2015年2月22日日曜日

御手洗潔と進々堂珈琲:島田荘司

昨年の森博嗣「すべてがFになる」に続き、ついに御手洗潔がテレビドラマ化される!
番組HP

ドラマ化されるのは「UFO大通り」収録の短編「傘を折る女」だそうだ。

UFO大通り (講談社文庫)
UFO大通り (講談社文庫)
posted with amazlet at 15.02.22
島田 荘司
講談社 (2010-10-15)
売り上げランキング: 3,790

「傘を折る女」はすでにコミカライズされている。「絵」になるストーリーに御手洗潔という名探偵の天才性を突き詰めて表現した、このタイプの代表作といえる。


島田荘司御大はいまだに旺盛に新作を書いており、御手洗ものの新作「星籠(せいろ)の海」で僕らを唸らせてくれたばかりだ。

その御手洗潔の大学生時代を描いた異色作が、新潮社から「進々堂世界一周〜カシュガルの追憶」というタイトルで出版されていたが、このたび文庫化された。
文庫化にあわせて「御手洗潔と進々堂珈琲」と改題された。

御手洗潔と進々堂珈琲 (新潮文庫nex)
島田 荘司
新潮社 (2015-01-28)
売り上げランキング: 49,658

が、あろうことか新潮文庫に新設されたライトノベルレーベル「NEX」からのリリースと聞いて昔からのファンは驚いたのではないか。
角川から出ていた「ロシア幽霊軍艦事件」と同時刊行となった。

表紙はサカサマのパテマやNO.6のキャラデザをやったtoi8さんだが、落ち着いたイラストでいい感じである。
が、やはり小説としてはNEX読者とはちょっと相性が悪いのではないか。

案の定、読書メーターなんかを見ていると、「初御手洗です。ミステリじゃなかったです。がっかり」的な反応が多く、明らかに失敗している。

これは御手洗潔という探偵物語の奥深さを指し示すAnother Sideなのであって、ファンにこそ深く刺さる作品。決して初御手洗にふさわしいものではないのだ。


ここに収録された4つの短編には、どれも国を跨ぐ人と人の繋がりが描かれている。
どの物語も、読み終えた後にむしろ「自分の国」について自分が知っていたと思っていたことが幻想であったということを思い知らされる。

田舎町にある「外国」と言っていいバーを経営する女性を好きになった高校生。
小さな街ながら、学習障害があるために異邦人として生きる少年が、自分の限界を超えていこうとする時に立ちふさがる偏見。
太平洋戦争を舞台に、植民地化された朝鮮の志願兵が体験する「祖国」からの迫害。
シルクロードの交差点で大英帝国とウイグルとの間で板挟みになった知識人の悲劇。

筆者はこの短篇集で、一貫して「愛国」という言葉の危険な思考停止を描いている。
それは日常にもあり、弱者の視線を見失った時に凶器に変わることを示唆している。
自分の視線がすべてだと思い込んだ人たちの善意が、抗い得ない運命として弱者を襲うことを教えてくれている。

誰もが、今よりもいい生活を望んでいるという幻想がそのエンジンを廻している。
隣の人が自分と同じだと思い込むシステムが僕らの神経組織には、ミラーニューロンという形でインストールされているので、なかばやむを得ないことではある。
それでも、自分と違う人がいるということ、その人が望んでいることもまた自分とは違うということを想像する知性がなければ、この世界から争いは無くならない。
争いが無くなることを望む人を「お花畑」という人は、それを想像したことがないのだろう。

ミステリだと思って読んだのにそうでなかったので残念だ、という感想こそが残念だ。
この物語は、人間という知性はなぜ時に想像する力を失うのかという最大の謎について描かれたミステリの傑作なのである。

2015年2月3日火曜日

セプテンバー・ラプソディ:サラ・パレツキー

サラ・パレツキーのV.I.ウォーショースキー・シリーズ第16作「セプテンバー・ラプソディ」
絶好調なのである。

シリーズ最長にして、間違いなく最高傑作の登場と言いたい。


セプテンバー・ラプソディ (ハヤカワ・ミステリ文庫)
サラ パレツキー
早川書房
売り上げランキング: 4,162

不思議なことだが後半を読んでいて、なんとなくCDをバッハの無伴奏チェロにしなくては、と思った。
CDを換えると、まもなく物語の中でも同じ曲が流れ始めた。

Cello Suites
Cello Suites
posted with amazlet at 15.02.03

Harmonia Mundi Fr. (2007-10-09)
売り上げランキング: 16,578

この曲は、16世紀の繁栄の後、宗教的な対立がヨーロッパの歯車を狂わせていった時代に、そのような人間の欲得とは無縁のところにバッハが打ち立てた金字塔だ。


この物語にうずまく本当にいろんな形の「エゴ」と、純粋な学問への「愛」のどうしようもない交わらなさ、にその対比はよく似ている。

人間は理解し合うことが絶望的に難しいからこそ、超越したものに憧れるのだろうか。