2013年12月18日水曜日

松崎有理「あがり」:自由をめぐる現代のルサンチマンの物語

久しぶりに新人さんの作品に天賦の才というやつを感じた。
松崎有理さんの「あがり」という作品。

東京創元社が始めた創元SF賞の第一回大賞受賞作である。
東北大学理学部卒の女性著者ゆえ「理系女子」の冠が付けられることが多いが、むろんこんな冠は全く不要の堂々たる「文芸作品」なのだ。

専攻された学問的専門性を遠慮なくぶちこんで濃密で確固とした作品世界を構築しているが、こういう作風にありがちな上から目線に鼻白むことがない。
抑制の効いた文体と、スパイスのように絶妙にあしらわれた自虐趣味が全体のバランスをとっている。
それも、よく言われる「計算された」構成とか文体というようなものではない。ここにはそういうあざとさは感じられない。

そしてこの6篇の短編からなる「北の街にある」大学の物語は、えもいわれぬ諦念感に満ちている。
自分の大学生時代を振り返ってみれば、あの頃「大学」という場所には自由という言葉がよく似合った。
経済的合理性の外側にある場所。
その中では交通法規さえも遵守に及ばず、免許取得のために大学農場横の道で運転の練習をするものまでいた。

それが今では、国立大学は独立行政法人になり採算性を求められるようになり、教員の雇用期間の問題が労基法ベースで語られている。
学問の府であるはずの大学にも卒業生の就職率を問う風潮が蔓延し、未だ国立理系ではそうであるようにその研究室が社会から評価されることで就職を担保することが王道であるはずなのに、面接の練習とか講演会を開くことで職員や学生をその本分から遠ざけている。
いつの間にこんな世界に僕らは来てしまったのだろう。

作者松崎有理さんは、この短編集の世界に「3年に一本論文を書かないと教職を剥奪される」という、あながち非現実的でもない法律を導入することで、この国にただよう現実の閉塞感を表現してみせた。

なぜ学問の府の自由は守られなかったのか。
それは、グローバリズムの猛威の中で厳しい環境に置かれ続けた経済の世界が、おい、あのアカデミーのやつらはどうして無風の中にいるんだ。あいつらにも少し世間の厳しさを味あわせてやれよ、と無言の圧力を寄せたからだ。
これは現代の「ルサンチマン」なのだね。

そうして僕らは未来につながる基礎研究の多くを失ったし、異能が育つ環境も大きく損なった。そしてその代わりに「愛国心」とやらを教えてくれるらしい。やれやれ。

しかし、松崎有理さんの作品世界では現実より一歩先に、より厳しく管理的になった大学世界を描いているが、そこで登場人物たちは、絶望し、錯乱し、それでも小さな幸福を見つけ、ときめき、走り、精一杯思う通りに生きようとしている。
結果は必ずしも可とでない。
でもだからいい。
結果を自分で引き受けるしかないからそこに「自由」があるのだ。

大学に入って最初に読めと言われた本はエーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」だった。近代社会が目指した「自由」が人間個人の尊厳の基盤であると同時に、他者の「自由」との軋轢の中で社会を壊していく要因になるという二面性を説き、その最悪の結果がナチズムへの民衆の熱狂的な支持であるとする古典的名著である。

松崎有理作品を読んで思うのは、今こそ、フロムの書いた自由と自由のぶつかり合いの世界から逃げようとするような翻弄される自分じゃなくて、もしそれが未来のために必要なら他人の自由をこそ寿ぐような自分になれたらいいのに、ということだ。
そしてこのような力を持つ「文学」を理系の視点から書き下ろした著者に心から敬意を評し、シューマンがショパンを世界に紹介するために紡いだ言葉を引用したい。
「諸君、脱帽したまえ。天才だ」


2013年12月1日日曜日

映画「トニー滝谷」:「村上春樹さん、やっぱり人生にはこういうことも起こっていいんじゃないですかねえ」

「トニー滝谷の本当の名前は、本当にトニー滝谷だった」というなんとも印象的な書き出しで始まる村上春樹の短編「トニー滝谷」が映画化されていたとはうかつにも知らなかった。
この原作小説は「レキシントンの幽霊」というジャズ・レコードが主役とも言える短篇を中心に編まれた短篇集に所収されている。

映画は76分ほどの短い作品だった。
いや、これは本当に映画だったのだろうか。
村上春樹の詩情と余白と余韻にあふれる短編にスタイリッシュな動画を添えた新しいタイプのノベル、と呼ぶほうがこの作品の放つ独特の存在感に相応しい。


そんなふうに思わされるほど、この映画は全編西島秀俊による原作小説の朗読によって時間の流れを支配されている。
そして芝居は名手イッセー尾形の一人芝居という佇まい。
そこに宮沢りえという天才の輝きを宝石のようにきれいに散りばめている。


この宝石は本当に綺麗だ。
原作にある「彼女はまるで遠い世界に飛び立つ鳥が特別な風を身にまとうように、とても自然にとても優美に服をまとっていた」という形容を、まさか本当に体現するとは!


このように映画という芸術の枠組みに入りにくくなってしまうほど原作に忠実であらんとした本作だが、ラスト、原作にないエピソードが追加されている。
だから、その部分が監督市川準がこの「映画」において表現したかった部分ではないかと僕は思う。


追加されたラストエピソードには、トニー滝谷と亡くなった妻が結婚した時、花嫁に関係を精算されてしまった彼氏が登場する。

彼はトニーに「やっぱりあんた、つまんない人だ。あんたの描く絵がつまんないみたいに」と言う。
この台詞だけが日本映画のボキャブラリーで書かれている。村上春樹はこのように比喩という技法を使わない。
だから逆に言えば、この台詞によってトニー滝谷は、原作短編に描かれた「今度こそ本当にひとりぼっち」になるラストシーンから開放されたのだ。

そしてかつて妻の服で埋めつくされ、それが無くなった後には父の古いジャズレコードによって占拠された部屋に寝転んで、泣き続け、まるでかつて留置所で死刑の順番を待っていた父のように人生に絶望した。

その絶望が、妻の身代わりにしようとかつて雇った女のことを思い出させる。
その女が残された妻の服に泣いてくれたことを。

それこそがこの映画の「希望」だ。
人の生きていく力だ。

村上小説が肯定しない、悲しみの果ての幸福を描いて「村上さん、やっぱり人生にはこういうことも起こっていいんじゃないですかねえ」と語りかけているのだ。
僕はそう思う。