2013年7月21日日曜日

「ミスティック・リバー」戻らない時のような河の流れに

「ミスティック・リバー」は、人気作家デニス・ルヘインの傑作ミステリー小説を、「許されざる者」のクリント・イーストウッド監督が映画化した重厚なミステリー・ドラマだ。



かつての幼馴染みが、ある殺人事件をきっかけに25年ぶりに再会、事件の真相究明とともに、深い哀しみを秘めた三人それぞれの人生が少しずつ明らかになっていくさまが、静謐にして陰影に富んだ筆致で語られていく。

ジミー、ショーン、デイブの三人は少年時代、よく一緒に遊んでいた。
ある日、いつものように三人が路上で遊んでいたところ、突然見ず知らずの大人たちが現われ、デイブを車で連れ去っていってしまう。
ジミーとショーンの二人は、それをなすすべなく見送ることしか出来なかった。

数日後、デイブは無事保護されるが、彼がどんな目にあったのかを敢えて口にする者はいない。それ以来三人が会うこともなくなった。

それから25年後。ある日、ジミーの19歳になる娘が死体で発見される。殺人課の刑事となっていたショーンはこの事件を担当することになる。
一方、ジミーは犯人への激しい怒りを募らせる。やがて、捜査線上にはデイブが浮かび上がってくる。


僕は40代になってからこの映画を観た。

僕が幼少期を過ごした1970年代の釧路は、太平洋炭鉱の閉山と200海里で、大きく街のカタチが変わりゆく時期だった。
街の中で人口の移動があり、公務員住宅が移設されたり、新しい学校が出来たりして、転校する子が多かった。
自分自身も4年生の時に転校した。

転校したり、して来たりの中で、何人か忘れることのない友達ができて、そして別れた。
ちょっとキワドいイタズラや、野球。
ミニスキーに忍者ごっこ。
時には喧嘩もしたはずだ。


小学校での転校や中学進学でその多くの友達と離れ、自分自身が成長し変わっていく。
そして高校に入学した僕は、先輩に強く勧誘されて剣道部に入部したが、そこで縁あって小学校時代、転校前と転校後に仲良く遊んだ友達と二人と偶然再会した。

さらに時が進んで、現代は恐ろしく進んだ情報化社会。
僕はFacebookなる文明の利器で、懐かしい親友や、昔想いを寄せた人と再会した。


友達の距離感というのは不思議だ。
昔の友達と話すとき、その頃とは変わってしまった自分が照れくさくて、でも子どもの自分に戻れるわけではないし、その中間くらいの自分を演技して、ある種の浮遊感のようなものを感じながら振る舞う。


「ミスティック・リバー」には、常にその不思議な距離感と現実の行き来が描かれている。
クリント・イーストウッド監督の映画にはいつも儘ならない現実が描かれるが、本作では外面的な運命だけでなく、内面的な心情の儘ならなさに強く踏み込んで演出されている。
だから心が揺さぶられる。

そしてその揺さぶられた心を、強い違和感に導くラストのパレードシーン。
そこにまとわりつく非現実感こそが、この映画の主題である。

殺人を察知しながらも止めず、幼馴染を殺してしまった夫を家族を守る正しく強い王として抱きとめるジミーの妻。
妻の承認を得て、再び立ったジミー。
ようやく手にした幸せに酔い、刑事としての自分をその一時忘れるショーン。
皆、パレードを幸福そうな表情で見つめている。

そして、その誰とも視線を合わすことさえ出来ず、憔悴のままパレードを追うデイブの妻が、この映画に突き刺された「現実」というナイフだ。
そしてパレードは、三人の少年がナイフで名前を刻んだ場所を通り過ぎていく。

それは、パレードが行き過ぎた後に必ず現実が訪れる、という約束なのだ。
そしてその現実は、それぞれの距離感をまた激しく変えてしまいながらも、留まらずに時間を進めていく。
すべてを押し流してしまうミスティック・リバーのように。

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