ラベル 評論 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 評論 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2015年1月15日木曜日

ぼくの住まい論:内田樹

内田樹先生の「日本辺境論」からは、「中華思想」というアジア全域を舞台に、想像を絶する長い時間をかけて展開し続けた壮大な政権交代システムのことを学んだ。

日本辺境論 (新潮新書)
日本辺境論 (新潮新書)
posted with amazlet at 15.01.15
内田 樹
新潮社
売り上げランキング: 3,567

「現代霊性論」という著作からは、信仰のあるなしにかかわらず、「死者を正しく弔うこと」への畏れの感情があることを学んだ。なぜなら人は死者のほんとうの気持ちがわからないからだ。

現代霊性論 (講談社文庫)
現代霊性論 (講談社文庫)
posted with amazlet at 15.01.15
内田 樹 釈 徹宗
講談社 (2013-04-12)
売り上げランキング: 179,743
これらの「論」には定性的なエヴィデンスがない。
しかし心が納得する。
それはきっと自分自身のこれまでの経験が、その論を支えている思考の展開を支持するからだろうと思う。


新潮文庫に新しく収録された「ぼくの住まい論」は、それらよりもずっと身近なテーマを題材にしているが、論調は変わらない。

ぼくの住まい論 (新潮文庫)
内田 樹
新潮社 (2014-12-22)
売り上げランキング: 31,648

冒頭から、誰のものでもなかったはずの土地に、勝手に線を引いて売り買いする権利はどこから発生したのか、という刺激的な疑問の提起からこの本ははじまる。
家を建てるための最初の一歩である「土地の入手」への疑義からこの本ははじまるのである。

続いて、一般的な家族の有り様や、家の構造が、家族の中で最も弱いものをかばうようになっていないことに強い疑義が提示される。
家が、傷つき疲れたものが体を癒やし英気を養うためのものでなく、強者が住まうことが前提になっているから、バリアフリー化をしたり、手すりをいっぱいつけたりしなくてはならない。
その家に住めなくなった者のための施設も必要になる。
国家予算の半分ちかくを社会保障に費やす必要があるのは、個々の家に福祉の“思想”がないからだと喝破しているのである。

また家を建てるための材木を探す中で、グローバリズムが日本の林業を壊滅寸前まで追いやっている現状に直面する。
“安いからこっちを買う”という精神の貧しさ。
近隣の産業を壊滅させれば、今まで自分の生活を消費者として支えてくれていた隣人を失うことに気付けない愚かしさを指摘する。

左官職人や瓦職人の生き方から、分業でないことの力強さを語る。
寺田寅彦の「文明が進むほど、自然の暴威に破壊されるものが大きくなる」という言葉を引用し、レヴィ・ストロースの言う、間に合わせで生きていく技術「ブリコラージュ」に言及する。
なぜ分業し高度化するのか。
それは経済的成長のためだ。
では、経済的成長とは、いや有り体に「儲かる」ってどういうことだ。
内田先生、ここに至ってカネをたくさん得ることへの疑義を呈する。

「交換」を効率的に行うために作られた“虚構”であるところの貨幣は、それ自体に価値はない。
交換して得られるべきものも、自分の身体のサイズを超えて得る意味は無い。
サイズを超えて求めれば、貨幣で貨幣を買うしかない。
この滑稽なゲームが我々が現在金融経済とよんでいるものの正体であると。

家作りの工程に併せて、内田先生の社会観がひとつの形になっていく見事な論説集と思う。
いや、意地悪な言い方をすれば、今まで出されてきた衒学的で寄せ集め感の強い論考集の多くが、家作りという人間存在を嫌でも「表現」してしまうテーマの元でうまく統合された、というべきか。

効率重視で勝つことが最優先の世界への疑義。
弱き者への視線が社会を根本から変えていくというビジョン。
現代にこそ提示されるべき「小国寡民」と「アジール」の思想。
それらのすべてが「住まいの思想」の中に統合され得ると証明してみせたことが本書の真の果実なのである


2014年12月22日月曜日

新・戦争論:池上彰・佐藤優

池上彰さんと佐藤優さんの共著「新・戦争論」が売れている。
お二人とも、非常にフレーズ作りのうまい方だなあと、ご著書を読むたびに感心する。
それは、たとえば飲み屋なんかで時事的な話題になった時に、一言でおっと思わせるような印象的な切り口の言葉だ。

集団的自衛権の話題になった時、「ああ、あれは公明党がうまいことやったよね・・」と言えば、えっえっ、どういうことってなるでしょ?
また、今度のアメリカ大統領選では、ブッシュ弟が出てきて、ヒラリー・クリントンと一騎打ちになりそうで話題になっているが、そういう時も、「湾岸戦争の時のパパ・ブッシュは賢かったのにね・・」といえば、え、うそうそなんで?ってことになって、またしても居酒屋政談のイニシアチブはこっちのものだ。

どちらも答えは本書に書いてある。
本書は「プロっぽい」ものの言い方のカタログなのである。

なかなか理解し難いイスラムに関連する国際紛争も大筋で俯瞰できるし、これも報道などではあまり使われていない印象的な言葉でまとめてくれているので、用語が理解しにくい分、敬遠しがちなこのテーマの格好の入門書としても機能する。


通読して感じることは、二十世紀の戦争はまだ終わっていないんだな、ということだ。
勝者の思惑で引かれた新しい秩序という名の不完全な境界線は、多くの歪を生み出し、イデオロギー対立による東西冷戦という新しい大きな危機の陰にかくれて少しづつ臨界に近づいていった。
そしてその冷戦構造が無くなった今、古い起源の歪が前景化している。
すでに臨界は破れ、いくつもの軍事的衝突が起こっているこの時代は、のちの時代から見ればやはり二十世紀から続いた戦争の世紀であったと評価されるに違いない。

問題は、小国が対象になっているときは根本的な世界の有り様を考え始める機運がおこらないということではないだろうか。
結局のところどう言い繕ろっても、あらゆる紛争は大国同士の代理紛争なのであって、最終的には利害の主体同士の衝突になるだろう。
そうしてはじめて、新しい世界の体制が話し合われるのだろう。
第二次大戦と同じ。

ということは、この轍はその後もまた繰り返されるということか。
人の営みはそれ自体が連続性を持っていて、ある種の慣性にしたがって動いている。
しかしその方向転換の手段が戦争しかないというのではあまりにも寂しい。

新・戦争論 僕らのインテリジェンスの磨き方 (文春新書)
池上 彰 佐藤 優
文藝春秋
売り上げランキング: 15

2014年10月19日日曜日

増田寛也編著「地方消滅〜東京一極集中が招く人口急減」

友人に勧められて、中公新書「地方消滅」という地方に住む者にとって穏やかでないタイトルの本を読んでみた。友人が勧めてくれたのは、第5章をまるまる割いて北海道の地域戦略を取り上げているからだった。
この章は「北海道総合研究調査会」理事長の五十嵐氏によって書かれている。地元の事情をよく反映した丁寧な論説と思う。

地方消滅 - 東京一極集中が招く人口急減 (中公新書)
増田 寛也
中央公論新社
売り上げランキング: 55

僕は生まれこそ帯広だが、幼少期から高校卒業までを釧路で過ごし、人に出身地を訊かれれば釧路と答える。
長く住んだのは、太平洋炭鉱の鉱夫たちが住む街で小学校の同級生の多くが炭鉱の子だった。昭和40年代の終わりから50年代にかけて炭鉱はすでに撤退戦の最中で、すでに人の住まなくなった家が廃墟化していて僕ら子どもたちの格好の遊び場になっていた。

小学校を卒業する頃、領海法の改正と漁業水域に関する暫定措置法が施行され、それまで北方の漁業基地として栄えたもうひとつの産業が僕らの街から失われた。「ニヒャッカイリ」という言葉の響きは釧路の人間にとっては、為す術もなく見守るしかない自然の暴威によく似た感慨をもたらすものだ。

遠洋漁業は実入りの良い商売で、長い航海から帰ってきて大金を稼いだ漁師さんたちが短い陸(おか)での時間でこれを景気良く使っていく。釧路の街全体がそのカネで潤っていた。
これに替わる産業を新たに作っていくのは容易なことではない。
先日20年ぶりに訪れた街には百貨店もなく、駅前通りは閑散としていた。

北海道に住んでいて、経済に関心のある人なら十勝の農業が成功しているのは誰でも知っているだろう。単位面積当たりの収益性が高い大規模農業で、高い収益を得ている農家が多い。
あの頃の釧路と同じ。
TPPのような第二の「ニヒャッカイリ」になりそうなものを警戒する気持ちがよくわかる。
グローバリズムが地方を壊す典型を、政治はいつまでたっても学ばない。
「こうすれば避けられる」という一枚の処方箋など、それが個々の生業の集合体である故に、街に効くクスリにはなりえないのだ。

官僚から知事に転じ、総務大臣まで務めた著者が処方箋としてしめす中核地方都市の「ダム機能」も、文字通りの「絵に描いた餅」になってしまっている。
日本創生会議が調べたデータが要領よくまとまっている本書を買う価値は充分あると思うので、彼らに投じられた我々の税金を少しでも取り返すためにも、「ダム機能」の詳細はぜひ本書にあたっていただきたいと思うが、そりゃそうできたらいいよね、というだけの結論は、結局のところそれに人生そのものをかける我々の「生」をあまりにも軽視している。
そしてその軽視の視線を隠すために、それを行政の責任に見えるように書いている。

すべての事業が家業であったギリシャ時代からはるか時を経て僕らはいつか、誰もが誰かに雇われている「無責任時代」を生み出した。
そんな僕らはいつも責任をどこに押し付けるかを探している。
その格好の相手である行政は、しかし僕らの人生に何かの保証を与えてくれるものではない。
ましてや選挙の度に変わってしまう政治になど。
それはあくまでも個々の中に還流して次の一歩へのエネルギーに変換されるべきものだ。

本書でも、ダム機能をもたらす方策のひとつに「学校」を挙げている。
地方を出る大きな契機が進学であることは間違いないし、その先の就職の支援も学校が担っている以上、地方を出た人が卒業後に戻らず、その近隣地で新しいかまどを持つことはある程度まで避けられないことだ。
では、地方に魅力的な学校を作ればいい、というのは果たして処方箋になりえるか。
魅力的な制度を作れば学校が魅力的になると思っているような人には、長い年月愛される学校を作ることは絶対にできない。そんなことが「必要だから」という理由だけでできたら誰も苦労しないんだよ。
医療も同じ。

現代マーケティングの巨人フィリップ・コトラーは、簡潔で多くの業種に有用なマーケティング理論を発表したが、教育と医療にだけは「利益」をモチベーションの中心に「持ってはいけない」ためにそれまでのマーケティングは有用でないとして「非営利組織のマーケティング理論」という名著を発表している。

非営利組織のマーケティング戦略
フィリップ コトラー アラン・R. アンドリーセン
第一法規株式会社
売り上げランキング: 426,840

コトラーが、これら非営利組織のモチベーションに置くものとして挙げたのが「ビジョン」
誰か頭のいい人がカッコイイ言葉でまとめたこの国の行方のようなものではなく、個々の心にある情熱が作り出すそれぞれのビジョンこそが、人を育てたり、助けたりするために必要なものだというコトラーの言には、疑いを寄せつけないリアリティがある。

だとすれば、地方再生の第一歩はもちろんその地方が住民に愛されている、という一点に尽きる。幸い各地で、若者を中心にしたまちおこしのプロジェクトが立ち上がっている。希望はそこにこそある。

「少子化」などというこれまた個々の「生」を軽々しく総括した言葉をスタート地点においた議論はそろそろ無効になりつつあると思う。
結局女性にたくさん子どもを産んでもらうには、という無神経な話題をしたり顔で言葉をぼかしながら話し合っている様子が僕には下品に見えて仕方ないんだ。

少子化はつまるところ、ドラッカーがとうの昔に予見していた「テクノロジスト」と「パートタイムワーカー」に二極化した労働環境が実際に到来し、そうなると子どもの教育は当然高度化した職業に対応させる方向に向かうわけで、一人あたりの教育のコストは上がり、収入が右肩上がりの時代は良かったが、永遠の栄華はない故に持てる子どもの数は自然と限られてくる、という状況を説明する言葉にすぎない。
そのような状況を生まれた時から見ている子どもたちは、自分でもたくさんの子どもを持つ生活をイメージできないだろう。

それに<社会>は、人口減がもたらした社会福祉制度の歪みや税収の減少に苦しんでいるかもしれないが、<世界>はあまりにも増えすぎた人口のためにより致命的な歪みを抱えてしまっているのではないか。
僕らの生活を支えるために、大きなエネルギーが必要とされ、時には戦争の理由になり、時には僕らに恐ろしい副作用をもたらしている。
太陽が育ててくれる食糧では人間の命を支え、食欲を満たすに足りず、コムギは遺伝子を操作されて自分では子孫を作れない体にされて不自然な収量を僕らに提供してくれている。
今まで人間の手の及ばなかった場所にあるものを<資源>に換えて、次々に消費対象にしていく僕らの未来に何が待っているのか。

社会の高度化がもたらした「少子化」は社会自身が発動した自浄作用と考え、人口が減少した社会をどのように運営していくかを、対症療法としてではなく、「社会の豊かさとは何か」と読み替えて考える時期ではないか。
担い手となる若い才能はもう地方に現れている。
同様に別の若い才能は、もう軽々と国境を超えてグローバルスタイルのビジネスを展開している。彼らの活躍は政治的グローバリズムと違って、ローカルの生業を壊しはしない。
それはどちらも情熱に基づいた生業以上のものではないからだ。
ローカルとグローバルの境目がなくなりつつあるこの時代に一番邪魔な枠組みがもしかしたら絵に描いた餅しか生み出せない「国家」という仕組みなのかも知れない。

2014年2月10日月曜日

文学の受難の時代

最近ネットで話題の中学生が書いたという、太宰の「走れメロス」のメロスは実は走っていなかったという論考を最初読んだ時、面白いことを考える子もいるもんだな、と思った。

 微笑ましいこの小さな才能をみんなでシェアして楽しむのも悪くない風情に感じた。

そして、さらに叶うなら、文学を愛する者の立場から、大人になってしまった僕達がもう一度メロスを読む絶好の機会になるともっといい、と思っている。
 

そして、その時こそはこの少年の労作のことは忘れていただきたい。
メロスが妹の村に向かう場面を太宰はこう書いている。

「メロスはその夜、一睡もせず十里の路を急ぎに急いで、村へ到着したのは、翌あくる日の午前、陽は既に高く昇って、村人たちは野に出て仕事をはじめていた。メロスの十六の妹も、きょうは兄の代りに羊群の番をしていた。よろめいて歩いて来る兄の、疲労困憊(こんぱい)の姿を見つけて驚いた。」

 実際には急ぎ足に歩いても充分着く距離を踏破したメロスが、体力がないせいかよろめいている、と読むべきではない、と僕は思う。
 

ぜひ、今一度、冒頭にある、王とメロスとの諍いの場面。その王のセリフに注目してご再読いただきたい。(僕はこの冒頭部こそが走れメロスの最重要部と思っています)

 大人になった今、この王の気持には共感出来る部分がある。
むろん残虐な暴君を認めるわけではないが、
 
「仕方の無いやつじゃ。おまえには、わしの孤独がわからぬ。」
「疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心は、あてにならない。人間は、もともと私慾のかたまりさ。信じては、ならぬ。」
 
という王の言葉に、なにか思うに任せない社会というものへの諦めのようなものを感じ、他人事には思われないのだ。

そして、それを許せないメロスの「青臭さ」が、彼を走らせている。
友の命をかけてまで走らせている。
だから彼の走りは「燃焼」であり、「焦燥」なのだ。
そこに計算は、きっとないのだ。

 太宰は、そのような男としてメロスを描いたのだ。

そして、同時に確かに太宰には、このような距離と速度と時間の関係について「計算」をしておく義務があったように、僕も思う。
この論考を書いた中学生が発動した一級のユーモアに身を委ねて、文学を読む態度についての考察ができた。
 
 
 
だが、こちらはユーモアでは済まない。
村上春樹が文藝春秋誌に掲載した短編「ドライブ・マイ・カー」の一件だ。
 
 
小説内で、北海道中頓別町出身の女性が、車窓から火のついたたばこを外に投げ捨て、主人公が「たぶん中頓別町ではみんなが普通にやっていることなのだろう」と思う場面が描かれていたのだそうだ。
 
これに中頓別町議が抗議。
 
ノーベル文学賞候補となる作家が事実と異なることを小説にしたことが町のイメージダウンにつながり、このまま放置すれば、本町への偏見と誤解が広がる訳ですから、作家に遺憾の意を伝え、なんらかの対処を求めることの緊急性は高いと思います。

活字化の事実を知りながら公式には何もしないということは、不本意な表現を認めることになります。環境美化や交通安全に励む町の代表である議員や首長は、こうした問題に敏感に反応すべきでしょう。

と述べている。
 
この事案からは、常に他者の失点を探して、自分の得点を上げることが求められる現代の病も感じる。
 
そして、決定的に文学を読む態度が、この国から失われ始めている危機感を感じる。
 
北海道中頓別町出身の女性が、車窓から火のついたたばこを外に投げ捨て、主人公が「たぶん中頓別町ではみんなが普通にやっていることなのだろう」と思う
さて、この文中に、「中頓別町で、たばこを投げ捨てている人」は登場しているだろうか。
もちろんしていない。
 
この「ドライブ・マイ・カー」という短編小説を、小説として読んだ時、中頓別町に悪いイメージを抱く人はいないだろうと思うが、それは、分析的に読まなくても、中頓別町の何かの部分がたばこのポイ捨てをさせる、というつながりがそもそも書かれていないから、読者が感じ取らないからなのだ。
 
だが、中頓別町の関係者だけは、中頓別町の内実についてそれぞれ思うところを持っている。
その内実が、この短編小説の「中頓別町」という単語に強く結びついて、読み方が変わってしまう。
文学とはそういうものなのである。
 
とはいえ、それは読み違いであることには変わりなく、こういう読み違いをしないために、我々は教育というものを受けている。
しかしその教育にも実効はなく、だから日本人の読書時間は極限まで減っている。
結果として、このようないいがかりがまかり通るのである。
 
だから町議の懸念は見当違いだと思うが、それでもこれからは実在の町名で小説を書くことは控えたほうがいいのかもしれない、と思う。
 
だって、これが出版されたら、けっこうな人数が、北海道旅行のついでに中頓別町に行って、レンタカーの窓から火のついたままのたばこを投げ捨てて、写真をとって、「中頓別町で、たばこを投げ捨てているなう」とかやりそうな気がするもの。
 

村上春樹氏は、単行本化の際、町名を変更する旨を発言しており、事実上事態は沈静化したと言えるだろう。
文学の受難の時代は続く。
まいったね。

2014年1月20日月曜日

「直観を磨くもの: 小林秀雄対話集」(3)湯川秀樹編〜人間の進歩について

小林秀雄対話集「直感を磨くもの」収録の第三対談。
ここがおそらくこの対談集のピークか。
日本人初のノーベル賞受賞者湯川秀樹先生の登場だ。

小林は世界の湯川を前に、無学ゆえに盲蛇で愚問を発します、と前置いて、しかし科学の発展の終着に原子爆弾が破裂した、と大きなテーマも傍らに置いた。

湯川はそれに応え、科学が必ず「観測」を伴い、故に人間性と無縁ではないと指摘する。
原子や分子や、量子って言ったって、それを調べるための道具まで原子に還すわけにはいかんのだからと。
小林もそれに応え、確率論から、ラジウムの壊れ方の哲学的解釈(現代ならば、ああシュレディンガーの猫ね、で終わりなのだが、当時まだこの表現は考案されていない)、エントロピー論まで話が及んでいく。
そして二人は科学でも文学でも「主義」とか「派閥」のようなものがどれほど無意味なもので、それを考えた「人間」というものにすべて帰結していくという方向に収束していく。

そして小林から、このようなまとめの言葉が起案される。
「ある行為者の個人的な無意識の純粋な努力というものが歴史のうちに埋没していて、傍観者には見えない。その行為者がやむなく着た社会的着物だけが歴史家に見える。」

例えば、なんとか史観みたいな名前のついたものを俎に載せて議論することの無意味さを往時の知の巨人たちは喝破しているのだ。
さらに言えば、それは教育によって得られるような教養的知見ではない。

教養=カルチュアは「耕す」という意味である。栽培法を工夫して林檎の味を良くする、のが本来のカルチュアの意味で、人間に当て嵌めて現在の語義を得た。
だからそれは、人間が素の状態で持っている基本的能力を最大限伸ばしていくことが目的とされるものである。それが教育の原理だ。
歴史という人間の営みの複雑な因果律を「感じ取る」のに必要な「個」の完成に必要なものは「道徳原理」なのであって、それは「教育原理」とは別のものなのではないか。
少なくとも日本全国共通の理想に近づけていくために考案されたカリキュラムで教えられることではないだろう。(その意味で個を伸ばすための教育というのは字義的にも矛盾している)
ましてやネットに溢れる情報で何がわかるというのか。
現代の情報過多な我々が犯しがちな思考停止の罪についての、これは予言なのだろう。

そして話は、また様々に迂回しながら、小林が用意した「原子力」の問題に接近していく。
湯川博士は、
「戦争が惹き起こされて相当の数の人が死ぬといっても、それは戦争がなくても餓死する人がたくさんできるとか、そういうことが起こったら、相対的な問題となるが、原子力の時代となると、ほかのあらゆる問題より平和を永続さすことを優先的に考えなくてはならない。だからこれは絶対的な問題です」
と、やはり科学と言っても人間の問題であるとの立場を貫く。

小林はそれに応え、
「それが技術の復讐という問題だ」という。
「平和の技術はまた戦争の技術でもある。目的如何にかかわりない技術自身の力がある。目的を定めるのはぼくらの精神だ。精神とは要するに道義心だ」と続け、焦点を政治に振り向けていく。

「だから、科学の進歩が平和の問題を質的に変えてしまったという恐ろしくはっきりした思想が一つあればいいではないか。あとは平和を保つ技術、政治技術の問題だ。
民主主義だ、共産主義だとかいう曖昧模糊としたイデオロギーを掲げて争う愚かさ。
政治は人間精神の深い問題に干渉できる性質の仕事ではない。人間の物質的生活の整調だけを専ら目的とすればいい」

ああ、僕はこの言葉をここ数年、自分の裡にずっと探していたのだ。
小林の指摘を現代から見る我々は、科学がもたらしてくれるメリットの享受に忙しくて、それが進歩するほど強く「道義心」を問われるのだということに目を瞑っていたのだと気付かなければならない。

もう本当にそろそろ自分自身との大事な話を始める頃合いだ。
そう思う。

2014年1月18日土曜日

「直観を磨くもの: 小林秀雄対話集」(2)横光利一編〜近代の毒

「直観を磨くもの: 小林秀雄対話集」収録の第二対談は小説家、横光利一の登場だ。

横光利一といえば「機械」という短編で、なぜかと言えば「あの」宮沢章夫が、読もうと思えば一時間で読めるこの「機械」という短編をなんと11年かけて読むという奇怪な試みを雑誌連載のカタチで実現した「時間のかかる読書」という奇書の存在があるからだ。

機械・春は馬車に乗って (新潮文庫)
横光 利一
新潮社
売り上げランキング: 139,485
時間のかかる読書―横光利一『機械』を巡る素晴らしきぐずぐず
宮沢 章夫
河出書房新社
売り上げランキング: 401,728

11年の読解に堪える短編を書く作家とはどのようなものだろうか。
小林との対談の最初の話題は、横光が主張する「文学者は、科学による人間の機械化と闘争している」という論からはじまる。
まずは、新聞がこの論を横光の科学否定と報道したことを誤りであると抗議する。
三木に続いて、またも新聞を槍玉にあげている。そしてここでは疑いなくジャーナリズムの問題として書かれている。

小林の言葉で書けば、その毒は「ジャーナリズムは精神の消費面であるにもかかわらず、文化の生産面だと錯覚するところから来るのだ」ということらしい。
小林と横光のその後のやり取りから見えてくるのは、「報道」の消費財的な側面、つまり商業的なものに寄り添っていく側面と、「批評」があくまでも文化の生産面として経済的活動の論理から独立していなくてはならぬというスタンスが、どうにも曖昧になっている時代への強い苛立ちだ。

1947年に行われたこの対談から67年も経った現在を眺めてみて、どうやらお二人の懸念はもはや取り返しのつかない事態まで進行し、少なくとも活発に文学や音楽を鼓舞する「批評家」は今ぼくらの周りには見当たらない。
現在、批評家という職業はリコメンドすることが仕事なのであり、新しいムーヴメントを創りだすような役割は担わない。
何が変わったのか。

それは小林のこの言葉にヒントがあるのではないか。
「新鮮な政治が出てくれば必ず青年を動かし文学運動になる」

文章のすべての言葉から強い違和感を感じないだろうか。
僕は感じた。

新鮮な政治って何だ。
政治で青年が動くものなのか。
そして結実するのは文学運動なのか。

なんという純真な時代。
今や政治家へのキャリアパスはタレントやお笑い芸人だというのに。
そしてこの文はこう結ばれる。
「必要なのは政治技術者だよ」

今の時代、この言葉からは派閥闘争を生き抜く技術や献金を集める専門的技術のこと以外思い浮かばない。
僕らは、本当の意味での政治手腕というものを見たことがない。

おそらく取り戻すことの叶わぬその時代の感覚は、もはや理解したところでこの世界の役には立つまい。
しかし、政治に新鮮という言葉を冠することが感覚的に出来た時代に、僕は羨望の気持ちを抑えられない。
それでも諦めてしまう前にできることがあるのではないだろうか。

いずれにせよ大事なのは人間に違いない。
人間の機械化との闘争に我々はまだギリギリ破れ切ってはいないはずだ。

書籍はデジタル化され、音楽は配信されても、人は音楽を聴くためにコンサートホールに足を運ぶし、一回性の文学を体験しに劇場にも行く。
コンピュータは我々の思考を高速化はしたが、まだ僕らは友達と笑い合って酒を飲んで歌も歌える。

この対談の直後亡くなった横光利一氏がもし生きていたら、人間の心の図太さに感心して、ますます旺盛に小説を書き続けてくれたことだと思う。

2014年1月17日金曜日

「直観を磨くもの: 小林秀雄対話集」三木清編

2013年末に新潮文庫で刊行された小林秀雄の対談集「直観を磨くもの: 小林秀雄対話集」は何となく手元に置いておかなくてはいけない本のような気がして、買っておいた。
これも直観というものか。

直観を磨くもの: 小林秀雄対話集 (新潮文庫)
小林 秀雄
新潮社 (2013-12-24)
売り上げランキング: 1,380

2006年に会社を辞めて、個人事業者として再スタートを切ってから、同じ本から受ける読書の感慨がいちいちあまりに違うのに驚いているが、ことに小林秀雄評論から受ける印象は、「何かの役にたつのではないか」という浅ましい動機から読む時と、言葉が事物に与えていく意味を純粋に勘案していく読書で大きく違う。

掲載されている12人との対談はひとつひとつに大きな意味がある。
が対話ゆえに、それは人と人の言葉が響きあうスピードで流れて行ってしまう。
そのまま読めば言葉に込められた背景を十分に掬い取れない。
だから書評も一対談ごとにまとめておくほうがいいのかもしれない。

第一の対談は哲学者の三木清がお相手。

三木が言う。
「新聞に出ていることで自分に関することはたいてい嘘が書いてある。それだのに、人のことが出ていると誰でもそれを信ずる」

三木は新聞がいい加減だ、と言いたいのではない。
自分という全人格を言葉で表すことはできないよ、と言っているのである。
記者の視点から、読者に伝えたい社会の様相を表象させるために取り出された一面。それが記事だ。
だから本人がとらえている全人的で複雑な真相とはもちろん違うのだ。

だが問題は、多くの読者が、そういった全人的で複雑な真相を自分自身も抱えているということに気づいていない、というところにあるのではないか、と指摘しているのである。
それでわかったつもりになって、一面と一面の不完全な論争がはじまり、うすっぺらな結論に達する風潮に三木はうんざりしていたのだと思う。

こういう内実のない教養主義に対する批判は、戦中の頃にも指摘されていたのだな。
マスコミやネットの情報を自分の考えと思い込み、体験から発しない想像の言葉が言葉だけで拡散していく風潮を見れば、世界はちっとも変わっていないのだ。

そして対談は、福沢諭吉の言う、学問が社会に揉まれることの重要性に言及し、論理だけに溺れる弁証法を全否定し、道元の豪さを再評価し、言語をおろそかにする傾向にあった哲学を批判していく。

「学問が社会に揉まれる」
編集者は、この一言を現代の停滞しきった日本に放り込みたくてこの文庫を編んだのではないか。

政治学は、未だに諸外国の優れた政治制度を日本に導入しようと躍起になるばかりで、この独自の文化を持つ国の政治を正しい道に導けずにいる。
原子力の脅威による傷を二度にわたってその身に刻んだ我が国の科学は、やはり新しいエネルギーシステムの在り様を構想できずにいる。
経済学は、人の欲望の因業深さを読み切れず、占いの域を出ない。
そしてそれらのすべての基盤となるべき哲学は、ヴィトゲンシュタインにぶっ壊されて、社会学のようなものにカタチを変えて、教養主義的議論の道具に成り果てている。
(本稿もその一端そのものだ!)

対談の最後、小林から三木に、最近のあなたの文章も弁証法的なレトリックに終始する側面があるのではないか、という厳しい指摘があり、それに対して三木は堂々と
「気付いている。そしてこれから大いに言葉を尽くしていきたい」
と決意表明を行うのだ。

しかし残念ながらこの対談の後、三木は治安維持法によって投獄され、まもなく亡くなってしまう。

今の日本に小林も三木もいない。
しかし言葉は残された。
そして現代に生きる我々は、その社会の中に息づく言葉を発する術を持っている。
充分な教育も受けているはずだ。

よくよく考えなくてはならない。
自分が働いて得ているものの意味を。

2013年7月10日水曜日

「人間の建設」知には情を説得する力はない

「人間の建設」



これは評論家小林秀雄と、他変数解析函数論で世界中の数学者が挫折した三つの大問題をひとりで全部解決してしまったという大数学者、岡潔先生の対談集だ。

まさに知の巨人としかいいようのないこの人たちは、文系代表小林秀雄からアインシュタインと哲学者ベルクソンの確執のエピソードが飛び出したり、理系代表岡先生からドストエフスキーやらピカソの論評が飛び出したりでまったく油断できない。

さらに小林の言葉には独特の難解さがつきまとう。
論理が飛躍しているからだ。

この本は対談集だから、対談相手に伝わるように例解してくれるのでその飛躍の正体がわかるが、それはその言葉の本来の成り立ちとは関係のない彼自身の「世界の見方」のようなものを付加させて語られているということだと思う。

芭蕉の「不易流行」は、句作には「変わらないもの」も「はやりもの」もどちらも大事だ、という意味の言葉だが、小林にかかるとこの「不易」という言葉に、「詩的言語」は必ず幼時の記憶から生まれていると言う彼の確信を織り込まれて語られる。
だから「伝統的」という意味合いの不易という言葉に「個人の記憶」という意味合いがまとわりつくのだ。

逆に岡先生は、対談で取り上げられる様々なテーマの主題をことごとく「情緒」という言葉ひとつに集約させていく。

小林は、だから岡にとっての「情緒」という言葉にどんな「個人の記憶」がからみついているのかを暴こうと、「色彩」がゴッホの絵を変容させていったという話になれば、ゴッホがどれほど色彩を芸術的にではなく心理学的に捉えていたかというエピソードを持ち出し、トルストイの小説の「稚気」に話が及べば、ドストエフスキーの俗な邪心に触れ、都度都度激しく「知」と「知」が激突し、小心な僕は思わず目を背けることさえあった。

しかし、この知の奔流に圧倒されてはいけない。

この対談で彼らが一貫して言っていることは、結局のところ「知には情を説得する力はない」ということだからだ。

近年の原発事故後のエネルギー政策の議論が空転している主な要因が、低線量被爆での発癌率は受動喫煙のそれと同じかやや低い程度と知っても、「怖さ」が薄れるわけではない、というあたりにあるところを見ても、まさに「知には情を説得する力はない」のである。


この本は1965年の対談だが、いまだ我々はこの問題を解決できていないようだ。
であれば、さらに巨人たちの言葉を続けて聞こう。
彼らはさらにこう言い募る。

万人の感情を満足させるほどの力は「確信」したものからしか生まれないと。また、確信するまでは事物は複雑で言葉にならないと。だから、確信していない人を確信するように説得することは端から出来はしないし、余計な理屈が並ぶだけで意味がないと。

結局のところ我々が社会の中で交わしている言葉の多くが、「この体系の中には矛盾はない」ことだけを証明しようとやっきになっていて、個人が実物の中に感じる「直感」のようなものを感じる力が失われているのではないか、と彼らは訝っているのだ。

そして自然、彼らは理屈と対症療法に塗りこめられた教育の問題に切り込んでいく。
そして意味がわからなくとも古典を丸覚えしたご自身たちの経験が長い思索の人生の中でどれほど大きな効用をもたらしたかについて語っている。

まさに「人間の建設」としての教育を憂う、本書は箴言のカタマリだ。

20年弱、間接的にではあるが教育という事業に関わった一人としてまことに胸が痛い本だった。