
現在、批評家という職業はリコメンドすることが仕事なのであり、新しいムーヴメントを創りだすような役割は担わない。
何が変わったのか。

それは小林のこの言葉にヒントがあるのではないか。
「新鮮な政治が出てくれば必ず青年を動かし文学運動になる」

文章のすべての言葉から強い違和感を感じないだろうか。
僕は感じた。

新鮮な政治って何だ。
政治で青年が動くものなのか。
そして結実するのは文学運動なのか。

なんという純真な時代。
今や政治家へのキャリアパスはタレントやお笑い芸人だというのに。
そしてこの文はこう結ばれる。
「必要なのは政治技術者だよ」

今の時代、この言葉からは派閥闘争を生き抜く技術や献金を集める専門的技術のこと以外思い浮かばない。
僕らは、本当の意味での政治手腕というものを見たことがない。

おそらく取り戻すことの叶わぬその時代の感覚は、もはや理解したところでこの世界の役には立つまい。
しかし、政治に新鮮という言葉を冠することが感覚的に出来た時代に、僕は羨望の気持ちを抑えられない。
それでも諦めてしまう前にできることがあるのではないだろうか。

いずれにせよ大事なのは人間に違いない。
人間の機械化との闘争に我々はまだギリギリ破れ切ってはいないはずだ。

書籍はデジタル化され、音楽は配信されても、人は音楽を聴くためにコンサートホールに足を運ぶし、一回性の文学を体験しに劇場にも行く。
コンピュータは我々の思考を高速化はしたが、まだ僕らは友達と笑い合って酒を飲んで歌も歌える。

この対談の直後亡くなった横光利一氏がもし生きていたら、人間の心の図太さに感心して、ますます旺盛に小説を書き続けてくれたことだと思う。

2014年1月17日金曜日

「直観を磨くもの: 小林秀雄対話集」三木清編

2013年末に新潮文庫で刊行された小林秀雄の対談集「直観を磨くもの: 小林秀雄対話集」は何となく手元に置いておかなくてはいけない本のような気がして、買っておいた。
これも直観というものか。

直観を磨くもの: 小林秀雄対話集 (新潮文庫)
小林 秀雄
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2006年に会社を辞めて、個人事業者として再スタートを切ってから、同じ本から受ける読書の感慨がいちいちあまりに違うのに驚いているが、ことに小林秀雄評論から受ける印象は、「何かの役にたつのではないか」という浅ましい動機から読む時と、言葉が事物に与えていく意味を純粋に勘案していく読書で大きく違う。

掲載されている12人との対談はひとつひとつに大きな意味がある。
が対話ゆえに、それは人と人の言葉が響きあうスピードで流れて行ってしまう。
そのまま読めば言葉に込められた背景を十分に掬い取れない。
だから書評も一対談ごとにまとめておくほうがいいのかもしれない。

第一の対談は哲学者の三木清がお相手。

三木が言う。
「新聞に出ていることで自分に関することはたいてい嘘が書いてある。それだのに、人のことが出ていると誰でもそれを信ずる」

三木は新聞がいい加減だ、と言いたいのではない。
自分という全人格を言葉で表すことはできないよ、と言っているのである。
記者の視点から、読者に伝えたい社会の様相を表象させるために取り出された一面。それが記事だ。
だから本人がとらえている全人的で複雑な真相とはもちろん違うのだ。

だが問題は、多くの読者が、そういった全人的で複雑な真相を自分自身も抱えているということに気づいていない、というところにあるのではないか、と指摘しているのである。
それでわかったつもりになって、一面と一面の不完全な論争がはじまり、うすっぺらな結論に達する風潮に三木はうんざりしていたのだと思う。

こういう内実のない教養主義に対する批判は、戦中の頃にも指摘されていたのだな。
マスコミやネットの情報を自分の考えと思い込み、体験から発しない想像の言葉が言葉だけで拡散していく風潮を見れば、世界はちっとも変わっていないのだ。

そして対談は、福沢諭吉の言う、学問が社会に揉まれることの重要性に言及し、論理だけに溺れる弁証法を全否定し、道元の豪さを再評価し、言語をおろそかにする傾向にあった哲学を批判していく。

「学問が社会に揉まれる」
編集者は、この一言を現代の停滞しきった日本に放り込みたくてこの文庫を編んだのではないか。

政治学は、未だに諸外国の優れた政治制度を日本に導入しようと躍起になるばかりで、この独自の文化を持つ国の政治を正しい道に導けずにいる。
原子力の脅威による傷を二度にわたってその身に刻んだ我が国の科学は、やはり新しいエネルギーシステムの在り様を構想できずにいる。
経済学は、人の欲望の因業深さを読み切れず、占いの域を出ない。
そしてそれらのすべての基盤となるべき哲学は、ヴィトゲンシュタインにぶっ壊されて、社会学のようなものにカタチを変えて、教養主義的議論の道具に成り果てている。
(本稿もその一端そのものだ!)

対談の最後、小林から三木に、最近のあなたの文章も弁証法的なレトリックに終始する側面があるのではないか、という厳しい指摘があり、それに対して三木は堂々と
「気付いている。そしてこれから大いに言葉を尽くしていきたい」
と決意表明を行うのだ。

しかし残念ながらこの対談の後、三木は治安維持法によって投獄され、まもなく亡くなってしまう。

今の日本に小林も三木もいない。
しかし言葉は残された。
そして現代に生きる我々は、その社会の中に息づく言葉を発する術を持っている。
充分な教育も受けているはずだ。

よくよく考えなくてはならない。
自分が働いて得ているものの意味を。

2014年1月9日木曜日

奥泉光「グランド・ミステリー」:壮大なるイロニーの物語

「グランド・ミステリー」は奥泉光氏の大長編ミステリで、1998年発表。2001年に上下巻で文庫化され、2013年に新装版として、今度は一冊本として刊行された。
新装版を書店で見かけて購入したが、なにしろ900ページ以上あるし、クワコー以降の読みやすい文体ではなく、これこそ奥泉という、論旨は明快だが一文一文が非常に長く技巧的な文体で構築されていて、これを飛ばし読みしては勿体なく思い、ゆっくりと時間をかけて読むわけで、結局トータル一か月ちかく読了までかかってしまった。

グランド・ミステリー (角川文庫)
奥泉 光
角川書店 (2013-09-25)
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あまりにも複層的で多義的なこの小説を読み解くにあたって、ひとつの視点をまず設定しておきたい。
それは筆者、奥泉光自身が、いとうせいこうとの文学漫談を書籍化した「小説の聖典」で提示している「イロニー」だ。
修辞学的なイロニーを日本語で表現するのは難しいが、観客が知っている真実をドラマに登場する人物だけが知らず、登場人物たちが右往左往する様を滑稽として笑う、というような意味あい。

例えば三日後に死ぬ人間がいたとして、本人はそのことを知らないが、神様がいてそれを知っているとする。その時、その人が健康のために禁煙しようとしていたら、その姿は神の視点から見た時、非常に皮肉なものに映るだろう。
つまり二重化した視線で世界が観察されるとき「イロニー」は発動する。

そのような視点から、この大長編「グランド・ミステリー」を読み直すと、「時間をやり直す」というアイディアが背骨を支える物語の構造上、随所でイロニーが発動しまくっている。

戦争という特殊な社会環境下で、民衆がコロコロとその意見を変えていく様子は、さながら今の日本でリアルタイムに進行している事態を、過去の奥泉氏がイロニっているようにも思える。
人の話す「思想」めいたものなど、思っているほどには経験に裏打ちされていないし、だから行動だって、実際にはそれほど深い意味は無いのだと。

宗教も、信仰の源泉に近づけば近づくほど人為的で、むしろ時代性を伴って解釈された「人の」言葉こそが本質的に見えるのもイロニーだなあ、と思う。
終盤弁護士によって語られる「隣人」像、すなわち
「(隣人とは)私とは別の者、等しくない者、根源的に対立をはらんだ者であり、であるが故に、この世界を豊かで光輝ある世界に変えうる存在なのです」
という言葉には、確かにキリスト教的な教義のエッセンスを感じさせながら、ではなぜあのユダヤ教をルーツに持つ一神教兄弟は、あれほどまでに他の宗教に対して攻撃的なのかに思いをいたさないわけにはいかない。

極めつけは、物語中ある特殊能力から、結果的に一種の教祖的存在に祀り上げられてしまう人物の哲学観に見えるイロニーである。
彼はかつての同級生にこう語る。
「たとえば神が世界を創造し、全能である以上、宇宙のあらゆる出来事は神の意志だと考えてみる。そうすると偶然というものは存在しなくなる。(中略)何もかもが必然であり、神の栄光を輝かせるべき出来事である。(中略)ところが困ったことには、神にそのような絶対性を与えれば与えるほど神なるものの内容が空虚になってしまう。神を神と呼ぶ必要が、それこそ必然性がなくなってしまう。つまりどうやら哲学というやつには完全性を求めていくほど不完全になっていく性質があるらしいんだな。哲学だけじゃない。知識は一般に、意味を求めれば無意味を生じ、合理性を求めれば非合理が生まれる。(中略)意識だって同じさ。つまり正気になろうとすればするほど狂ってしまうわけさ。もしおれが狂っているのだとしたら、それはおれが正気であるのが主な原因だ」

このような今立っている大地そのものを疑わせるようなイロニーの奔流に、この物語は彩られて、読者を混乱と文学的愉悦に巻き込みながら滔々と進んでいく。
そして辿り着いたエピローグに、奥泉氏はなんとも平和で平凡な、しかしそれが幾重にも張り巡らされた時間と因果の陥穽を乗り越えて得られたものだけに輝かしい、そんな日常を描いてみせる。
尊いものだなあ、と思う。

非日常の英雄的行動に送る喝采は、自らの非英雄性ゆえである。
この物語が真珠湾攻撃での特攻兵の出撃シーンに始まり、平凡な日常の回復に終わるのは、この平和な日常を生きる我々の、平穏さを守り抜く戦いこそが過酷で、一義的な情熱を必要とする英雄的な戦いなのだと筆者が信じているからなのだ。
僕もそう思う。