2013年6月29日土曜日

「金田一少年の事件簿」20周年記念シリーズ、完結。

1992年に講談社の週刊少年マガジンに掲載された「オペラ座館殺人事件」で開幕した「金田一少年の事件簿」が、2012年に20周年を迎えたことから企画されて短期集中刊行されていた全5巻が完結した。



いつもの本格推理風味のケレン味たっぷりのトリックに、劇場的な殺害現場。
20年描きこんだ絵は洗練されて、人物はちょっと若返ったような気さえするが、安心して楽しめる。

連載開始時からのライバルである「名探偵コナン」が悲恋のラブコメという最強の舞台設定をもらって、堂々と日本の大衆娯楽の座に収まったのに較べ、こちらはあくまでも推理がメインディッシュ。
残念ながら、今回はコナンくんとひとつトリックがかぶっちゃったけど、概ね日本新本格の潮流を汲む大仕掛なトリックでよろしいんじゃないでしょうか。

思えば、第一作から島田荘司先生の、というよりも日本新本格の大代表作「占星術殺人事件」のトリックをそのまま流用していて、これって島田先生何も言わんのかね、いや、同じ講談社だし許可とってるんじゃ、とか、そんな許可するわけないじゃん、とかいろいろ騒がしかったが、結局どうだったんだろうか。

いまや新本格の世界も叙述トリックの作品が増えてきたり、ライトノベル風ミステリが本屋大賞なんてとっちゃって市民権を得ちゃったり、奥泉光先生まで、あの桑潟幸一をあんなふうにしちゃうなんて・・というような状況になっている。

あの時、島田先生がトリックの盗用だ、なんて大騒ぎしていたら表現形態がマンガとはいえ、この時代に貴重な本格ミステリの書き手をひとり失っていたかもしれないと思うと、島田先生の大ファンの一人としては、これはさすが島田荘司先生。先見の明だったですね、と心から申し上げたいところだ。

そして、今回の20周年記念シリーズの最後に登場した「薔薇十字館」(これはホントに面白かった!)から「館シリーズ」を開始するような雲行き。
で、建物の設計者が、地獄の傀儡師高遠の実の父親で、他にもたくさん変わった建物を設計していると。
ふむふむ、なるほど。
今度は綾辻先生なんですね。
うん、綾辻さんの館シリーズも講談社ですよ。
じゃ、大丈夫ですね。
たぶん・・

リスベット、という女- スティーグ・ラーソンが「ミレニアム」で戦った本当の相手

ミステリ評論も手がける友人が大絶賛していた「ミレニアム」シリーズを、文庫化を待って手にとった。

その友人は、ハードボイルド小説が嫌いだと言っていた。
探偵がふと立ち寄った場所に何故か手がかりを持った人がいたり、何気なく開いた雑誌に犯人の過去が書かれていたりといった、不自然なご都合主義が散見されるからだという。

その点このミレニアムでは、「ジャーナリストが過去に起きた事件を解決する」というアプローチが実に自然に機能していて、もしかしてジャーナリスト探偵ってのは、現代ミステリーにおいてそもそも不自然なところのある「探偵役」をどうするか、という問題の、ひとつの有力な解なんじゃないだろうか。


そしてなにより、複雑に入り組んだ物語そのものがかなり面白い。

40年前のハリエット失踪事件。
ヴァンゲル家のお家騒動。
経済ジャーナリスト、ミカエルと極悪実業家ヴァンネルストレムのペンと権力の闘い。

これらの単独でも充分読み応えのあるエピソードが、あざなえる縄のようにからみ合って一つの大きな奔流を作り出している。
逆に言えば、ちょっと複雑。
外国名の多く出てくる小説が苦手な人には、なじみのない北欧名が多いのでちょっとつらいかもしれない。

でも大丈夫。

極めて個性的で魅力的なキャラクターたちが、物語を強力に先導してくれる。
なかでも「ドラゴン・タトゥーの女」ことリスベット・サランデルの魅力に抗うのは難しいだろう。

そして、このリスベットの存在こそが、この長大な小説世界の主題である。

著者スティーグ・ラーソンは、15歳のころ一人の女性が輪姦されているところを目撃するが、何もせずその場を逃げ去ってしまう。
そしてその翌日、被害者の女性に許しを請うが拒絶されてしまうのだ。
その時以降、自らの臆病さに対する罪悪感と女性暴力に対する怒りが生涯つきまとうようになる。
その被害者の女性の名前こそ「リスベット」。

15歳の時に持っていなかった勇気。
理不尽な暴力に立ち向かう力。
しなくちゃいけないことを、どんな犠牲を払ってでも実現する強固な意志。

それらすべてを体現したアンチヒロインがリスベット・サランデルなのである。
スティーグ・ラーソンの無念を、魂を、存分にこめて造形されたヒロインなのである。

そこに、純度の高い正義をたっぷり詰め込んだ主人公ミカエル・ブルムクヴィストを配置しての物語構成は実に見事で、このシリーズさえも完結させずに世を去ってしまったことが本当に悔やまれる。


この物語が世界中で大きな共感を呼ぶのは、我々が誰も自分の過去と「戦い」ながら生きているからだと思う。
そしてこの戦いは絶望的に不利だ。
なぜなら過去は変えられないからだ。

それでもこの戦いを勝手に放棄することができないことは、深夜、夢の中まで追いかけてくる身悶えするほどの後悔の念に目を醒ましたことのある人にはわかると思う。

だから、せめてリスベットとミカエルに気持ちを託しながら、物語の世界に身を任せて、ほんの束の間その絶望的な戦いから解放されるのだ。
そして、彼らの運命を見届けて本を置いた時、ほんの少し自分の気持ちが軽くなったのを感じる。
これはそういう本だと思う。


2013年6月28日金曜日

加納通子という女 - 島田荘司論考

非常に多作な作家である島田荘司氏の作品群は内容も実に多彩だが、その中に核になる大きな二つのシリーズがある。

名探偵御手洗潔シリーズと、警察官吉敷竹史シリーズだ。

変人だが天才肌の御手洗潔と凡庸な作家石岡和巳が、まるでホームズとワトソンそっくりに事件を解決していく御手洗ものは人気も高いし、それぞれの作品の完成度も高く、僕も愛着のある作品が多いシリーズだ。

吉敷竹史ものは、警察官が主人公であるので、どちらかというと着実な推理によって不可能犯罪の謎を解くという趣になっていて、コアな本格推理ファン向けかな、と思う。

その吉敷竹史シリーズの中核を担っているのは、吉敷と別れた妻、加納通子との不思議な因縁の物語である。
僕はこの一連のエピソードが島田作品のなかでもとりわけ好きで、何度も何度も読んでいる。

吉敷竹史シリーズで、通子関連の重要エピソードを含むのは、「北の夕鶴2/3殺人事件」「飛鳥のガラスの靴」「羽衣伝説の記憶」「涙流れるままに」の四作品。
御手洗シリーズの「龍臥亭事件」にも通子の性格形成に大きな影響を与えたであろう出来事が著述され、続編の「龍臥亭幻想」では加納通子本人も登場していて(吉敷竹史も出てきて不在の御手洗の代わりに謎、解いちゃってます)全体像を掴むためには必読である。


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加納通子は、盛岡の地主の娘として生まれ、小作農の子である藤倉兄弟を奴隷のように扱って少女時代を過ごした。
女王的な振る舞いがエスカレートした先に、悲劇的な事故が起こってしまう。
そのせいで、酷いトラウマを背負い込むことになり、後に大きな事件に巻き込まれていく。

そしてその傷ついた心の深層には、強く封印されたさらに忌まわしい過去が眠っていた。

自分の中に眠っていた過去を知ってしまった彼女は、愛する娘のために自分自身のルーツを辿る旅に出る。
その旅の中で彼女は自分に流れる恐ろしい凶悪な犯罪者の血脈を見てしまうのだ。


なぜ、そこまで徹底的に可哀想なのか。
どうしてこんな女性像を、島田荘司は描かなくてはならなかったのか。


通子が巻き込まれた事件も、過去に血族に起こった悲劇も、日本が変わっていく中で田舎に押し付けられた歪ではなかったか、と僕は思っている。


十九世紀から二十世紀にかけて、ヨーロッパを起点に世界の仕組みは大きく変わっていった。

前近代的な世界は、社会全体の生産力も高くないのに、王政の支配のもとで富の独占が行われるし、慢性的に戦争もやっている。

多くの市民は農業を営み。工業的生産は家内制手工業。
ビジネスの基本ユニットは「家業」だ。

行き過ぎた圧政さえなければ、自分の所属する社会に疑問を持つ余地はない。

しかしゆるやかに世界の人口は増え、資源を狩り尽くしていきながら、どの国もさらに多くの領土を必要とするようになり、結果戦争は激化し、資金確保のために民の負担は増えていく。
折り悪く、地球は全体が寒冷化に向かい、世界各地で飢饉が起きた。

不満は爆発し、「革命」は起きた。
社会の仕組みは王政から、民主社会へ大きく舵を取り、必然的な帰結として産業革命にたどり着き、後戻りのできない飛躍を遂げた。

王政の軛を逃れた人々は、自由を手に入れたが、代わりに責任も負った。
誰も得をしない世界では、誰かの面倒を見ることは、それ自体が社会の機能であり、誰かの「負担」ではなかった。
でも自由な世界では、どんな行動も「誰か」の責任を求める。
そこで、なんらかのロジックで社会全体でそれを負担するシステムを作るようになる。

そうして我々の複雑な社会は組み上げられていった。


明治維新で、鎖国から解放された日本は、この痛みを伴う民主化のプロセスを経過せずに、欧米に学ぶことで新しい社会システムを手に入れた。
この新しいシステムは、地縁を棄てた人たちが集まって急速に形を整えつつあった「都会」ではうまく機能した。
しかし、田舎に住む人たちにとって、皆が平等で、そのかわり皆が個人の責任で生きるのだという考え方は、根強く残る地縁のシステムとは簡単には折り合わなかったし、必要とも思えなかった。
だから、この新しい考え方を受け入れるスピードには大きな個人差があった。

地主と小作農、本家と分家といった古い身分に基づく人間関係の垣根を社会制度がどんどん取り払っていく中で、そこに出来た隙間に足を取られるようにして思いもよらない凄惨な事件が起きていたのである。

そのひとつが、加納通子のルーツと設定された「津山三十人殺し」で、これは「八つ墓村」のモデルにもなった日本犯罪史上最大の被害者を出した大量虐殺事件である。


島田荘司はこの津山三十人殺しを、御手洗シリーズの「龍臥亭事件」「龍臥亭幻想」という二部にわたる大長編で取り上げ、さらに吉敷竹史シリーズの中核にある吉敷と加納通子の問題のバックボーンにも置いた。
島田荘司の強い問題意識がそこにある。

社会に改革が起きるたびに、めざましい進歩がある傍らで、その歪が市井の人々を苦しめる。
教科書に決して書かれない、そんな人々の苦悩を、加納通子は一身に背負った。

その苦悩故に幸せになることを怖がり、拒む。
しかし心には愛がある故に証を求め、そしてそれは得られた。


やはり人間は強い。
そう思う。

2013年6月25日火曜日

ゆっくり歩いて行こう、「八月の鯨」を待ちながら

まだ若かった頃、渋谷という街の、小さい異形がたくさん集まってひとつの特徴ある情熱を形成しているような熱気が好きだった。

新宿にオフィスがあったので、よくゴールデン街近くのカラオケスナックで歌った後、ゴールデン街に流れて内藤陳さんの「深夜プラスワン」そして演劇評論の本陣「ナベサン」などを廻った。
それでも酒の席では、ハードボイルドのことも、演劇のことも、語る言葉が上滑ってもどかしいことが多い。そんな時は仲間と別れてひとりタクシーで渋谷まで行った。

そして決まってセンター街の奥にある「八月の鯨」というバーで、今日話すべきだったことを想いながら映画の名前のカクテルを飲んだ。
もちろん映画の「八月の鯨」から名付けられたバーで、有名映画に題材を採ったオリジナルカクテルが人気だった。

このバーには何度も行ったのに、不思議なことに「八月の鯨」という映画は観たことがなかった。
それもそのはず、この映画つい最近までDVD化されていなかったのである。

初見なのに、不思議な懐かしさを感じながらこの映画を観た。


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サラとリビーの姉妹は、60年来、夏になるとメイン州の小さな島にあるサラの別荘で過ごしてきた。
少女の頃、八月になると入江に姿を見せた鯨を、彼女たちは駆けていって見た。
しかし、それも遠い昔のこと。
いつの間にか、鯨は入江に姿を見せなくなった。

サラは、第一次世界大戦で若くして夫を亡くした。
リビーは病のため目が不自由になった。
二人は大きな喪失を経験したが、支えあって生き抜いてきた。

しかし、視力を失い他人に頼らなければ生きていけないリビーの心は徐々に荒れ、言葉に棘を持つようになっていた。
彼女たちの家には、幼馴染みのティシャや修理工のヨシュア、近くに越してきたロシア移民のマラノフ氏らが訪ねてくるが、リビーは無関心を装う。

ある日、サラはマラノフ氏を夕食に招待した。
マラノフは自分がロシアの没落貴族であることを打ち明け、お互いの昔話に時がたつのを忘れて聞き入った。
が、リビーは何よりもサラが去って一人ぼっちになることを恐れていた。
サラの気持ちがマラノフに傾いていくのを感じてか、この家に寄宿することは期待しないでくれ、と言い捨てて宴席を立ってしまう。

サラは姉のことを詫びたが、リビーの直感は当たっていて、マラノフは、亡命してきても過去の栄華を忘れることが出来ず、各地を転々として、裕福な老婦人を見つけては取り入って寄生するという生活をしてきたのだと遠回しにサラに打ち明ける。

そしてサラとリビーにはもう近づかないとほのめかしてマラノフ氏は帰っていった。


マラノフは、ポケットにロシア王朝に仕えていた頃の母の写真を大切に抱いている。
そして永遠に失ったはずの栄華を忘れられず、自分の足で歩き始めることが出来ない。

サラは若くして夫を失いはしたが、現実を直視して足元にある幸せをかみしめて生きている。
リビーは、まだ自分が失ったものを悔やんではいるが、サラの生き方をそばで感じながら少しづつだが再び心を開こうとしている。

最後に別荘の壁に穴を開けて大きな窓を付けようと言い出したのが、その一歩だ。


マラノフには、その一歩がどうしても踏めないのだ。
ポケットの写真と宝石がそれをさせないのだ。
だからマラノフは栄華を取り戻すことはできないとわかっているのに転々とせざるを得ない。
心の時間が止まっているから、そこに生活という時間を刻むためにとどまることができないのだ。

そして、サラとリビーは、自分の時間をゆっくりとだが、確実に前に進めているからこそ、明日また鯨が入江に来てくれるのを心から信じて待つことができるのだ。

渋谷の「八月の鯨」で呑んだくれたあの懐かしい日々に確かに感じた熱狂も、幸い僕の時を止めはしなかった。
失ったものだっていくつもあるけれど、明日がくるのを楽しみにして生きている。
いつか僕にとっての鯨が入江に来るのを、今日も待ち続けながら、ゆっくりと歩いていこうと思う。

2013年6月24日月曜日

フェリーニ「甘い生活」でマルチェッロが失わなかったもの

イタリアという国の不思議な魅力に取り憑かれて、若いころ長期休みが取れると決まってイタリアに出かけた。
フェイレンツェの郊外で、マルチェッロという若い元ビジネスマンが営む小さなアグリツーリズモの宿を定宿にしていた。

マルチェッロは英語が達者だったから、比較的複雑な話題(どうして、小渕みたいな地味な人が首相になれるんだ?とか)でもコミュニケートできたが、彼以外の家族はまるで英語が話せなかったから、簡単なイタリア語で話をしているうちにだんだん喋れるようになった。
一応街のカルチャーセンターでイタリア語の基礎を習ってはいたが、やはり現地で過ごすことが一番勉強になる。


将来、現役を引退したらイタリアに、定住とまではいかなくても、ある程度長い期間イタリアに住もうと思っている。
だが、カフェの経営なんぞをやっているとおいそれと休んで海外に行くことなどはできず、気付くとイタリア語もあらかた忘れてしまっていた。

学校に行くより実践がいい、と知っていたので何か適当なイタリア映画のDVDを買って時々観ることにしようと考え、以前から気になっていたフェデリコ・フェリーニ監督の「甘い生活」を買ってみた。


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「甘い生活」の主人公、マルチェッロ(なんと定宿の主人と同じ名前ではないか)は、作家になりたくて郊外の小さな村からローマに出てきたものの、今はしがないゴシップ記者に身をやつし、相棒のパパラッツォ(この見境無くセレブの写真を撮りたがる男の名を複数形にして、現在のゴシップカメラマンたちをパパラッチと呼ぶようになったのだ)と有名人のスキャンダルを追いかける日々だ。

が、一見暮らし向きは派手で、豪華なナイトクラブから富豪の娘マッダレーナを連れ出し、深夜のローマを疾走したり、ハリウッド女優を取材すれば、野外で狂騒し、トレビの泉で戯れる。

乱痴気と頽廃に支配された街ローマ。
キリスト像はヘリコプターでバチカンの真上を運ばれ、子どもたちは、「聖母」を見たと言わされ、テレビ・ドキュメンタリーの素材になる。
ナイトクラブでは、インドの踊りを喜び、民衆はイタリアの土着信仰を捨てないまま、キリスト教徒のふりをしている。
同棲中のエンマは彼の言動を嘆き自殺未遂をしてしまう。


そんなある日、田舎から突然父親が訪れて、一緒にローマの夜を楽しむ。
父親の年季の入った遊びように、自分の今までの生活にふと疑問を覚えたマルチェッロは、再び作家の道を目指すべく、タイプライターを抱えてローマの外れの海沿いのカフェに隠遁し、そこで天使のような少女パオラ(ヴァレリア・チャンゴッティーニ)に出会い、束の間充実した日々を送るが、やがて自分の才能に絶望し退廃の都ローマに戻ってしまう。

古くからの友人スタイナー一家を訪れ、自分の将来について話を聞きたいマルチェッロ。その知的で落ち着いた暮らしぶりを羨むが、可愛い二人の子どもも、教養も、カネも、友人も持っているのに、意外にもスタイナーの心には希望の炎はなく、彼の時は止まっていた。
彼にも「将来」などはなかったのだ。
そして突然、子連れの無理心中で突然死んでしまう。
残されたのは救いのない絶望だけだ。


いよいよ狂乱の生活に没入するマルチェロは海に近い別荘で仲間と淫らに遊び耽る。
彼らが享楽に疲れ果てた体を海風にさらす朝、マルチェッロは波打ち際に打ち上げられた怪魚(巨大なエイだ)の、悪臭を放って腐り果てるさまを凝視した。

海岸に出来た大きな水たまりの向こうで、あのローマ郊外で再び小説家を目指したカフェで知り合った可憐な少女ヴァレリアが何事かマルチェッロに伝えようとしているが、波音に消されて聞こえない。
マルチェッロは、彼女の顔さえも思い出せない。
マルチェッロは立ち去り、享楽と退廃の日々に戻っていく。

残されたヴァレリアの物言いたげな微笑みのアップで映画は幕を下ろす。
その微笑みこそが、彼の最後の救いだったはずだ。

フェリーニは、慎重にたくさんのエピソードを折り重ねて、マルチェッロの周辺にいるローマの人々の「救い」を一つ一つ潰している。
そして最後に、遣わした天使に気付かない、という不幸でマルチェッロの救いを粉砕した。


それでも。
僕はその先にもうひとつの救いがあると思っている。
少なくともマルチェッロの時間は止まっていない。
マルチェッロの父親のあの姿が、マルチェッロに時間を与えていると思いたいのだ。

人は誰も親になってはじめて、生まれてきた意味を知る。
この子の「犠牲」になりたいと心から思う時、本当の幸せの意味を識る。

たぶんスタイナーとマルチェッロの最大の違いは父性の喪失の有無だと思う。
「甘い生活」もまた、現代を彩る数多の名作と同様、父性を巡る物語だったのだ。

2013年6月23日日曜日

ドストエフスキー「悪霊」は予言の書であった

ドストエフスキーの「悪霊」は、1871年から翌年にかけて雑誌「ロシア報知」に連載され、1873年に単行本として出版された著者の代表作のひとつ。

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架空の世界的革命組織のロシア支部代表を名乗って秘密結社を組織したネチャーエフが、内ゲバの過程で一人の学生をスパイ容疑により殺害した、1869年のネチャーエフ事件から、この小説の構想を得たという。

過去の事件に材を採っていながらも、これは予言の書でもある。
第一部、第三章の8項でキリーロフはこう語る。

「生命は痛みであり、恐怖であり、人間は不幸だ。痛みや恐怖と引き換えの生命なんて欺瞞だ。だから人間はきっと未完成なのであり、生きていてもそうでなくてもどっちでもいい「新しい」人間が必ず現れてくるだろう」と。

そして彼は、その上で「自殺」論を展開していく。
恐怖を殺すためにのみ存在する自殺。
それが神への唯一の道だと語られる。

これはまさに伊藤計劃の「ハーモニー」の世界そのものではないか!
1872年に書かれた物語に見え隠れするSFの想像力にも、巨匠の思想を見事な未来像に定着させた伊藤計劃の才能にも改めて戦慄するほかない。


怒濤のように謎を振りまきながら進行していく物語の合間に、ドストエフスキーはまたしてもキリーロフを語り手に予言を織り込んでいく。

第二部、第一章5項で「死と永遠と時間」の関係を語るキリーロフの言葉はさながら狂人のようだが、時間の中で真実が風化していくくらいなら、死がもろともに時間も止めてくれたらいいと僕だって思う。

社会が迷走し、対立する意思が生まれ、民衆が構造的に持っている「愚かさ」が、不思議なことに必ず自らを苦しめる方向にドライブしていく。
本書は、その避けがたく深刻な要因を考察しているように僕には思えるのだ。


「悪霊」はルカの福音書に出てくる、人に取り憑く「傲慢」のことであった。
ルカの福音書内で、キリストは病人に取り憑いたこの悪霊を豚に憑依させ河で溺れさせ殺してしまう。
福音書がこのエピソードで何を伝えようとしているのか僕にはわからない。
しかし、ドストエフスキーがこの長大な物語の主題に埋め込んだ「悪霊」を祓う者はついに現れない。
だとすると、人はどうしようもなくそれに翻弄されて生きていくしかないように思う。

そうでなければ同じ聖典を戴く者たちが大まじめに殺し合う、現代という時代の不思議さを説明できないではないか。
やはり「悪霊」は予言の書であったのだ。


2013年6月20日木曜日

コニー・ウィリスが「犬は勘定に入れません」にしのばせた「ユーモア」の本質

コニー・ウィリスのオックスフォード大学史学科シリーズの第二作目「犬は勘定にいれません」



2057年、オックスフォード大学は、空襲で焼失したコヴェントリー大聖堂の復元計画のために大わらわ。
計画の責任者兼スポンサーのレイディ・シュラプネルは人使いが荒く、とにかく強引で、 こき使われる学生も職員も疲労困憊。
そのなかでも失われた「主教の鳥株」の行方を探せと命じられた史学部の大学院生ネッド・ヘンリーは、ネットで20世紀・21世紀間の時間旅行を繰り返させられ、とうとう重症のタイムラグ(時間旅行酔いのこと)に陥ってしまった。

2週間の絶対安静を言い渡されたが、そのくらいでレイディ・シュラプネルが解放してくれるとも思えない。
ネッドの身を案じたダンワージー教授は、ちょっとした任務を与えて、ネッドを19世紀のヴィクトリア朝へ逃がすことにした。
ところが、タイムラグで聴力も思考回路も麻痺しているネッドは、 そのちょっとした任務すら把握できていなかった。


というわけで、冒頭、時間酔いでふらふらになっているネッドくんの主観で物語が語られていくため、読んでいる側も、どうもよくわからない。
わからなくていい。
そして任務の中核になるアイテムがどっか行ってしまっているのに気づいて、一緒に慌てればいい。

ここで慌てておかないと、この後が面白くない。


そして、簡単なはずのミッションが、俄然困難なものになってから、サポートに力を発揮するヒロインのヴェリティがいい。
なにしろユーモアの理解度が高いってのが実にいい。

ユーモアってのは、教養をベースにした「ひけらかし」だし、ある種の不適切さを燃料に発火する害のない悪意のことだから、そういう無意味さを楽しむというような性向は、どちらかというと男性的なものだと思う。

100万円の真空管アンプを買って、あれやこれや真空管を取り替えて「うーん、音が違う」などと呟いたり、古くてカビ臭いレコードを買い集めて回ったうえに「うーん、やはりオリジナル盤は・・」などと唸ったりするのは、この性向の延長にある。

この不可思議な性向を理解してくる女性がいてくれたら・・というのは実は男性が無意識に胸に秘めている願望でもある。

そしてその流れに乗っかって、ユーモアの応酬を楽しんでいると、ラスト近くで、
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「ネッド」
ヴェリティが緑がかった茶色の瞳をまんまるにしてあとずさった。

「ハリエット」
僕はすでに輝いているネットの中へとヴェリティを引き寄せた。
そして、百六十九年間にわたるキスをした。
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と不意打ちがくる。
(男性であるネッドだけが、この期に及んで、まだセイヤーズを引用して「ハリエット」と呼びかけていることに注意。これこそが、ユーモアが男性的なものである証拠である)

まいったなあ。

SF小説というのは、ジャンル小説なのであって、気を抜くとすぐに類型的なものに堕してしまうものだ。
本作は、イギリスの古典文学に材を採り、喜劇という最古の物語プロットを借りて、世の中でもっとも陳腐なものになりやすい「男と女」というテーマを描いたものだ。
それでもなお、ステレオタイプを許さないのが天才ウィリス。

第一級コメディの筆致に、がははと笑いながら身をゆだねて、その奥にしのばせた女性作家ウィリスの目から見た「ユーモア」の本質への冷たい眼差しをちくりと感じる。
これもまた小説の楽しみなんだなあ。

2013年6月18日火曜日

コニー・ウィリスの「ドゥームズデイ・ブック」で、タイムパラドクスが起きない本当の理由

コニー・ウィリスの「ドゥームズデイ・ブック」は、タイムトラベルが可能になった時代のオックスフォード大学の史学科を舞台にした物語である。
そこでは歴史研究のために史学生(ヒストリアン)が、時間を遡って「現場」を観察する。

ドゥームズデイ・ブック(上) (ハヤカワ文庫 SF ウ 12-4) (ハヤカワ文庫SF)
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ウィリスの考案したタイムトラベルは一風変わっていて、何も持ち帰れないし、歴史が変わるようなことは出来ないようになっている。
なんかすると歴史が変わってしまうような場所には、そもそも行けないようになっているのだ。

だから時間テーマのSFの基本的なディレンマである「タイムパラドクス」はここでは物語を進めるエンジンになってくれない。
その代わり、タイムパラドクスを未然に防ぐために時間そのものがタイムトラベル装置に干渉して生じさせる「ズレ」と、予め知っているはずの歴史が、しかしやはりそれは文字だけの情報であって、現地に立ってみると意外なほど実態が違い、うまく物事が運ばないという案件が生じて、物語を面白く進めてくれる。

ドゥームズデイ・ブック(Domesday Book)というのは、イングランド王国を征服したウィリアム1世が行った検地の結果を記録した世界初の土地台帳の通称である。1085年に最初の台帳が作られた。
本来、ドゥームズデイ(Doomsday)とは、キリスト教における「最後の審判」のことで、全ての人々の行いを明らかにし罪を決定することから、12世紀ごろからこの台帳をドゥームズデイ・ブックと呼ぶようになった。つづりが変わっているのは、dome が「家」を意味するからであろう。(wikipediaより)

本作では、まさに当時の人にとっては最後の審判にも思えただろう厄災を描いていて、それを暗示したタイトルになっているのだ。


タイムトラベルを主題にした物語は、たいていの場合時空を超えた愛の哀しい定めか、のっぴきならないトラブルの原因を過去に戻ってやり直すかに類型化される。
しかし、天才コニー・ウィリスはそんなステレオタイプを許さない。

ここに描かれているのは、過去におこったことを知っているはずの、そして観察者として時代を覗き見ているだけのはずのタイムトラベラーさえもぐぐっと巻き込んで、それでもなお、簡単には左右されずに厳然と存在する「人間」という存在なのである。
だから、本当は「タイムパラドクスが起きない」のではなくて、人間という存在はそんなものに左右されるようなヤワな存在じゃないんだ、ということなのではないのか。


そして本作では、災厄の時代に送り込まれた史学生を救うはずのハーバード大学の史学科も、同時に大きなトラブルに見舞われてしまう。
命を救うために極度に進化したテクノロジーがあっても、それを運用するのが人間である以上、そこに起こる不都合は、疫病は神罰であると心底信じている中世のパンデミックのそれとほとんど変わらないことが、巧みな構成で描写されていく。

そして我々は、ひとつひとつ手を抜かず描き込まれた、近未来社会とタイムトラベルした先の中世で失われるいくつもの命を通じて、やっぱり重要なのは「人間そのもの」なのだ、と思い知るのだ。


しかし、ウィリスが描き出す「状況の動かなさ」っていうのは、僕らが明け方に見る悪夢によく似ている。ウィリスっていう作家は現代に生まれた新しい「プルースト」なんだな。

それにしてもなんと多くの命が失われる物語か。
その度に身を切られるように辛くなる。

憎まれ役の登場人物も、あまりにうまく描かれているので、こいつになんか罰が当たればいいのに、と思っていたらあっさり死んでしまった時の、あの気持ち。
なんかいつかどこかで経験したような苦い気持ちだった。

こんな重たいストーリイを軽妙でユーモラスなタッチで駆け抜けていく技量や、キャラクタ造形も凄いのだろうが、そういう文体技量云々の話を、この物語は拒絶している。

そういった表層的なものに目を奪われて大切なことを見失った、現代(現代だけがこの物語に登場しない時制なのだ)という時代の危うさこそが、この二重時制の物語の主題なのだ。
そう思う。

2013年6月16日日曜日

「あの胸にもういちど」マリアンヌの黄色いヘッドライト

『あの胸にもういちど』はフランス耽美派の作家マンディアルグの小説「オートバイ」をジャック・カーディフが映画化した1968年の作品。


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レベッカを演じるのはローリング・ストーンズのミック・ジャガーの恋人で、当時22歳のマリアンヌ・フェイスフル。

64年にミックとキースが共作したデビュー・シングル「As Tears Go By(涙あふれて)」が全英1位を獲得。ポップ・アイコンとして一世を風靡した。


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この映画でマリアンヌ・フェイスフルは、素っ裸の上から黒いレザースーツをきゅううっと着て大型のバイクに乗り、サドルの上で跳ねながら疾走していく。
この時のマリアンヌ・フェイスフルが、初期ルパン三世の峰不二子のモデルであるのは、もはや定説だ。



Harley-DavidsonのFat Boyの美しいフォルムが彼女によく似合って、フランスでもこの映画の公開後、時ならぬハーレー・ブームが起きたという。

僕もこの映画でのハーレーは本当にかっこいいと思う。

僕は子供の頃「750ライダー」という漫画を読んでバイクに憧れて、いつかはナナハンに乗るぞ、と決めていた。
だが、長じてみるとどうやら自分には大きなバイクに乗る運動神経は無さそうだと気付き、自分以上にそれをよく知っている家族にも猛反対されてバイクに乗るのを断念したのだ。
そんな自分の夢を葬り去る鎮魂のために、ディアゴスティーニのハーレー・ファットボーイモデルの1/4模型を大枚はたいて注文して作成したことがある。
そのハーレーが出来上がった時、部屋を暗くしてライトを付けてみると、マリアンヌのファットボーイと同じようにライトが黄色く点灯して、感激した。



ところが、ディアゴスティーニの掲示板では、「バイクのライトが黄色いなんてありえない」とか「実車のファットボーイ・ユーザーだが、黄色いライトのハーレーは歴史的にも存在しない」などという流言飛語が飛び交って、せっかくカッコいい、その黄色のライトを白色に交換するのが大流行していたのである。
それ自体は個人の自由だと思うが、「交換するのが面倒だから黄色のままでいいや」と思うのと「マリアンヌのファットボーイと同じでカッコイイ」と思うのでは随分違うと思うので、僕はこの映画には感謝している。


さてそのマリアンヌ扮するレベッカが愛するドイツの大学教授ダニエルを演じたのがフランスのトップ・スター、アラン・ドロン。当時31歳。
この『あの胸にもういちど』では知的で冷酷なサディストを魅力的に演じている。

大学での授業で、結婚という概念にとらわれないフリーラブについての定義をドロン扮するダニエル教授と学生達が議論するシーンが出てくる。
それは愛のない欲望なんだ、とダニエルは結論付けている。

そして、レベッカはダニエルの元に向かうのは鳥の群れの本能のようなものだと言っている。もちろん新婚早々の若妻である自分が夫が寝ている間に恋人の元に向かうのはモラルに反するのは承知している。
しかしダニエルに逢いたいという感情を抑えることができず、その行動は本能、つまりダニエルの言う「愛のない欲望」に基づいたものであるということになる。

社会的に褒められた関係ではもちろんないわけだが、あまりにも美しいアラン・ドロンとマリアンヌ・フェイスフルによって演じられる、その不道徳は、それ故に現実感のない輝きを放っていて、眩しい。

だから、野暮な言葉で評論するのはやめて、その輝きに見蕩れようじゃないか。
ではどうぞ。







ジュデダイア・ベリー「探偵術マニュアル」:神秘的で、そして悲しき架空の魔法世界でハードボイルドする事務員の物語

雨が降り続ける名もない都市。
「探偵社」に勤める記録員アンウィンは、ある朝、前触れもなく探偵への昇格を命じられた。
記録員の仕事を心から愛するアンウィンは、抗議のため上司の部屋を訪れるが、そこで彼の死体を発見してしまう。
なりゆきで、そのまま探偵として捜査を開始するはめになるのだ。

時を同じくして都市随一の探偵シヴァートが失踪。
彼はアンウィンが記録を担当していた探偵だった。
謎の女が依頼に訪れ、アンウィンは事件の迷宮に足をとられる。

行方不明になったシヴァートのあとを追ううちに、シヴァートが昔手がけた事件が実はまだ進行中であることが明らかになってくる。

ジュデダイア・ベリーのハメット賞受賞の驚異のデビュー作。


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夢と現実、過去と現在、敵と味方が渾然一体で、これはもうどんでん返しですらない。
結局事件の解決は、夢の中で「行われる」(夢で見るのではない)。

さらに要所要所で鍵を握るのは、サーカスの魔術師。
神秘的で、そしてちょっと物悲しい架空の魔法の世界は、そのままこの物語世界のようだ。

ハードボイルドなはずの探偵物語は、本来事務を得意とするトホホホな主人公によって右往左往する。(なのに、この物語からはハードボイルドな薫りが色濃く立ち込めている。この筆力はただごとではない、と思う)

片手に拳銃、片手にランチバスケットの助手のエミリー・ドッペルがかわいい。かわいいが、ちっともあてにならない。

なんて素敵な道具立てを揃えたのだろう。
映画で観たい。ぜひ観たい。

夢と現実を行き来するだけでなく、夢の中の夢まで出てきて、本来論理的な道具である「言語」なんかを使って、よくここまでの不思議世界を表現できたものだと感心しきり。

アクロバティックな物語構成だが、それもこれもアンウィンという語り手の生真面目さが成立させているのだ。

だが普段のスピードで読むと必要な情報を読み飛ばしてしまうことがあるかもしれない。二行戻って、ああなるほど、というような読み方がいい。

心急かされない状況で無心に読みたい一冊。

2013年6月15日土曜日

虚構の世界は現実ほどの謎には満ちてはいない - デイヴィッド・ゴードン「二流小説家」

デイヴィッド・ゴードンの2010年に発表した小説デビュー作にして、アメリカにおけるミステリーの最高峰、「MWA(アメリカ探偵作家クラブ)賞」の2011年度ベスト・ファースト・ノヴェル(最優秀新人賞)ノミネート作となった「二流小説家」は、日本のランキング誌でも軒並み上位を独占した人気作だ。

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ハリーは冴えない中年作家。
シリーズ物のミステリ、SF、ヴァンパイア小説の執筆で何とか食いつないできたが、ガールフレンドには愛想を尽かされ、家庭教師をしている女子高生からも小馬鹿にされる始末。
だがそんなハリーに大逆転のチャンスがやってくる。

かつてニューヨークを震撼させた連続殺人鬼から、告白本の執筆を依頼されたのだ。
ベストセラー作家になって周囲を見返すため、殺人鬼が服役中の刑務所に面会に向かう。
そこで、依頼主であるダリアンに「刑務所にファンレターを送ってくる"俺の女性ファン"に会い、そいつらをモデルに官能小説を書いて、俺に読ませるんだ。そうすれば、告白本のインタビューを受けさせてやる」と、取引を持ちかけられる。
ハリーは、その申し出を受けることにしたが、そのとたん事件に巻き込まれていく。

ここから二転三転していく展開は、時間制約型の純粋なサスペンスで、謎解きそのものを楽しむ風味は薄味かもしれない。
しかし、事件の全体像は複雑で意外。かなり意表をつかれた。
そしてその入り組んだ事情にハリーは、もうこれ以上ないほど翻弄される。

そしてその翻弄の結果たどり着いた作家的心境こそが、この長い物語の終着点である。

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「推理小説を書くにあたっていちばん厄介なのは、虚構の世界が現実ほどの謎には満ちてはいないという点にある。人生は文学がさしだした形式を打ち破る。」

「真の不安と危機感とは、先の見えない“いま”をいきていることからこそ生じるものなのだ。“いま”という時は、一瞬一瞬に類がなく、二度と繰りかえされることがない。ぼくらにわかっているのはただひとつ、それがいつかは終るということだけだ。」
----------------------------------------------
少しでも(小説ではなく)文学に心を寄せた経験のある者ならば、この最終80節のハリーの心情の吐露に少なからず心が動いたのではないだろうか。

私は激しく動揺した。
そして、出会う小説のほぼすべての「最初の一行」の出来や「最後の一行」の後の読後感に拘泥していた自分の読み方の甘っちょろさを後悔した。

文学とは読み手の生の投影に他ならない。
終わりのある「虚構」によって、明日も続いていく日々を組み上げる作家という仕事の苦難と覚悟。
それが原題の「Serialist」(連載作家)の真意だろう。

文学とは書き手と読み手の両方によって完成される。
それがどんな本であろうとも、その覚悟を持って読む時、今まで以上に豊穣な果実が得られるのだろうと思う。

どん詰まりの現代社会が産み落とさせたお伽話 - スティーヴ・ハミルトン「解錠師」

ここ数年国内小説のランキングには正直首を捻ることが多いが、海外作品はだいたい受賞ものやランキング上位作品は当てになる。

この解錠師という作品は、本国ではMWA賞の最優秀長篇賞とCWA賞のスティール・ダガー賞を獲り、翻訳でも、このミスと文春の海外ミステリ・ベストテンで1位を獲得した作品だが、評価どおりの見事な出来だと思う。


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原題は「Lock Artist」。
鍵の芸術家、とは洒落てるよね。


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この小説は、金庫破りの天才少年の手記の形で語られる。

18歳の誕生日を目前にした寡黙な少年。
抜群の解錠技術に加え、その寡黙さゆえに絶大な信頼を得る少年犯罪者。
しかし彼は喋(しゃべ)らないのではなく、喋れないのだ。

手記は二層の時間に分かれ、それを交互に配する形をとる。
一は彼の現在、二はロック・アーティストとして修業を積んだ苦難の日々。

「声を喪(うしな)う」にいたった酸鼻な過去が明かされるのは、末尾近く。
そして、手記が誰に向かって書かれるのかも、そこで明らかになる。
彼は鍵を解錠するように、過去の封印を解除することに成功した。

犯罪小説であり、恋愛小説であり、闇に閉じこめられた少年の解放の物語でもある。
ジャンル的にはクライム・サスペンスなんだけど、全編なんとも甘酸っぱくて。
ラストも、え、今時そんな素直で素敵な終わり方でいいんだあって感じで、越前敏弥さんのスムースな訳も手伝って、それはそれは楽しい読書だった。


だから、これについては、なんだかいつものように色々分析とかしたくない。
これはそういう物語。

そう、これは人間社会がどん詰まりに近づいてしまったからこそ必要とされているお伽話なんだな。

この本はどんなことがあっても、シーリア・フレムリンの「泣き声は聞こえない」と一緒にそっと本棚の奥にしまっておこう。
それがここにあるとわかっているだけで、心が少し強くなるから。


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2013年6月14日金曜日

「ミツバチのささやき」は、まるで詩のように

淀川長治氏は、この「ミツバチのささやき」という映画について、こう言っている。
「この映画は詩であるから何度とりだして見つめても聞きいっても飽きることはない」と。
まことにそのとおりだと思う。


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しかし僕の短い映画歴の中で、おそらく最も繰り返し観たこの映画との出会いが、「となりのトトロ」を十全に理解するためであったことを、まず告白しておかなければならない。

宮崎駿監督は、「となりのトトロ」を作るにあたり、とある意図を持ってミツバチのささやきの基本構造を使っている。

都会からの移住してくる一家。
知識人で研究者の父。
母の不在。
仲の良い姉妹。
精霊との邂逅。
そして妹の失踪。

この双子のようによく似た構造の映画の決定的な差異が、スペイン北部カスティーリャ台地の荒涼とした荒地と、初夏の所沢の豊穣な自然である。

スペイン北部もかつては豊かな森を持つ地であった。
森は十字軍の遠征で大量に必要とされた資材を得るために伐採され、強国として海洋を支配した繁栄の時代に致命的に伐り尽くされたのである。

宮崎駿監督は、となりのトトロという、精霊と子どもたちが心通わせる豊かな日本の原風景を描いた映画の時間軸の外側に、そっと忍ばせておいたのだ。
「しかしその豊かさも近視眼的な繁栄に目を眩ませていると簡単に失われて取り戻すことはできなくなってしまう」という警告を。


そしてそれはもともと「ミツバチのささやき」という映画の中にビルト・インされていた警句でもあった。



はるか以前の繁栄のために失われた自然。そしてもうその繁栄も失われて久しいというのに、4年にもわたって内戦を戦い、今もまだ不和は続いている。

それでも悪霊を追い払い、収穫を祈願してみなで火の上を飛び越える「サン・ファンの火」という古いケルトの習慣に起源を持つ行事は時を超えて人の心の中に生き、続いている。

そして子どもたちは変わらず精霊の存在を信じている。

だから映画がアナ・トレントの目を借りて世界を著述するとき、それは合理主義に席巻される以前の姿を取り戻す。


そして映画は、ミツバチの巣箱の「支配者」である父の視点に切り替わり、世界はくすんだ現実にたちまち戻ってしまう。
彼らの住まう家も、ハチの巣と同じ六角形の窓を持ち、父の支配がここにも及んでいることを暗示している。

いや、現実の世界そのものが合理の支配を受ける「ミツバチの巣箱」なのだ。



この映画の原題は「蜜蜂の巣箱の精霊」である。
精霊とは言うまでもなく、アナの目から見たフランケン・シュタインであり、現実では小屋に身を潜める男のことである。
そして彼は現実の巣箱にからめとられ、命を奪われる。

アナは精霊の死を機に、残酷な現実から逃げようとする。
しかしこれは彼女が現実を受け入れ始めたということに他ならない。
そしてその二重性に耐えかねたかのように、アナは深い眠りにつく。まるで繭の中の眠りのように。

目覚めた時、アナは力強く自分の足で立って明日を見る、しっかりした眼差しを得ていた。
同時に、母の心も再生し、家族が再構成されていく。
しかしそのモーションの中で、適切な儀礼を得られなかったイザベルの心の歪みが「私はアナ」という台詞で表わされ、現実というもののままならなさを痛いほど突きつけられてしまう。
それもまた現実なのだ。


そしてこうやって懸命に言葉にしようとすればするほど、この映画の詩情から遠ざかってしまうのを感じる。
でもその距離こそがこの映画の価値なんだと心に確かめながら、もう一度、そしてもう一度と、この詩のような映画を何度もとりだしては、見つめて、そして聞きいるのだ。

伊藤計劃「ハーモニー」のその後で

なんとなく、日本SFの世界で伊藤計劃と円城塔という二人の若い才能が新しい波を起こしている、という感じは、書評界のざわめきや書店の書棚から伝わってきていた。

円城塔の早川文庫収録作「Self-Reference ENGINE」を手にとってみたが、まるでプログラミング言語を読んでいるような味気なさに驚いて、「新しい世代の文学なんだな」という思いと、日本語で書いてあるのに「わからない」文学が生まれてきたのかという寂しさのような感情がせめぎあった。
結局、その本は読まなかった(読めなかった)。


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その円城と盟友として紹介されることの多い伊藤計劃の「ハーモニー」という作品が出てきた時、直後作者が若くして亡くなったというニュースにも動かされて、これまた手にとってみた。
今度は、比喩ではなくプログラム言語そのもので書かれていた。

冒頭部分を引用する。
---------------------------
01

いまから語るのは、

<declaration:calculation>
  <pls:敗残者の物語>
  <pls:脱走者の物語>
  <eql:つまりわたし>
</declaration>

引用終わり---------------

このような表記法が、「地の文」として多用されるのだ。
技法としての意図を汲み取ろうという努力を拒絶されたような気分になって、棚に本を戻した。

しばらくして、前作「虐殺器官」も、「ハーモニー」も文庫化され、円城塔の芥川賞受賞があり、「伊藤計劃・円城塔以降」と呼ぶべき新しい文学の波紋が、飛浩隆や東浩紀、宮内悠介のような若い書き手はもちろん、まどマギや進撃の巨人など広範囲に影響しているのを見て、興味を抑えきれず、重い腰をあげて、まずは「虐殺器官」の文庫を手にした。


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これが凄かった。
詩情あふれる美しい文体で綴られる「残酷」そのもの。
あのプログラム言語的なギミックは見当たらない。

僕はこの世界を共通して覆う問題のほとんどは、政治や企業や家庭、個人といったあらゆる階層で対症療法的に繰り返される打ち手が、副層的に影響しあってどうしようもない合成の誤謬に陥っていることが要因なのだと思っている。

「虐殺器官」は、9.11以降の「テロとの戦い」(という語がすでにして対症療法的なのだ)が先鋭化して、行き着くところまで行った時、人間の尊厳そのものを武器とするほかなく、それゆえに「殺す」ことは「愛」と無関係になり、その必然的な帰結として殺戮は無差別となり、対象は文明そのものとなった未来を描いている。

そこは人間が理性の力で紡いできた思想の城が無力化された世界だ。
暗黙の了解として持ち出すことのなかった、「絶望」そのものを刃とした殺戮の物語は、必然的にそれまでの文学とは一線を画される。


だからなのだろうか。
僕はこの異形の物語に大変感心して、周囲の誰彼にこの小説の素晴らしさを興奮して語ったから、少なくない友人がこの本を読んでくれた。
でも、この物語に同じような感銘を受けてくれた人は少なかったし、むしろ読み通せなかった人の方が多かったように聞く。

無理もないと思う。

この作品は、そもそも小松左京賞にノミネートされながらも最終選考で、小松左京御大ご自身から、「虐殺の武器」が本当は何だったのかが明示されていないことや、虐殺者の動機がよくわからない、との評をもらい、落選している。
(円城塔の「Self-Reference ENGINE」もこのとき同時に落選している)
SF界の巨匠ですら理解しがたいテーマだったのかもしれない。

でも僕には、その武器はこれ以上ないほど、人類の未来の武器の究極の姿を的確に表現しているように思われたし、そも個人の動機でない、というところにこの物語の絶望の源泉があるわけだから、なんと的はずれな落選評かと思われたのだ。


そういうわけで、僕はもちろん一度ページを捲り続けることをあきらめた二作目の「ハーモニー」に再度挑戦することになったが、これはあまり熱心には人に勧めなかった。


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原著のカバー裏に記された、あまりにも美しい「あらすじ」を読んだあとでは、自分で筋をご紹介する気になれないので、そのまま引用させていただく。

-----------------------------------

「一緒に死のう、この世界に抵抗するために」―御冷ミァハは言い、みっつの白い錠剤を差し出した。
21世紀後半、「大災禍」と呼ばれる世界的な混乱を経て、人類は医療経済を核にした福祉厚生社会を実現していた。
誰もが互いのことを気遣い、親密に“しなければならない”ユートピア。
体内を常時監視する医療分子により病気はほぼ消滅し、人々は健康を第一とする価値観による社会を形成したのだ。
そんな優しさと倫理が真綿で首を絞めるような世界に抵抗するため、 3人の少女は餓死することを選択した―。
それから13年後、医療社会に襲いかかった未曾有の危機に、かつて自殺を試みて死ねなかった少女、現在は世界保健機構の生命監察機関に所属する霧慧トァンは、あのときの自殺の試みで唯ひとり死んだはずの友人の影を見る。
これは“人類”の最終局面に立ち会ったふたりの女性の物語―。
『虐殺器官』の著者が描く、ユートピアの臨界点。
(改行は引用者による)
---------------------------------------------

伊藤計劃は、ここでも対症療法的な人間の生き方が、どこに我々を連れて行くのかを、考えうる限り最も非感情的に描こうとした。

伊藤はこの小節を難病治療のベッドの上で書いた。
自分の脳に、(比喩ではなく)ガンマナイフをあててもらいながら。
医療というものの行く末に何があるのか、彼の想像力が紡いだ未来がこれだった。

病気にならない=幸せであるために人間が引き替えにしなくてはならないものを考えていった時、彼がたどりついたのが「幸福とは、夢も希望も必要ない状態である」という結論だった。
切ないじゃないか。

僕らは本当にそんな選択をするだろうか。
という問いは伊藤計劃には無効なのだ。
彼には選択肢がなかった。

だからこの物語には、続きはない。
これ以上、書かれなければならない言葉はないだろう。

僕はそう思っていた。


神林長平が、「いま集合的無意識を、」を書くまでは。


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「いま集合的無意識を、」は、表題作を含む六編を収録した短編集。
その表題作にて、神林長平は、自分、つまり「ぼく」を語り手に、コンピュータネットワーク越しに語りかけてくる、亡くなったはずの伊藤計劃に真情を吐露する、というお話。
まさに「死せる計劃 、生ける長平を語らす」だ。

で、「ぼく」はなんと言ったのか。

-----------------------------------------

「きみが伊藤計劃だというのならば、ではきみに言おうじゃないか。大丈夫だ、われわれが、ぼくが、書いてやる。少なくともぼくには、たとえば今回の震災で心理的打撃を受けたりしている若い作家たちに向けて、現実=リアルに屈するな、フィクション=虚構の力を信じろ、きみたちがやっていることはヒトが生きていく上でパン(とワイン)と同じように必要不可欠なものだと、叱咤激励する力はまだある。ヒトは、フィクションなしでは生きていけないんだ」

-----------------------------------------

実体としての伊藤計劃と、その作品があまりにも強く結びついてしまって、いわば伊藤計劃の亡霊に足を取られているんじゃないのか、フィクションの力を信じろ、と言っているのだ。
では、読者としての僕も信じてみようじゃないか。
ヒトは、フィクションなしでは生きていけないと、僕も思うから。



付記

伊藤計劃の絶筆を円城塔が引き継いで書いている、という話は聞いていた。
出版された時は、もちろんためらいなく購入して読んでみた。


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残念ながら、伊藤計劃作品の奥底に流れている、人類への冷ややかな視線を流麗な文体で覆い隠したあの独特の手触りは、ここにはない。

「夭逝した鬼才の遺志を、芥川賞作家が継いで完成させた」という期待感で読まれるはずの多くの方に、そういう気持ちで読まないでくださいと懇願してまわりたい気分だ。

もっとなんというか軽い、よく出来た歴史改変もののエンタテインメント小説だと思う。

そう思って読めば、ウィリアム・ギブソンとブルース・スターリングの「ディファレンス・エンジン」を嚆矢とするスチーム・パンクの「蒸気機関」を「ゾンビ」に置き換えたもので、設定のユニークさは特筆に値するし、円城のデビュー作「Self-Reference ENGINE」からの連続性も見て取れる。
円城塔の最新作、という置き方で読むのが吉、とみた。


2013年6月12日水曜日

十二人の怒れる男

「十二人の怒れる男」という、終始部屋の中で心理劇が展開する映画のことを知ったのは、三谷幸喜の「12人の優しい日本人」が話題になってからのことだった。

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名作の誉高い本作は、レンタル店でもかならず揃えているから、「12人の優しい日本人」を観るとき併せて観た。

その頃、下北沢の小さな劇場で、劇団七曜日などの演劇を毎週のように観に行っていた僕は、その小劇場的な演出の手触りがとてもよく似たこの映画がとても好きになった。
だからDVDの価格がこなれてきて、よい映画が安価で入手できるようになったとき、真っ先にこのDVDを入手した。

スラムに住む18歳の少年が、「父親をナイフで刺し殺した」として第1級殺人罪で死刑に問われる。無作為に選ばれた12人の陪審員たちが、殺人事件に対する評決を下すまでを描いた法廷劇。

ほとんどひとつの室内で完結するコンパクトな舞台に、劇作家レジナルド・ローズは小さなアメリカを再現してみせる。

陪審員長は中学校の体育教師で、フットボールのコーチをしている。
臆病な銀行員に、高圧的な会社経営者。彼は5年前に仲違いした息子との確執がある。
冷静沈着な株式仲介人もいて。このあたりがホワイト・カラーの集団。
彼らは、やり取りに反応的に対処する人たちだ。

そしてスラム育ちの工場労働者や塗装工の労働者がいる。
彼らは同じスラム育ちの少年の裁判で遠慮がちに、場の空気に合わせようとしている。
めんどくさがり屋なセールスマンは、今夜のヤンキースの試合を楽しみにしていて、時間ばかりを気にしている。

建築士(ヘンリー・フォンダ)は、裁判そのものに疑念を抱いているし、人情深く洞察力のある老人も、場に流れる空気には疑問を感じている。
アメリカの保守的な知識層だ。

一方、居丈高な自動車修理工経営者は差別意識が強いし、ユダヤ移民の時計職人は聡明な人として描かれている。
そして、広告代理店宣伝マンはあくまでも軽薄に振るまい、他人の言動に左右され続け、結局自分の意見を持つことはない。

このようなアメリカ国家の縮図に、レジナルド・ローズは、全員一致の採択を求めるのだ。

現実の世界には、意志の統一を図っていく時に「全員一致の採択」を求められることはほとんどない。
インスタントな意思決定は多数決で事足りるし、合意が必要な時でも、階層が上の人が作ったシナリオに笑顔で合わせていくことで、無用な軋轢なく社会を運用していくすべを僕らは知っている。

だから、劇中の彼らも、無意識的に形成された「有罪」の空気にしたがって、場を運用しようとしたのだ。
ヘンリー・フォンダが、「人の命を5分で決めてもし間違っていたら? 一時間話そう。ナイターには十分間に合う」と言い出すまでは。

有罪の評決が出れば、少年は電気いすで死刑になることが決まっている。
ヘンリー・フォンダが、この場に持ち込んだのは、公権力による「殺人」の権利が今この場に委ねられているんだよ、という指摘だ。
思えばやはり奇妙な制度ではある。裁判員制度というのは。


「あの不良が。連中は平気でうそをつく。真実なんてどうでもいいんだ。大した理由がなくても奴らは人を殺す。気にするような人種じゃない。奴らは根っからのクズなんだ」
という陪審員の発言で、この「殺人」権の行使基準が「偏見」に大きく依存していることが明らかになる。

これはアメリカという多民族国家が内包している構造的な問題ではあるが、どんな社会でも人はそれぞれだし、複数の集団が出来れば、その間には偏見が存在するだろう。
日本版「十二人」である「12人の優しい日本人」では、最初の評決が逆に全員「無罪」から始まるというところが、同質社会である日本らしさを見事に表現している。
それでも、そこには根深い偏見がやはり存在しているのである。


事実、社会にこのような偏見から生じた争い事はたくさん起こっていて、そしてそこに「ヘンリー・フォンダ」はいない。
われわれ一人ひとりが「ヘンリー・フォンダ」になれるだろうか、と映画を見なおして自分に問いかけた時、答えがなかなかイエス、と断言できないなら、いったい僕らに何が出来るんだろう。

その答えを見つけるまで、この映画は輝きを失うことはない。

2013年6月11日火曜日

ハイペリオン・サーガは、キーツがばらばらにしちゃった「虹」を取り戻すための物語なんだと思う

1989年に就職で東京に引っ越した。
それまで住んでいた札幌も適度に都会で非常に住みやすい街だった(だから今、帰ってきて終の棲家をここに作ったのだ)が、年若く、文学や音楽に心動かされることが多かった僕には、その東京の環境は、まるで文化のすべてがそこにあるように感じられて、もう熱に浮かされたように、休日になると神保町や渋谷や秋葉原を歩きまわった。

その頃、書店にいつも平積みになっている分厚い「ハイペリオン」という新刊のSF小説が気になっていた。
なにしろ表紙が、生頼範義氏のものだ。少年時代を平井和正の幻魔大戦角川文庫版と親密に過ごした身としては、生頼氏の表紙絵であるというだけで、それは特別な薫りがした。

それに「ハイペリオン」という名前!
神話的で、不思議な響き。
意味もわからないまま、ずっとその名前だけが頭の中の一部を占めていた。

ただ、その本は新人社会人の貧弱な住環境にはちょっと厚すぎたし、その頃の僕はSFやミステリの古典的な作品を取り敢えずひと通りおさえておかなくっちゃ、という強迫観念にかられていたので、その新刊を購入するには至らなかった。

だから何年かたって、「ハイペリオンの没落」が、またあの厚い装丁で生頼氏の絵をまとって書店に平積みになっているのを見たときは動揺した。
続編が出たのか!

一冊でさえ買うのをためらうボリュームに続編とは。
この時も余裕ができたら買おうと、書店を後にしたが、そのまた数年後に「エンディミオン」、さらに「エンディミオンの覚醒」と、あの独特の薫りを発散しながら書店の店頭に1989年から1997年の間、定期的に出現しては、平台に鎮座まします大巨編たちを僕は呆然と見つめることになったのだ。


結局このハイペリオン・サーガ四部作は、2000年から2002年にかけて8冊の文庫版として刊行された。
で、やっとこのSF小説の、いやエンタテインメント小説のすべてをぶち込んだような長大な物語のすべてを僕は購入し、没入し、耽溺した。

時は28世紀。
人類は「転移ゲート」というテクノロジーで、宇宙に進出していた。

舞台は辺境の惑星ハイペリオン。
そこには時を超越する殺戮者「シュライク」を厳重に封じ込めた謎の古代遺跡「時間の墓標」があり、あろうことか、それが開き始めるのが観測される。
いったい何が起きているのか。

おりしも宇宙の蛮族「アウスター」が、ハイペリオンに侵攻を開始。
「時間の墓標」の謎を解くため、連邦は、ハイペリオンに因縁浅からぬ7人の「巡礼」を送り込む、というお話。

第一部の「ハイペリオン」は、全体の導入部で、7人の巡礼がひとりずつ、巡礼行に参加するにいたった経緯を語る。なんと文庫上下巻の第一部は、この打ち明け話で終わってしまい、本当に驚いた。
それぞれの巡礼の話は、詩情あふれるものもあれば、完全なハードボイルドもある。
宗教や戦争をテーマにした話もある。
そして、それぞれに相応しい異なる文体で語られていく。

確かに非常に魅力的な「連作短編集」だが、ストーリイは動いていないも同然なのだ。
よし、ほな「墓標いきまっか」というところでブチッと終わる。
まじか。

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それが第二部「ハイペリオンの没落」になると、突然息もつかせぬ大スペクタクルになって、これでもかこれでもか、と近代ハードSFのガジェットや、SFのエポックを作ってきたアイディアが惜しみなく投入されて、あああああ、と思っているうちに物語は大きなカタストロフを迎え、そしてひとつの文明が終焉する。終焉して終わり。
カタストロフィのみ。カタルシスなし。
おいおい。
どうなるのこれ。

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そして第三部「エンディミオン」の物語は、その300年後のハイペリオンから始まる。
ああ、そゆことね。そうだよね。
ここから本題なんだね。うん。

青年ロール・エンディミオンは、年老いた詩人から、宇宙を救う「救世主」を守るよう依頼される。まもなく「時間の墓標」から現れるというその救世主は、なんとまだ12歳の少女、アイネイアー。
なにがなんだかわからないまま、一体のアンドロイドを従えて宇宙船に乗り、苦難の旅に乗り出すエンディミオン。
一方、連邦にかわり人類社会を支配するカトリック教会組織「パクス」は、アイネイアーの命を狙って執拗な追跡をしかけてくる。

例によって、舞台設定だけで一部まるっと使ってるけど、ここまで読んだ人はもう完全にこのペースに慣れてて、本作の本当に魅力的なキャラクターたちに心を寄せながら、真の試練への旅にともに旅立つ準備を完了する、これはそういう物語なんだな。

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そしてラストの第四部「エンディミオンの覚醒」の開幕だ。

しだいに救世主としての本質をあらわし宇宙を駆け巡るアイネイアーの旅に歩調を併せ、急速にすべての伏線は回収されはじめる。
第一部、第二部の登場人物も、意外なカタチで再登場する。

彼らは、人類の未来をかけて、「パクス」との最後の戦いに臨む。
そして・・・
このラストシーンは、いったいどういう言葉で形容すればいいのだろう。

ハッピーエンドというのは、人の「望ましさ」に働きかけて心を動かす。
だとすると、これは違う。
どうしても動かしがたい運命を知ることは、本当はすべての希望を喪うことではないのか。
それでもこのラストシーンほど、「希望」というものの冷たい力強さを心に消えない傷跡のように残していく物語を僕は知らない。

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それにしても印象的な「ハイペリオン」の名は、ゼウス以前の太陽神の名だ。
ヒュペリオーンの名のほうが一般的ではないだろうか。
と、ここまで来て「あれ、どこかで・・」と思ったジャンプ愛読者の諸君。
そうです。
あのSKET DANCEにたびたび登場する、素っ頓狂な想像上のスポーツ「ヒュペリオン」の元ネタですね。

くだらないのに、いつのまにか猛烈な熱狂の中にプレーヤーを巻き込むこのスポーツにちなんで、「ハマる」ことを、この漫画内では「ヒュペる」「ヒュペったあー」などと形容する。

まさにこの小説のことではないか。
スケダン作者の篠原健太氏もハイペリオン・サーガに「ヒュペった」ひとりに違いないと僕はにらんでいる。


さてこのヒュペリオンを固有的にハイペリオンと表記するケースがあって、それが英国の詩人ジョン・キーツの詩「ハイペリオン」と「ハイペリオンの没落」だ。
そのまんまだったんですね。

これは、古いギリシャの神話にあるタイタン族とハイペリオンの没落、そしてアポロの勝利を歌ったものである。

さらに七巡礼の一人、女探偵レイミアも、キーツの詩集「レイミア」(1819)に由来していて、このベースになっている神話が「異類婚姻譚」なわけで、このサーガ自体が、キーツの創作世界を背骨にして構成されているという見方もできるだろう。


ハイペリオン・サーガにはジョン・キーツご自身も登場しているが、決してその名声に見合った敬意を払われているとは言えない。
それには理由があるのだ。

詩集「レイミア」には、アイザック・ニュートンのプリズムによるスペクトル発見に代表される科学、哲学の発展が文学の詩情を破壊した、と激しく非難する内容がある。(wikipediaより)

リチャード・ドーキンスは、詩の中の一節"Unweave a rainbow"(「(学問が)虹をばらばらにする」=虹の解体)を自著の題名に採って、キーツに代表される文学者の科学に対する否定的見解に強く反駁する。
科学の発展こそが、宇宙に対する"センス・オブ・ワンダー"(驚嘆する精神)を生み、それこそが詩情の源泉となる、と。

虹の解体―いかにして科学は驚異への扉を開いたか
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ダン・シモンズは、ドーキンス氏に先んじて、このレイミアにSF作家として同様の、いやそれ以上の憤りを感じ、ハイペリオン・サーガにジョン・キーツの創作世界を奪胎することで、ドーキンス氏のこの卓見を、実際の著作において存分に、そして彼らしい皮肉な方法で証明したかったのではないか。
だとすると、それは間違いなく成功している。
ここに描かれているのは「宇宙」そのものだ。