2013年11月23日土曜日

メアリ・シェリー「フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス」:それは異形の愛憎の物語

あまりにも有名なフランケンシュタインが、あの頸に釘の刺さった怪物の名前ではなく、それを作ってしまった科学者の名前だと知ったのはいつのことだったろうか。
そう知った時も原作の小説を読もうとは思わなかった。

ビブリオマニアの日常を描いて、ミステリやSFジャンルの読書愛好家に大きな共感を寄せられるCOCOさんの「今日の早川さん」という漫画作品に、フランケンシュタインはSFの起点であるか、またはホラーの原型であるかについて議論をされるシーンがある。
(COCOさんのブログでも読めます)

詩人パーシー・シェリーが愛人メアリを伴ってスイスのバイロン卿の別荘を訪れた際、田舎の夜の退屈しのぎにめいめい幽霊話を書こうという話になって、パーシーとバイロンがどんな話がいいか話し合っているのを聞いていたメアリが考案したのが「フランケンシュタイン」の原型になったことから、これはホラーの原型と見るのが正しいというのがこの漫画の一応の結論だった。
ちなみにこの場に居合わせた医師ポリドリが考案したのが有名な「吸血鬼」である。
なんとも歴史的な退屈しのぎではないか。


寡作の名匠ヴィクトル・エリセ監督の名作「ミツバチのささやき」には物語をドライヴする重要な要素を劇中劇として挿入される映画「フランケンシュタイン」が担う。
僕はここで観た映像の断片を、この物語の「あらすじ」として認識していた。
マッド・サイエンティストが作り上げた怪物が、その怪力と無邪気さゆえに、自分を恐れずに友達になってくれた少女の命を奪ってしまうという悲劇の物語だと。


ところが、今回読んでみた「フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス」は、僕の頭の中にイメージされていたフランケンシュタインの物語とはずいぶん違うものだった。


第一、ヴィクター・フランケンシュタインはマッド・サイエンティストなんかではなく、純朴なスイスの大学生で、錬金術をバカにする尊大な大学教授へのちょっとしたイタズラ心をきっかけに始めた研究が、彼の純粋な科学的好奇心に火を付けて、心ならずも怖ろしいクリーチャーを作り上げてしまった良家の子弟であった。

産み落とされた怪物は、無邪気な子どもの心のままではなく、潜み隠れた小屋から隣の家族を観察しているうちに高度な知性を獲得していて、引き起こしている陰惨な事件は純粋に人類への復讐である。

そしてこの物語は、ヴィクターの周りにいるものすべてを死に追いやり、ヴィクター自身は追跡行の果てに消耗し亡くなってしまう。その死を知ったクリーチャーも目的を失い自死を選ぶ。
どこにも救いはない。
そしてこの悲劇の原因は、どこまでいってもヴィクター・フランケンシュタインが、自らの生み出したクリーチャーを愛せなかったことにあるのだ。


僕らが猫を可愛がったり、花の美しさを愛でたりできるのは、猫や花が僕らを殺したりしないからだ。
どんなに愛らしい生物でも、我々に致命傷を負わせる能力を持っていて、それを僕らがコントロールできないとしたら、その存在を愛することは出来ない。

その生殺与奪権の移動をメインモチーフに人類のカタストロフを描いたのが「トリフィド時代」だろう。一定の大きさにならなければ人に害を及ぼさない謎の植物トリフィドが、ある事件をきっかけに「歩き」だし、人を殺傷し始める様子は確かに想像するだに怖ろしい。

つまり人は殺せるものしか愛せない生き物なのだ。
そして人間は、文明を発展させていく中で「殺せる」対象を拡大してきた。
相手が獰猛な野生獣でも武器があれば戦える。
機械的な仕掛けで、森林も伐採できる。

その過程の中で、我々は身体的な強弱とは無関係な生殺与奪を行い得るようになってしまった。
相手が人間同士ならいつでも殺し合えるということだ。
だからいつでも愛し合えるし、憎み合える。
いつでも殺し、殺され得る相手だからこそ、命をかけて添い遂げることができる。

本来ならヴィクターは、実験によって生み出したクリーチャーの「親」ということになると思う。
しかし、やはり彼は親ではないのだ。
「愛」と「憎」のどちらにも転びうる人間の気持ちの中から愛を選びとってはじめて、その間に生命が生まれる。
そのプロセスを経ない命は、やはり異形なのである。
だからヴィクターは親になれなかった。
愛してあげることが出来なかった。

だから彼らは、何度相見えようと互いを殺すことができない。
愛することができない存在を殺すこともやはり出来ないのだ。
そのようにして、あの物語はどこにも救いのないエンディングにならざるを得なかった。

「フランケンシュタイン」とは、メアリ・シェリーの想像力が象った異形の愛憎の物語だったのである。

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