久しぶりに新人さんの作品に天賦の才というやつを感じた。
松崎有理さんの「あがり」という作品。
東京創元社が始めた創元SF賞の第一回大賞受賞作である。
東北大学理学部卒の女性著者ゆえ「理系女子」の冠が付けられることが多いが、むろんこんな冠は全く不要の堂々たる「文芸作品」なのだ。
専攻された学問的専門性を遠慮なくぶちこんで濃密で確固とした作品世界を構築しているが、こういう作風にありがちな上から目線に鼻白むことがない。
抑制の効いた文体と、スパイスのように絶妙にあしらわれた自虐趣味が全体のバランスをとっている。
それも、よく言われる「計算された」構成とか文体というようなものではない。ここにはそういうあざとさは感じられない。
そしてこの6篇の短編からなる「北の街にある」大学の物語は、えもいわれぬ諦念感に満ちている。
自分の大学生時代を振り返ってみれば、あの頃「大学」という場所には自由という言葉がよく似合った。
経済的合理性の外側にある場所。
その中では交通法規さえも遵守に及ばず、免許取得のために大学農場横の道で運転の練習をするものまでいた。
それが今では、国立大学は独立行政法人になり採算性を求められるようになり、教員の雇用期間の問題が労基法ベースで語られている。
学問の府であるはずの大学にも卒業生の就職率を問う風潮が蔓延し、未だ国立理系ではそうであるようにその研究室が社会から評価されることで就職を担保することが王道であるはずなのに、面接の練習とか講演会を開くことで職員や学生をその本分から遠ざけている。
いつの間にこんな世界に僕らは来てしまったのだろう。
作者松崎有理さんは、この短編集の世界に「3年に一本論文を書かないと教職を剥奪される」という、あながち非現実的でもない法律を導入することで、この国にただよう現実の閉塞感を表現してみせた。
なぜ学問の府の自由は守られなかったのか。
それは、グローバリズムの猛威の中で厳しい環境に置かれ続けた経済の世界が、おい、あのアカデミーのやつらはどうして無風の中にいるんだ。あいつらにも少し世間の厳しさを味あわせてやれよ、と無言の圧力を寄せたからだ。
これは現代の「ルサンチマン」なのだね。
そうして僕らは未来につながる基礎研究の多くを失ったし、異能が育つ環境も大きく損なった。そしてその代わりに「愛国心」とやらを教えてくれるらしい。やれやれ。
しかし、松崎有理さんの作品世界では現実より一歩先に、より厳しく管理的になった大学世界を描いているが、そこで登場人物たちは、絶望し、錯乱し、それでも小さな幸福を見つけ、ときめき、走り、精一杯思う通りに生きようとしている。
結果は必ずしも可とでない。
でもだからいい。
結果を自分で引き受けるしかないからそこに「自由」があるのだ。
大学に入って最初に読めと言われた本はエーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」だった。近代社会が目指した「自由」が人間個人の尊厳の基盤であると同時に、他者の「自由」との軋轢の中で社会を壊していく要因になるという二面性を説き、その最悪の結果がナチズムへの民衆の熱狂的な支持であるとする古典的名著である。
松崎有理作品を読んで思うのは、今こそ、フロムの書いた自由と自由のぶつかり合いの世界から逃げようとするような翻弄される自分じゃなくて、もしそれが未来のために必要なら他人の自由をこそ寿ぐような自分になれたらいいのに、ということだ。
そしてこのような力を持つ「文学」を理系の視点から書き下ろした著者に心から敬意を評し、シューマンがショパンを世界に紹介するために紡いだ言葉を引用したい。
「諸君、脱帽したまえ。天才だ」
2013年12月18日水曜日
2013年12月1日日曜日
映画「トニー滝谷」:「村上春樹さん、やっぱり人生にはこういうことも起こっていいんじゃないですかねえ」
「トニー滝谷の本当の名前は、本当にトニー滝谷だった」というなんとも印象的な書き出しで始まる村上春樹の短編「トニー滝谷」が映画化されていたとはうかつにも知らなかった。
この原作小説は「レキシントンの幽霊」というジャズ・レコードが主役とも言える短篇を中心に編まれた短篇集に所収されている。
映画は76分ほどの短い作品だった。
いや、これは本当に映画だったのだろうか。
村上春樹の詩情と余白と余韻にあふれる短編にスタイリッシュな動画を添えた新しいタイプのノベル、と呼ぶほうがこの作品の放つ独特の存在感に相応しい。
そんなふうに思わされるほど、この映画は全編西島秀俊による原作小説の朗読によって時間の流れを支配されている。
そして芝居は名手イッセー尾形の一人芝居という佇まい。
そこに宮沢りえという天才の輝きを宝石のようにきれいに散りばめている。
この宝石は本当に綺麗だ。
原作にある「彼女はまるで遠い世界に飛び立つ鳥が特別な風を身にまとうように、とても自然にとても優美に服をまとっていた」という形容を、まさか本当に体現するとは!
このように映画という芸術の枠組みに入りにくくなってしまうほど原作に忠実であらんとした本作だが、ラスト、原作にないエピソードが追加されている。
だから、その部分が監督市川準がこの「映画」において表現したかった部分ではないかと僕は思う。
追加されたラストエピソードには、トニー滝谷と亡くなった妻が結婚した時、花嫁に関係を精算されてしまった彼氏が登場する。
彼はトニーに「やっぱりあんた、つまんない人だ。あんたの描く絵がつまんないみたいに」と言う。
この台詞だけが日本映画のボキャブラリーで書かれている。村上春樹はこのように比喩という技法を使わない。
だから逆に言えば、この台詞によってトニー滝谷は、原作短編に描かれた「今度こそ本当にひとりぼっち」になるラストシーンから開放されたのだ。
そしてかつて妻の服で埋めつくされ、それが無くなった後には父の古いジャズレコードによって占拠された部屋に寝転んで、泣き続け、まるでかつて留置所で死刑の順番を待っていた父のように人生に絶望した。
その絶望が、妻の身代わりにしようとかつて雇った女のことを思い出させる。
その女が残された妻の服に泣いてくれたことを。
それこそがこの映画の「希望」だ。
人の生きていく力だ。
村上小説が肯定しない、悲しみの果ての幸福を描いて「村上さん、やっぱり人生にはこういうことも起こっていいんじゃないですかねえ」と語りかけているのだ。
僕はそう思う。
この原作小説は「レキシントンの幽霊」というジャズ・レコードが主役とも言える短篇を中心に編まれた短篇集に所収されている。
映画は76分ほどの短い作品だった。
いや、これは本当に映画だったのだろうか。
村上春樹の詩情と余白と余韻にあふれる短編にスタイリッシュな動画を添えた新しいタイプのノベル、と呼ぶほうがこの作品の放つ独特の存在感に相応しい。
そんなふうに思わされるほど、この映画は全編西島秀俊による原作小説の朗読によって時間の流れを支配されている。
そして芝居は名手イッセー尾形の一人芝居という佇まい。
そこに宮沢りえという天才の輝きを宝石のようにきれいに散りばめている。
この宝石は本当に綺麗だ。
原作にある「彼女はまるで遠い世界に飛び立つ鳥が特別な風を身にまとうように、とても自然にとても優美に服をまとっていた」という形容を、まさか本当に体現するとは!
このように映画という芸術の枠組みに入りにくくなってしまうほど原作に忠実であらんとした本作だが、ラスト、原作にないエピソードが追加されている。
だから、その部分が監督市川準がこの「映画」において表現したかった部分ではないかと僕は思う。
追加されたラストエピソードには、トニー滝谷と亡くなった妻が結婚した時、花嫁に関係を精算されてしまった彼氏が登場する。
彼はトニーに「やっぱりあんた、つまんない人だ。あんたの描く絵がつまんないみたいに」と言う。
この台詞だけが日本映画のボキャブラリーで書かれている。村上春樹はこのように比喩という技法を使わない。
だから逆に言えば、この台詞によってトニー滝谷は、原作短編に描かれた「今度こそ本当にひとりぼっち」になるラストシーンから開放されたのだ。
そしてかつて妻の服で埋めつくされ、それが無くなった後には父の古いジャズレコードによって占拠された部屋に寝転んで、泣き続け、まるでかつて留置所で死刑の順番を待っていた父のように人生に絶望した。
その絶望が、妻の身代わりにしようとかつて雇った女のことを思い出させる。
その女が残された妻の服に泣いてくれたことを。
それこそがこの映画の「希望」だ。
人の生きていく力だ。
村上小説が肯定しない、悲しみの果ての幸福を描いて「村上さん、やっぱり人生にはこういうことも起こっていいんじゃないですかねえ」と語りかけているのだ。
僕はそう思う。
2013年11月24日日曜日
映画「逆転裁判」:いろんなものに目を瞑るとすごく楽しい「あざとさ」のショーケース
ゲームタイトル「逆転裁判」の映画化作品。
おなじみの成歩堂を成宮寛貴が、ヒロイン真宵を桐谷美玲が演じている。
桐谷美玲が出演している時点ですでに見処は決しており、彼女は今回もその期待を違えないセンスあふれる「発声」で名演を連発していた。
しかしなんという豪華キャスト。
ジャーナリスト小中大(こなか・まさる)役に抜擢されたのはなんと、シーナ&ロケッツの鮎川誠。普段から博多弁丸出しのトークがどこまでも突き抜けていてカッコいいが今回も彼はまったく演技はしていない。素のままだ。
そしてシナロケの名曲「レモンティー」にちなんで、事件発生時にはホテルでレモンティーを飲んでいたと証言。添えられた映像には鮎川自身がラフにレモンを握り潰してレモンティーを作るシーンが収録され、これだけでもお宝だ。
さらに40年無敗の検事には同じロック人脈からARBの石橋凌をキャスト。
こちらもステージアクトと全く同じ素振りで毒を撒き散らす。
なんてロックンロールな映画なんだ。
ここに純粋演技で文芸的薫りを添えるのが小日向文世だ。
登場シーンでは顔が見えないのに、ボソッと呟いただけで彼とわかる饒舌な存在感はどうだ。これが役者だ、と思う。素晴らしい。
若手では小栗旬演じる糸鋸刑事が素晴らしい。
どのみち「あざとい」のだ、こういう映画は。
演技者が映画自体に飲まれないようにするひとつの方法を小栗は示している。
そう、ここは演技者のショーケース。
三池監督のしつらえた舞台の上で、制約なく演じられるショーを愉しめば良い。
事件解決の合理性。
証拠物件の正当性。
人物描写の整合性。
そういうものにはこの際、目を瞑っておくべきだ。
ゲームの方もちょっとやってみたくなったな。
おなじみの成歩堂を成宮寛貴が、ヒロイン真宵を桐谷美玲が演じている。
桐谷美玲が出演している時点ですでに見処は決しており、彼女は今回もその期待を違えないセンスあふれる「発声」で名演を連発していた。
しかしなんという豪華キャスト。
ジャーナリスト小中大(こなか・まさる)役に抜擢されたのはなんと、シーナ&ロケッツの鮎川誠。普段から博多弁丸出しのトークがどこまでも突き抜けていてカッコいいが今回も彼はまったく演技はしていない。素のままだ。
そしてシナロケの名曲「レモンティー」にちなんで、事件発生時にはホテルでレモンティーを飲んでいたと証言。添えられた映像には鮎川自身がラフにレモンを握り潰してレモンティーを作るシーンが収録され、これだけでもお宝だ。
さらに40年無敗の検事には同じロック人脈からARBの石橋凌をキャスト。
こちらもステージアクトと全く同じ素振りで毒を撒き散らす。
なんてロックンロールな映画なんだ。
ここに純粋演技で文芸的薫りを添えるのが小日向文世だ。
登場シーンでは顔が見えないのに、ボソッと呟いただけで彼とわかる饒舌な存在感はどうだ。これが役者だ、と思う。素晴らしい。
若手では小栗旬演じる糸鋸刑事が素晴らしい。
どのみち「あざとい」のだ、こういう映画は。
演技者が映画自体に飲まれないようにするひとつの方法を小栗は示している。
そう、ここは演技者のショーケース。
三池監督のしつらえた舞台の上で、制約なく演じられるショーを愉しめば良い。
事件解決の合理性。
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人物描写の整合性。
そういうものにはこの際、目を瞑っておくべきだ。
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2013年11月23日土曜日
メアリ・シェリー「フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス」:それは異形の愛憎の物語
あまりにも有名なフランケンシュタインが、あの頸に釘の刺さった怪物の名前ではなく、それを作ってしまった科学者の名前だと知ったのはいつのことだったろうか。
そう知った時も原作の小説を読もうとは思わなかった。
ビブリオマニアの日常を描いて、ミステリやSFジャンルの読書愛好家に大きな共感を寄せられるCOCOさんの「今日の早川さん」という漫画作品に、フランケンシュタインはSFの起点であるか、またはホラーの原型であるかについて議論をされるシーンがある。
(COCOさんのブログでも読めます)
詩人パーシー・シェリーが愛人メアリを伴ってスイスのバイロン卿の別荘を訪れた際、田舎の夜の退屈しのぎにめいめい幽霊話を書こうという話になって、パーシーとバイロンがどんな話がいいか話し合っているのを聞いていたメアリが考案したのが「フランケンシュタイン」の原型になったことから、これはホラーの原型と見るのが正しいというのがこの漫画の一応の結論だった。
ちなみにこの場に居合わせた医師ポリドリが考案したのが有名な「吸血鬼」である。
なんとも歴史的な退屈しのぎではないか。
寡作の名匠ヴィクトル・エリセ監督の名作「ミツバチのささやき」には物語をドライヴする重要な要素を劇中劇として挿入される映画「フランケンシュタイン」が担う。
僕はここで観た映像の断片を、この物語の「あらすじ」として認識していた。
マッド・サイエンティストが作り上げた怪物が、その怪力と無邪気さゆえに、自分を恐れずに友達になってくれた少女の命を奪ってしまうという悲劇の物語だと。
ところが、今回読んでみた「フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス」は、僕の頭の中にイメージされていたフランケンシュタインの物語とはずいぶん違うものだった。
第一、ヴィクター・フランケンシュタインはマッド・サイエンティストなんかではなく、純朴なスイスの大学生で、錬金術をバカにする尊大な大学教授へのちょっとしたイタズラ心をきっかけに始めた研究が、彼の純粋な科学的好奇心に火を付けて、心ならずも怖ろしいクリーチャーを作り上げてしまった良家の子弟であった。
産み落とされた怪物は、無邪気な子どもの心のままではなく、潜み隠れた小屋から隣の家族を観察しているうちに高度な知性を獲得していて、引き起こしている陰惨な事件は純粋に人類への復讐である。
そしてこの物語は、ヴィクターの周りにいるものすべてを死に追いやり、ヴィクター自身は追跡行の果てに消耗し亡くなってしまう。その死を知ったクリーチャーも目的を失い自死を選ぶ。
どこにも救いはない。
そしてこの悲劇の原因は、どこまでいってもヴィクター・フランケンシュタインが、自らの生み出したクリーチャーを愛せなかったことにあるのだ。
僕らが猫を可愛がったり、花の美しさを愛でたりできるのは、猫や花が僕らを殺したりしないからだ。
どんなに愛らしい生物でも、我々に致命傷を負わせる能力を持っていて、それを僕らがコントロールできないとしたら、その存在を愛することは出来ない。
その生殺与奪権の移動をメインモチーフに人類のカタストロフを描いたのが「トリフィド時代」だろう。一定の大きさにならなければ人に害を及ぼさない謎の植物トリフィドが、ある事件をきっかけに「歩き」だし、人を殺傷し始める様子は確かに想像するだに怖ろしい。
つまり人は殺せるものしか愛せない生き物なのだ。
そして人間は、文明を発展させていく中で「殺せる」対象を拡大してきた。
相手が獰猛な野生獣でも武器があれば戦える。
機械的な仕掛けで、森林も伐採できる。
その過程の中で、我々は身体的な強弱とは無関係な生殺与奪を行い得るようになってしまった。
相手が人間同士ならいつでも殺し合えるということだ。
だからいつでも愛し合えるし、憎み合える。
いつでも殺し、殺され得る相手だからこそ、命をかけて添い遂げることができる。
本来ならヴィクターは、実験によって生み出したクリーチャーの「親」ということになると思う。
しかし、やはり彼は親ではないのだ。
「愛」と「憎」のどちらにも転びうる人間の気持ちの中から愛を選びとってはじめて、その間に生命が生まれる。
そのプロセスを経ない命は、やはり異形なのである。
だからヴィクターは親になれなかった。
愛してあげることが出来なかった。
だから彼らは、何度相見えようと互いを殺すことができない。
愛することができない存在を殺すこともやはり出来ないのだ。
そのようにして、あの物語はどこにも救いのないエンディングにならざるを得なかった。
「フランケンシュタイン」とは、メアリ・シェリーの想像力が象った異形の愛憎の物語だったのである。
そう知った時も原作の小説を読もうとは思わなかった。
ビブリオマニアの日常を描いて、ミステリやSFジャンルの読書愛好家に大きな共感を寄せられるCOCOさんの「今日の早川さん」という漫画作品に、フランケンシュタインはSFの起点であるか、またはホラーの原型であるかについて議論をされるシーンがある。
(COCOさんのブログでも読めます)
詩人パーシー・シェリーが愛人メアリを伴ってスイスのバイロン卿の別荘を訪れた際、田舎の夜の退屈しのぎにめいめい幽霊話を書こうという話になって、パーシーとバイロンがどんな話がいいか話し合っているのを聞いていたメアリが考案したのが「フランケンシュタイン」の原型になったことから、これはホラーの原型と見るのが正しいというのがこの漫画の一応の結論だった。
ちなみにこの場に居合わせた医師ポリドリが考案したのが有名な「吸血鬼」である。
なんとも歴史的な退屈しのぎではないか。
寡作の名匠ヴィクトル・エリセ監督の名作「ミツバチのささやき」には物語をドライヴする重要な要素を劇中劇として挿入される映画「フランケンシュタイン」が担う。
僕はここで観た映像の断片を、この物語の「あらすじ」として認識していた。
マッド・サイエンティストが作り上げた怪物が、その怪力と無邪気さゆえに、自分を恐れずに友達になってくれた少女の命を奪ってしまうという悲劇の物語だと。
ところが、今回読んでみた「フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス」は、僕の頭の中にイメージされていたフランケンシュタインの物語とはずいぶん違うものだった。
第一、ヴィクター・フランケンシュタインはマッド・サイエンティストなんかではなく、純朴なスイスの大学生で、錬金術をバカにする尊大な大学教授へのちょっとしたイタズラ心をきっかけに始めた研究が、彼の純粋な科学的好奇心に火を付けて、心ならずも怖ろしいクリーチャーを作り上げてしまった良家の子弟であった。
産み落とされた怪物は、無邪気な子どもの心のままではなく、潜み隠れた小屋から隣の家族を観察しているうちに高度な知性を獲得していて、引き起こしている陰惨な事件は純粋に人類への復讐である。
そしてこの物語は、ヴィクターの周りにいるものすべてを死に追いやり、ヴィクター自身は追跡行の果てに消耗し亡くなってしまう。その死を知ったクリーチャーも目的を失い自死を選ぶ。
どこにも救いはない。
そしてこの悲劇の原因は、どこまでいってもヴィクター・フランケンシュタインが、自らの生み出したクリーチャーを愛せなかったことにあるのだ。
僕らが猫を可愛がったり、花の美しさを愛でたりできるのは、猫や花が僕らを殺したりしないからだ。
どんなに愛らしい生物でも、我々に致命傷を負わせる能力を持っていて、それを僕らがコントロールできないとしたら、その存在を愛することは出来ない。
その生殺与奪権の移動をメインモチーフに人類のカタストロフを描いたのが「トリフィド時代」だろう。一定の大きさにならなければ人に害を及ぼさない謎の植物トリフィドが、ある事件をきっかけに「歩き」だし、人を殺傷し始める様子は確かに想像するだに怖ろしい。
つまり人は殺せるものしか愛せない生き物なのだ。
そして人間は、文明を発展させていく中で「殺せる」対象を拡大してきた。
相手が獰猛な野生獣でも武器があれば戦える。
機械的な仕掛けで、森林も伐採できる。
その過程の中で、我々は身体的な強弱とは無関係な生殺与奪を行い得るようになってしまった。
相手が人間同士ならいつでも殺し合えるということだ。
だからいつでも愛し合えるし、憎み合える。
いつでも殺し、殺され得る相手だからこそ、命をかけて添い遂げることができる。
本来ならヴィクターは、実験によって生み出したクリーチャーの「親」ということになると思う。
しかし、やはり彼は親ではないのだ。
「愛」と「憎」のどちらにも転びうる人間の気持ちの中から愛を選びとってはじめて、その間に生命が生まれる。
そのプロセスを経ない命は、やはり異形なのである。
だからヴィクターは親になれなかった。
愛してあげることが出来なかった。
だから彼らは、何度相見えようと互いを殺すことができない。
愛することができない存在を殺すこともやはり出来ないのだ。
そのようにして、あの物語はどこにも救いのないエンディングにならざるを得なかった。
「フランケンシュタイン」とは、メアリ・シェリーの想像力が象った異形の愛憎の物語だったのである。
2013年11月18日月曜日
歌野晶午「密室殺人ゲーム 2.0」:それはミステリにしかない文体で書かれた物語
前作「密室殺人ゲーム 王手飛車取り」に続いて、続編「密室殺人ゲーム 2.0」を読んでみる。
書かれていることは見た目通りでないのが歌野ミステリーの常である。
今回もその鉄則は生きている。
前作、非常に気になる終わり方をした密室殺人ゲーマーズ。
それが何事もなかったようにゲームの続きが始まったりして、おいおい、と思うわけだが、これだって作者の巧妙に仕掛けた罠だ。
僕は島田荘司ミステリの愛好家である。
どこまでも人間を描き込んでいく筆運びのその同じ筆で、うひゃー、と声が出そうな奇想天外で大仕掛なトリックを作品に持ち込む。
このギャップが島田作品の醍醐味だが、「密室殺人ゲーム」シリーズではそのうひゃー、が極めて自然に作品に入り込める仕掛けになっている。
だからもう思う存分、ミステリファンのお好みの密室、アリバイ、その他諸々のミステリ・ガジェットを盛り込んでくる。
ブンガク、としてではなく、ミステリというジャンルでの「文体」をどこまでも追求していこうという意志を感じる。
だから手練のミステリ読みほど面白いと思うのだろう。
僕は、と言えばこのあたりでお腹いっぱいデス。
書かれていることは見た目通りでないのが歌野ミステリーの常である。
今回もその鉄則は生きている。
前作、非常に気になる終わり方をした密室殺人ゲーマーズ。
それが何事もなかったようにゲームの続きが始まったりして、おいおい、と思うわけだが、これだって作者の巧妙に仕掛けた罠だ。
僕は島田荘司ミステリの愛好家である。
どこまでも人間を描き込んでいく筆運びのその同じ筆で、うひゃー、と声が出そうな奇想天外で大仕掛なトリックを作品に持ち込む。
このギャップが島田作品の醍醐味だが、「密室殺人ゲーム」シリーズではそのうひゃー、が極めて自然に作品に入り込める仕掛けになっている。
だからもう思う存分、ミステリファンのお好みの密室、アリバイ、その他諸々のミステリ・ガジェットを盛り込んでくる。
ブンガク、としてではなく、ミステリというジャンルでの「文体」をどこまでも追求していこうという意志を感じる。
だから手練のミステリ読みほど面白いと思うのだろう。
僕は、と言えばこのあたりでお腹いっぱいデス。
2013年11月9日土曜日
歌野晶午「密室殺人ゲーム 王手飛車取り」:この密室、成立してますか
島田荘司先生の大ファンだった僕は、「長い家の殺人」という作品を島田荘司先生に大絶賛されてデビューした歌野晶午さんという作家の名前は、だからもちろん知っていた。
その時どう思ったのか記憶がないし、他の作品を読み進めていないところを見ると、あまり感心しなかったのかもしれない。
しばらくして、「葉桜の頃に君を想うということ」というなかなか詩情あふれるタイトル(ここにも筆者の企みがこめられているのだが)の作品で日本推理作家協会賞を受賞したと聞いて、これまたなかなかセンスの良い装丁の単行本を購入して読んでみた。
筆者の企みに見事に騙されたことに気付いた時、あまりにも鮮やかに騙されたからだろうか、腹が立って腹が立って、逆にこのタイプのミステリが嫌いになってしまった。
このところ日本の本格ミステリに食指が動かなくて、島田荘司先生の旧刊を読み直す日々だった僕に、ミステリ評論を手がけている友人が、「今、日本の本格というならこれを読まなきゃ」と薦めてくれたのが歌野晶午の「密室殺人ゲーム」シリーズだった。
彼のオススメにハズレはない。今のところ。
でも、歌野晶午はなあ・・とためらいながらも、一作目の「密室殺人ゲーム 王手飛車取り」を読んでみた。
これは面白い!
ネットで知り合ったミステリ・フリークスが実際に殺人を実行しそれを素材に探偵ごっこをするという趣向で、殺人者はわかっているからアリバイ崩しや密室のトリックを解くことになる。
何より動機が「推理ゲームのため」というある種の純粋性を持っているため、事件に人間性が絡んでこない。だから純粋な謎解きになる。
そのかわり、そのインモラルなゲームそのものから人間性が描かれていく。
二重三重に企みが塗り固められ、「葉桜」の時には嫌悪感しか抱けなかった歌野ミステリの特質に深く感心した。
だがひとつ。119ページの密室、僕は成立していないように思った。
これが成立していなくても物語の進行にはいささかも傷は付かないので、構わないといえば構わないのだが、どうも気になる。
この金具、あおり止めというらしいのだが、これが内側からかかっていたということが密室の構成要素の一つになっている。
「氷を使って、溶けたらかかるようにするっていう古典的トリックじゃないだろうね」「正解!」「正解かよ」みたいなやりとりなのだが、僕にはこの仕掛けはドアの内側からしか施せないし、施したらそのドアからは出ていけないと思うのだ。
誰か、この氷の古典的トリックの詳細を知っている人がいたらぜひ教えて欲しい。
(追記:幽かな、そして致命的でないネタバレ含む)
皆様から、棒の方を氷を使ってドアに斜めに固定しておく方法で可能、とのご教授を複数頂戴いたしました。
確かにそれがこの密室時限装置の基本的な考え方ですよね。
でも今回の件、「ドライアイス」使ったって書いてあるんだよなあ。
そんなふうに固定できるのかなあ、とちょっと未だ釈然としないのですが、「なんとかうまいことやった」と考えて忘れることにしました。
お騒がせして申し訳ないです。
その時どう思ったのか記憶がないし、他の作品を読み進めていないところを見ると、あまり感心しなかったのかもしれない。
しばらくして、「葉桜の頃に君を想うということ」というなかなか詩情あふれるタイトル(ここにも筆者の企みがこめられているのだが)の作品で日本推理作家協会賞を受賞したと聞いて、これまたなかなかセンスの良い装丁の単行本を購入して読んでみた。
筆者の企みに見事に騙されたことに気付いた時、あまりにも鮮やかに騙されたからだろうか、腹が立って腹が立って、逆にこのタイプのミステリが嫌いになってしまった。
このところ日本の本格ミステリに食指が動かなくて、島田荘司先生の旧刊を読み直す日々だった僕に、ミステリ評論を手がけている友人が、「今、日本の本格というならこれを読まなきゃ」と薦めてくれたのが歌野晶午の「密室殺人ゲーム」シリーズだった。
彼のオススメにハズレはない。今のところ。
でも、歌野晶午はなあ・・とためらいながらも、一作目の「密室殺人ゲーム 王手飛車取り」を読んでみた。
これは面白い!
ネットで知り合ったミステリ・フリークスが実際に殺人を実行しそれを素材に探偵ごっこをするという趣向で、殺人者はわかっているからアリバイ崩しや密室のトリックを解くことになる。
何より動機が「推理ゲームのため」というある種の純粋性を持っているため、事件に人間性が絡んでこない。だから純粋な謎解きになる。
そのかわり、そのインモラルなゲームそのものから人間性が描かれていく。
二重三重に企みが塗り固められ、「葉桜」の時には嫌悪感しか抱けなかった歌野ミステリの特質に深く感心した。
だがひとつ。119ページの密室、僕は成立していないように思った。
これが成立していなくても物語の進行にはいささかも傷は付かないので、構わないといえば構わないのだが、どうも気になる。
「氷を使って、溶けたらかかるようにするっていう古典的トリックじゃないだろうね」「正解!」「正解かよ」みたいなやりとりなのだが、僕にはこの仕掛けはドアの内側からしか施せないし、施したらそのドアからは出ていけないと思うのだ。
誰か、この氷の古典的トリックの詳細を知っている人がいたらぜひ教えて欲しい。
(追記:幽かな、そして致命的でないネタバレ含む)
皆様から、棒の方を氷を使ってドアに斜めに固定しておく方法で可能、とのご教授を複数頂戴いたしました。
確かにそれがこの密室時限装置の基本的な考え方ですよね。
でも今回の件、「ドライアイス」使ったって書いてあるんだよなあ。
そんなふうに固定できるのかなあ、とちょっと未だ釈然としないのですが、「なんとかうまいことやった」と考えて忘れることにしました。
お騒がせして申し訳ないです。
2013年11月5日火曜日
漫画「ミタライ 探偵御手洗潔の事件記録」:日本文学がいつの間にか失った優しさの物語
モーニング誌で連載されている「ミタライ —探偵御手洗潔の事件記録—」だが、島田荘司ファンとしては見逃すわけにはいかない。
が、毎週漫画雑誌を買うというようなライフスタイルはとうにやめているから単行本が出るまで待って読んでいる。
その第二巻がついに発売された。
第一巻ももちろん既読で、「糸ノコとジグザク」「傘を折る女」の二本立て。
もちろん長編での壮大なトリックと人間描写こそが島田ミステリの真骨頂ではある。しかし短編もいい。事件の裏側に隠れるロジックが純度の高いアクロバットになりそこがとても楽しい。
通常のモーニングKCとは異なる質感の高い装丁もうれしい。
御手洗と石岡は美形のキャラクタとして描かれ、一昔前に流行った御手洗同人風。
島田先生はこれ抵抗ないのかな、と思っていたら、ご自身であとがきを書かれていて、むしろノリノリで当時の同人ブームを懐かしんでおられた。
懐が広いのである。
今回発売の第二巻では、名作「山高帽のイカロス」と大名作「数字錠」の豪華二本立て。
事件が見方を変えると、意外な真実の姿を現す見事な本格推理の「イカロス」も素晴らしいが、何度読んでも「数字錠」は本当にいい。
犯人もトリックもまったく意外じゃない。
でも、とにかくやり切れない事件だ。
「探偵はこんな罪も裁くのか」という御手洗の悲痛な台詞が忘れられない。
でも見逃しはしないのだ。
その代わり出来るだけのことをしてやる。
その御手洗の優しさの「質」がいいと思う。
現代のミステリのみならず、日本の文学が失った「優しさ」の表現がここにある。
小説的な技法の粋を尽くして読者をだますことに汲々としたミステリは、自身が文学の一部であることを忘れたかのようだ。
そういう風潮の中でもまったく魅力を失わないこの愛すべき作品が、漫画の姿で復活し多くの人の目に触れることはそういう意味でも実に喜ばしいことだと思う。
が、毎週漫画雑誌を買うというようなライフスタイルはとうにやめているから単行本が出るまで待って読んでいる。
その第二巻がついに発売された。
もちろん長編での壮大なトリックと人間描写こそが島田ミステリの真骨頂ではある。しかし短編もいい。事件の裏側に隠れるロジックが純度の高いアクロバットになりそこがとても楽しい。
通常のモーニングKCとは異なる質感の高い装丁もうれしい。
御手洗と石岡は美形のキャラクタとして描かれ、一昔前に流行った御手洗同人風。
島田先生はこれ抵抗ないのかな、と思っていたら、ご自身であとがきを書かれていて、むしろノリノリで当時の同人ブームを懐かしんでおられた。
懐が広いのである。
今回発売の第二巻では、名作「山高帽のイカロス」と大名作「数字錠」の豪華二本立て。
事件が見方を変えると、意外な真実の姿を現す見事な本格推理の「イカロス」も素晴らしいが、何度読んでも「数字錠」は本当にいい。
犯人もトリックもまったく意外じゃない。
でも、とにかくやり切れない事件だ。
「探偵はこんな罪も裁くのか」という御手洗の悲痛な台詞が忘れられない。
でも見逃しはしないのだ。
その代わり出来るだけのことをしてやる。
その御手洗の優しさの「質」がいいと思う。
現代のミステリのみならず、日本の文学が失った「優しさ」の表現がここにある。
小説的な技法の粋を尽くして読者をだますことに汲々としたミステリは、自身が文学の一部であることを忘れたかのようだ。
そういう風潮の中でもまったく魅力を失わないこの愛すべき作品が、漫画の姿で復活し多くの人の目に触れることはそういう意味でも実に喜ばしいことだと思う。
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