2014年12月22日月曜日

新・戦争論:池上彰・佐藤優

池上彰さんと佐藤優さんの共著「新・戦争論」が売れている。
お二人とも、非常にフレーズ作りのうまい方だなあと、ご著書を読むたびに感心する。
それは、たとえば飲み屋なんかで時事的な話題になった時に、一言でおっと思わせるような印象的な切り口の言葉だ。

集団的自衛権の話題になった時、「ああ、あれは公明党がうまいことやったよね・・」と言えば、えっえっ、どういうことってなるでしょ?
また、今度のアメリカ大統領選では、ブッシュ弟が出てきて、ヒラリー・クリントンと一騎打ちになりそうで話題になっているが、そういう時も、「湾岸戦争の時のパパ・ブッシュは賢かったのにね・・」といえば、え、うそうそなんで?ってことになって、またしても居酒屋政談のイニシアチブはこっちのものだ。

どちらも答えは本書に書いてある。
本書は「プロっぽい」ものの言い方のカタログなのである。

なかなか理解し難いイスラムに関連する国際紛争も大筋で俯瞰できるし、これも報道などではあまり使われていない印象的な言葉でまとめてくれているので、用語が理解しにくい分、敬遠しがちなこのテーマの格好の入門書としても機能する。


通読して感じることは、二十世紀の戦争はまだ終わっていないんだな、ということだ。
勝者の思惑で引かれた新しい秩序という名の不完全な境界線は、多くの歪を生み出し、イデオロギー対立による東西冷戦という新しい大きな危機の陰にかくれて少しづつ臨界に近づいていった。
そしてその冷戦構造が無くなった今、古い起源の歪が前景化している。
すでに臨界は破れ、いくつもの軍事的衝突が起こっているこの時代は、のちの時代から見ればやはり二十世紀から続いた戦争の世紀であったと評価されるに違いない。

問題は、小国が対象になっているときは根本的な世界の有り様を考え始める機運がおこらないということではないだろうか。
結局のところどう言い繕ろっても、あらゆる紛争は大国同士の代理紛争なのであって、最終的には利害の主体同士の衝突になるだろう。
そうしてはじめて、新しい世界の体制が話し合われるのだろう。
第二次大戦と同じ。

ということは、この轍はその後もまた繰り返されるということか。
人の営みはそれ自体が連続性を持っていて、ある種の慣性にしたがって動いている。
しかしその方向転換の手段が戦争しかないというのではあまりにも寂しい。

新・戦争論 僕らのインテリジェンスの磨き方 (文春新書)
池上 彰 佐藤 優
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2014年12月16日火曜日

その女アレックス:ピエール・ルメートル

年末恒例のミステリ・ランキングで、海外部門の1位を総ナメにした傑作「その女アレックス」ほど書評を書くのが難しい本もない。
叙述トリックでもないのに、読み進めるほどに知らず纏わりついた先入観をひっくり返され続けていくこの感覚がこの物語の醍醐味だとすると、それはまさに「読んだ人にしかわからない」ものだからだ。

要素のひとつひとつに素晴らしい独創性があるわけではないと思う。
それなりに魅力的な人物造形だとは思うが、それだって「ミレニアム」ほどじゃない。
犯罪の残虐性もミステリ史に残る、とまではいかない。
しかし、作者ピエール・ルメートルによって丁寧に編まれた物語が生み出す「読書体験」の極上さはまさに筆舌に尽くしがたいものだ。

というわけでこれ、読むしかないです。
でも、この本に関してだけは「騙されたと思って」という常套句を付け加えることができません。
だって実際1ページ目から騙され続けるのを楽しむ本なのですから。

その女アレックス (文春文庫)
ピエール ルメートル
文藝春秋 (2014-09-02)
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2014年12月7日日曜日

ウディ・アレンのロンドン三部作に心が動かなかった理由

ウディ・アレンのロンドン三部作、全作観た。
正直どの作品もピンとこない。

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ウディ・アレンの映画に描かれる恋は、それまでの「生活」という連続体を、突然分断する。いくらなんでも衝動的にすぎて、それはいつも僕の価値観からはみ出している。

確かに「恋」という心理状態そのものは化学反応である。
比喩ではない。
強く心を動かす相貌が、ドーパミンを分泌させ、テストステロン値が上がることで性的欲求を亢進する。
ドーパミンはまたノルアドレナリンを派生し、人をある種の躁状態に導く。
脳内ドーパミン濃度が高まると、セロトニンの濃度が低くなって強迫観念に囚われる。

つまりこれは人のアンコントローラブルな本能だ。
だからこそそれは人間の「恥」の根源となる。

つまり、恋そのものは生理的で反射的なものであり、それが引き起こす社会的な存在としての自分の危うさをどのように飲み込んでいくかに、自分自身の本質が現れるということだ。
映画や文学が、他者と異なっているかもしれない自分自身の本質についての理解を描きたいとする情熱なんだとすると、「恋」そのものだけはその対象になりはしないということだと思う。
ウディ・アレンの描く「恋」は、その衝動の部分だけが描かれ、翻弄もされなければ抗いもしない。

一方この三部作ではそれに加えて、殺人や犯罪をテーマとして取り扱っている。
ウディ・アレンの描く殺人者は自らの行為に過度に逡巡する。
そして捜査する警察は殺人事件だろうとなんだろうと、サラリーマンとして事件を常識的に手順として処理していく。
「恋」の場合とは逆に僕の日常的な価値観の範疇に収まってしまっている、ということだ。

「殺人」なんだよ。
殺すということは、愛するということと密接な関連がある。
なぜなら人は「殺害できる」ものしか愛することができないからだ。
自分を殺害の対象とするものを愛することが出来るだろうか、と自問すればこの言葉の意味がわかるだろう。
犬や猫が僕らを殺しうる能力を持っていたら、または綺麗な花たちが突然僕らに噛み付いてくるようなものだったら、それらを愛することはできないのである。

だから殺人に関して言えば、物理的な障害はさほど大きくない。
むしろ、自分を殺すことなどないだろうと思っていた愛する人が、ある日自分に凶刃を向けるということが倒錯であるからこそ恐怖なのであり、「人を殺していけない」という刷り込まれた道徳観を乗り越えていくほどの事情にこそ描くべき個別性がある。
それは決して、日常の価値観に収まっていてはならないものだと僕は思うのだ。

だからウディ・アレンの映画は人間を何かの器のように描いているように思えてならない。
そのような目で見ると、器としての都市、器としての家、人間関係、自動車、楽器、服装、身のこなし、仕事、それらのすべてがスタイリッシュに描かれている。
悩みさえも。

美しくパッケージされた美意識。
それがウディ・アレン映画から僕が感じるもので、それはいまのところ僕の心を動かさない題材であるように思う。残念ながら。

2014年11月28日金曜日

ソロモンの偽証:宮部みゆき

宮部みゆき先生、お久しぶりの現代ミステリー「ソロモンの偽証」
実は刊行時にはちょっと食指が動かなかった。

いろんな意味でどん詰まりに来ているような気がしてならない社会を生きる者として、社会派ミステリーの直截性が、近年少し煩わしいと思っていたからだ。
しかし、おそらく2014年を政治の退廃が極まった年として記憶させることになるであろう愚かしい解散総選挙の様子を見ていて、このようなものに振り回される事自体が無意味だと感じるようになり、文庫化になったタイミングで、読んでみることにした。

まじで「読まされる」作品だった。
結局六巻を三日で、文字通り一気読みした。


ソロモンの偽証: 第I部 事件 上巻 (新潮文庫)
宮部 みゆき
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舞台が中学校。そして時は1990年。
1984年から1987年にかけて行われた中曽根臨教審の結果である「個性尊重、ゆとり教育」が教育機関に浸透していった時期である。

経済振興策としての「教育の自由化」を掲げた中曽根首相と、それを食い止めようとする文教族の闘いこそが臨教審の本当の姿だったわけだが、この闘いの折衷案として出てきたのが「個性尊重」で、従来の教育システムを残したまま、良くも悪くも受験競争の序列が作り出していた規律が崩壊していく混乱期の教育現場を「ソロモンの偽証」は描いている。

未成熟な心には「序列的な」個性しか認知できない。
今までは(たかが)成績の問題であったものが、人格にまで拡大されてしまう。
またかつてない好景気の中で、忙しい家庭は傷つきやすい子どもの心を包んであげられない。
停滞する現代社会の「原罪」を宮部は告発しているのである。

気になるのは、学校は必要悪である、というメッセージの唐突感と、説得力の薄さ。
もちろん茂木記者の見解だからどうしても役割的に、という理由もあるのだろう。
しかし実際は筆者の中に、学校の役割がでたらめに拡大していった時代であったことの認識が足りていないからではないのか。

経済成長を追いかけるばかりで、大人は家庭を「仕事だから」の一言で軽んじ、全人的成長をも学校に委ね始めていた。
それは職場で自分が詰られているビジネスの厳しい評価軸を、そのまま返す刀に使って学校を切りつける時代のはじまりだった。
学校を「必要悪」と表現する意味は、その延長線上にこそあると僕は思う。
この物語の背骨を支える重要な背景だっただけに、茂木のカウンターパートをセットしておくべきではなかったか。


固定化された身分制度の時代を終え、到来した市民社会は格差社会だった。
宮部はこの物語で格差の源泉は経済ではなく、家庭そのものだと言っている。
様々な親と子のカタチ。
それこそが宮部の描いたものだ。
真っ当に働く親の姿を知っている子を筆者は真っ当な人間に描いているように思える。

真っ当な人間と、真っ当でない人間の格差は端的に理解力に現れる。
そこで、万人に納得させるために人間社会が長い時間をかけて磨いてきた「裁判」という制度を骨組みに持ち出してくるのは必然だったと思う。



ミステリ読みの界隈で本作の評価が割れている理由はよくわかった。
宮部みゆきは本作において、せっかくの大技トリックが明かされる瞬間を最大限読者を驚かせるように配置させていない。
ミステリファンなら100%、途中でどういう筋書きかわかってしまう。

しかしそうしてでも、宮部先生は、登場人物の「心」を大切にしたのだと思う。
ミステリだからって、読者を驚かせばいいってもんじゃないんだと。
ネタが割れていくことを恐れずに徹底的に書き込まれた何人もの傷ついた若い心が、忘れたはずの自分の心の傷を思い出させる。

痛い。
こんな痛い読書体験は本当に久しぶりだ。

感情移入するのではない。
自分自身が痛いのだ。


向き合うものはそれぞれだと思う。
僕にとってのそれは、とてもじゃないがこんなところには書けない。
だからこそ、文学というものがこの世にある。
共有できない感想が本当の感想だ、と思い知らされる作品。
まいった。

2014年11月14日金曜日

サスペンスの複層構造:「インセプション」

クリストファー・ノーラン監督の『インセプション』は、SFアクションの映画だが、同時にどうしようもなくサスペンス映画なんだと思う。

ここではまず、サスペンスとは何か、について確認しておきたい。
テキストに、北海道大学出版会「日本探偵小説を読む」に収蔵された、僕の大学時代の友人でもある評論家大森滋樹氏の論文「サスペンスの構造と『クラインの壺』『ジェノサイド』の比較考察」を引用する。

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まず「サスペンス」の定義だが、権田萬治・新保博久『日本ミステリー事典』によれば、文学におけるサスペンスは、
主人公の不安、緊張など緊迫した心理を描くもので、論理的な謎解きよりも主人公の恐怖感に主点が置かれるため、心理小説的な色彩が強い。
と定義されている。

論文で大森は、サスペンスは
「自由意志の拘束」という状況で示される。
としている。
そしてその「拘束」は、「閉じ込める」「追い詰める」といった空間的な要素か、または制限時間を決め、その間に複雑な作業を手早く処理させ、刻々とセコンドを刻んでいく時間を限定するもの、あるいは両方を組み合わせて精神的な自由を失う状態を作り出す、としている。
そしてそれは、つねに生命の危機と絡む形でプロットに組み込まれるのだ、と。

さて、映画「インセプション」では、人の夢(潜在意識)に入り込んでアイディアを“盗み取る”特殊な企業スパイに、いつもとは逆にアイディアを“植え付ける”=インセプションのミッションが舞い込む。
植えつけたアイディアを自分のものと確信してもらうために、夢の中の潜在意識にさらに夢を見させ、その第二階層の夢の中で信頼する人物に扮した者からアイディアを吹きこませるというミッション。

クリストファー・ノーランは、この複層構造の夢の中で行われる冒険にある興味深い条件をつけている。
ひとつは、階層が深くなっていく度に時間の進度が速くなるというもの。
これはよくわかる。
僕らが実際に見る夢も、数十分に感じるものも実際にはほんの一瞬に経験しているものだそうだから。
しかしそれだけではない。さらにこの時間差のある世界で深い階層側に入ってしまった時は、その複数の階層に自分が必ず居ることになるのだが、すべて同時に目覚めないと現実社会に意識が戻ってこれないという制限までついている。
映画では、ミッションがスムーズにはいかず、結局第四階層まで潜っていくようになる。
第一階層の夢の中でほんの数秒しか残されていないタイムリミットの中でミッションを成し遂げるために。

この時間の進度に差異がある世界構造をうまく使って、サスペンスの定義にある、時間的制約を何倍も複雑で面白い制限に仕立てているのだ。

もうひとつは、どこかの階層で死ねば、その一階層下から意識をサルベージしないと帰ってこられないというものだ。各階層には、心を守ろうと潜在意識が配置したコンバットが待っている。
実際キーマンが撃たれ、それを救うためにもう一階層深く潜らざるを得なくなる。
この一捻りもふた捻りもある空間的制限が、このミッションの達成を限りなく困難なものにしているのだ。

まさにサスペンスを知り抜いた脚本の妙味である。

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2014年11月13日木曜日

ボナパルティズムの倒錯と赦し:「レ・ミゼラブル」

映画「レ・ミゼラブル」は、ヴィクトル・ユゴーの同名小説を原作としたミュージカルを映画化したものである。
原作はナポレオンの敗走直後から六月暴動までの30年を描く大河小説であって、ミュージカルや映画では当然すべてを再現できず、簡略化されたストーリーとなっている。

それでもヨーロッパ史に詳しい西欧文化圏の視聴者ならば、たとえば、マリユス・ポンメルシーはボナパルティズムの人であって、行動をともにしている共和派の秘密結社の人たちとは信条が異なってはいるが、それでも小異を捨てて、フランスの王政復古を阻止しようと行動しているということはわかるのかも知れない。


ボナパルティズムは、ある種の倒錯だと思う。
狭義には、ナポレオンの一族をフランスの支配者に据えようとする政治活動のことを言う。
しかし、ナポレオンのフランス帝政は独裁体制であり、フランスが多くの犠牲を払って勝ち得た革命の精神を逆行させるもののように見える。
続く対外戦争で、民衆の生活は疲弊し、国土も荒廃した。
それでも、文官が行う金権政治の腐敗よりも、フランスのために戦う為政者がもたらす自らの痛みのほうがましだ、というボナパルティズムが、倒錯でなくてなんだろうか。

しかしこの倒錯の中にこそ人が人を赦すということの本質が潜んでいると思う。

劇内でミリエル司教が、銀器を盗んだジャン・バルジャンを無罪放免した上に銀の燭台までを差し出すシーンこそは<赦し>そのものだ。赦すという行為には自分の痛みを差し出し、他者を救うという側面がある。

では「革命」はどうか。
これは拒絶そのものだ。自らに痛みを与えるものを許さない強い怒りだ。

原作者ヴィクトル・ユゴーは、ボナパルティストであった。
フランスからヨーロッパ全体に広がった王政から民主制への革命の火が、何か誰もが誰も許さない自由という檻を自らに課した世界のように感じていたのではないか。

優れた為政者による絶対王政と、愚かな政治家による民主政治のどちらが優れているかという古くて新しい問いには、それでも権力は必ず腐敗するという黄金律がある限り、民主政治を選ばざるを得ないという答えを我々はもう得ている。
レ・ミゼラブルという物語が時を超えて愛され続けるのは、 それでも仕方なく民主制を選んでいるのだ、という認識に伴う謙虚さを僕らに思い起こさせてくれるからだと思う。

映画としては、スーザン・ボイルで有名になっちゃったあの歌のアン・ハサウェイによるパフォーマンスは本当に素晴らしかったですね。
エポニーヌ役のサマンサ・バークスも本当によかった。テナルディエの家に生まれて不運な人生を送るが恋が彼女を変えたっていう境遇を見事に表情で表現していた。テイラー・スウィフトとかスカヨハがオーディション受けてたっていうけど、こんな複雑な役、あのキャラでは無理だよね。
あとラッセル・クロウは、確かにはまり役だけど歌はちょっとキツイかな。
でもあれ歌はみんなご本人なんでしょう。みんな歌うまいんだなあ。

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2014年11月10日月曜日

ナイロビの蜂

「ナイロビの蜂」は、ジョン・ル・カレの同名小説の映画化作品。
もちろんフィクションだが、世界がアフリカを搾取しているのは疑いようのない現実だ。

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僕はコーヒー豆を焙煎し、コーヒーを淹れることを生業とする者である。
コーヒー豆はエチオピアのアビシニア高原を原産地とし、赤道から南北にそれぞれ緯度で10度の幅で広がる“コーヒーベルト”で広く栽培され、国家的な産業となっている。
しかし彼らの生活は貧しい。

BBCが製作したドキュメンタリーを映画化した「おいしいコーヒーの現実」という映画を観ただろうか。
ウルグアイ・ラウンドで、貿易交渉を細かく細分化して、交渉団に人数を割けないアフリカ勢に対して西欧諸国は一国200名近い役人を投入して、いわば状況的欠席裁判を作り出した様子が描かれている。
不満を述べるアフリカ勢に「君たちにはよくわかっていないのだ」と言って聞く耳を持たない先進国の代表たちの姿には、本当に恥ずかしい気持ちになった。

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地図がもしあればアフリカの地図を見て欲しい。
いたるところ直線的な国境で区切られている。
西欧列強の都合で、地図の上に引かれた「線」だ。
地形的な境界で形作られる文化的な民族区分を無視した資源のための線引。
その資源の中には「人」そのものも入っている。
労働力のことを言っているのではない。
奴隷として人身そのものを貿易していたのである。

奴隷貿易のような非人道的な行いがそう長く続くはずがない。
長い時間がかかったが奴隷貿易は廃止され、植民地経営も傾いた。
アフリカの各国は相次いで独立するが、不自然な国境は内戦を呼んだ。

映画でもこうした搾取されるアフリカの悲劇をテーマにしたものは多い。
「ホテルルワンダ」ではベルギー植民地時代に管理上分離されたフツとツチが、独立後の経済悪化で対立し、ジェノサイドを引き起こした事件を描いてる。

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そしてシエラレオネの内戦で紛争ダイヤモンドの存在が戦火を拡大している状況を描いた「ブラッド・ダイヤモンド」。

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音楽家たちも搾取され貧困にあえぐアフリカを救おうと動いた。
1984年のバンドエイド(英)、1985年のUSA for Africa(米)はそれぞれチャリティソングヒットさせ、85年夏、英米同時開催の大規模なチャリティ・コンサート「ライブ・エイド」に結実する。
この2つのプロジェクトから、ライブ・エイド・トラストという基金が立ち上げられ、継続的なアフリカ支援を行ってきた。

このプロジェクトを精神的に率いてきたといえるボブ・ゲルドフは、USA for AfricaのWe Are The Worldのレコーディングにも立ち会っているが、あまりにもお祭り騒ぎ的なムードに激怒し、集まったアメリカのトップスターたちにアフリカの惨状を延々と語り、全員の眼の色を変えたという。
レコーディングの様子を収めた映像を見れば、それぞれのアーティストたちがその日特別なオーラを放っていたのがわかる。
ボブ・ゲルドフはバンドエイド・トラストが稼働していてもなかなか改善されないアフリカの現状を憂い、2005年にも大きなイベント「ライブ8」を実施する。
素晴らしいイベント。
挨拶に立ったボブ・ゲルドフが、「これは音楽が世界に勝利した瞬間だ」と述べるシーンには何度も泣かされた。

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2001年にル・カレによって書かれた「ナイロビの蜂」が、映画化されたのが、このイベントと同じ2005年だった。
それから、また10年が経とうとしている。
アフリカは未だ民主化の大きなうねりの中を正しい道を探しあぐねて彷徨っているように見える。
経済の成功で存在感を大きくしている中国が、マラウイやシエラレオネに大きな影響力を行使しはじめていることは、かの国々にどのような影響を及ぼすのだろうか。

前出の「おいしいコーヒーの真実」には、ODAなどの支援になによりまず<学校>を作って欲しいと住民たちが訴えているにもかかわらず、ODAのカネを自国の企業の利益に還元したい先進国が井戸か橋しか作らないという現実も記録されている。

政治の問題は民主化された世界では国民自身の問題である。
こうしている間にも、アフリカから搾取し還元されてきた豊かさを我々自身が享受しているのだ。

「ナイロビの蜂」の冒頭、レイチェル・ワイズ扮するテッサが、「なんのために国連を作ったのか」とイギリスの外交官に詰め寄るが、これは自身が活動家で、奮闘するほどに募る徒労感ゆえだった。
無関心な大多数がいるかぎり、すべての負担が活動家に集中し、結果アフリカは、グローバル経済がいっそうドライブする国益至上主義の犠牲になり続けるだろう。
主権者のひとりとして、世界に関心を持ち、正しく影響力を行使できるよう努めていきたいと思う。

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2014年11月9日日曜日

みせられているものと、見えていないもの〜「プレステージ」:クリストファー・ノーラン

ダークナイト・トリロジーがあまりにも素晴らしかったので、レンタル店のクリストファー・ノーラン監督のコーナーにあった2006年作「プレステージ」を借りてきた。
観ているうちに、強い既視感を覚えたが、 クリストファー・プリーストのファンタジー小説「奇術師」だと気がついた。原作付きだったか。
でもこれはまるで別の作品と思ったほうがいいだろう。

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原作の方は、アンジャーとボーデンの曾孫たちが主人公。お二人は手記と伝記で登場する。非常に技巧的な小説で、映画とは大きく異るラストシーンに心がひやりと冷える上質なホラー風味が施された傑作だ。

映画の方は、ダークナイト・トリロジーのブルース・ウェインと執事のアルフレッドまでが揃って出演しているので、バットマンにしか見えないところに、ヒュー・ジャックマンまで出てきて、もはやバットマン vs X-MENの様相。

 

スカーレット・ヨハンソンも似合いの役どころで魅力を発揮している。

それにしても俳優としてのデヴィッド・ボウイの存在感はどうだ。
そこに居るだけで放つその存在感は、謎めいた科学者ニコラ・テスラに実にふさわしい。


よく出来た手品は、誰もがその不思議さに諦めに似た納得感まで持たされるという意味で科学と変わらない。
本当の意味での最先端科学は、誰にも理解はできないが、確かに現象は認めざるをえないという意味で手品と変わらない。


だから手品と科学に魅せられた者の運命はよく似ている。
理論の科学者であった実際のニコラ・テスラと、理論よりは実証で実用品を作り続けたエジソンが終生対立したのはやむを得ないことだったのだろう。

エンタテインメントとしての手品の領域を離れてテスラに近づいていったボーデンに、エンタテインメントとしての手品の領域から逸脱していく危うさを警告したカッターは正しかった。しかし時代を作っていくほどの飛躍を作り出せるのも逸脱を恐れなかった者だけだ。
エジソンが推進したシンプルな機構の直流電源ではなく、テスラが推進した送電性能に優れる交流電源が世界の主流になっていることはそのことの証のひとつである。

我々の生活に欠かせない多くのものを発明して圧倒的に知名度の高いエジソンだが、その裏でエジソンが、交流電源の普及を失敗させようと、米国で評判の悪い絞首刑に代わって発案された電気椅子の開発会社に自分の部下を送って交流電源を採用させた事実はあまり知られていない。交流電源は危険であるという幻想をエジソンは大衆にしかけたのである。
まるでマジシャンのように。

日常という平穏の裏側にいつも、見えていない部分がある。
手品のような悪意のないものの種を知りたがっている場合ではないのかもしれない。

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2014年11月8日土曜日

スタートレック&スタートレック・イントゥ・ダークネス

子供の頃、特に厳しい家だった記憶はないが、テレビに関しては一日に一プログラムのみと決められていた。僕は迷わず平日の夕方放送されていた「宇宙大作戦」を選んだ。


カーク船長が、エンタープライズ号に「コンピュータ」と話しかけて情報を得たりしているのを観て、これが「未来」だ!と思い、自分でもティッシュの空き箱の側面に「コンピュータ」と書いて、話しかけたりしていた。
もちろん「麻痺」モード付きのフェイザー銃も自作していた。

このTVシリーズと「カーンの逆襲」までの映画、そしてハヤカワから出ていた劇場版のノヴェライゼーションが僕の「宇宙大作戦」体験のすべてだった。

だからJ.J.エイブラムスのスター・トレック・リブートは、カーク船長のエピソードであるというだけで嬉しい。
実際に観てもっとうれしくなったのは、オリジナル(The Original Series)の俳優さんたちの細かい癖を新しい俳優さんたちが実に上手に再現してくれていることだ。
カーク船長のあのちょっと斜めに椅子に腰掛けるところなんか、ほんとうにそっくりでニヤニヤしてしまう。

しかしやはり時代は変わっている。
あの頃、規則第一主義のスポックと自由奔放なカークのやり取りはコメディ以上のものではなかったわけだが、新シリーズでは、この二項対立が<キャプテンの資質>をメタファーとして一貫して問われ続ける。

艦隊の誓いを破ってもスポックを救出するカークの姿。
カークを更迭しながらも自分の副官に据えるパイク。
クリンゴンとの開戦を目論み、密かに軍備を整える提督。
あらゆるものと引き換えに仲間の命を救おうとするカーン。

キャプテンの判断は、それが正しいかどうか、その時がこないとわからないものばかりだ。
そして、この世知辛い現実の世の中を生きる僕らにも、同じようなケースがしばしば現実の問題として付きつけられている。

グローバリゼーションによる競争の激化とコンプライアンス(企業の法令遵守)の狭間で、しわ寄せはいつも<人間>の部分に集まる。
抽象化された概念には弾性がないから。

かくして感情とルールは乖離し、利益と幸福は相反した存在となる。
いつしかトップは、責任を取るだけの存在となり、リーダーシップという言葉は舵取りから管理の意味合いに変わった。
つまらない世界だ。

残念ながら、宇宙=残された最後のフロンティアへ旅に出た彼らもこのような運命から逃れることはできなかったようだ。
つまり本当の意味での最後のフロンティアは自分自身の心にある、そういうことなんだろう。

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2014年11月7日金曜日

SFマガジン700[国内編]

SFマガジン通巻700号を記念して編まれたアンソロジー。
多くのSFアンソロジーを編んだ大森望氏の手腕が光る。

まず、手塚治虫、松本零士、吾妻ひでおの漫画三編の収録が絶妙。
日本SFをマンガ抜きで語るのはムリですからね。

手塚治虫の「緑の果て」(1963)は、スタニスワム・レフの「ソラリスの陽のもとに」(1961)のプロットと酷似しているが、「ソラリス」の邦訳は1964年ということなので、手塚先生が原書(ポーランド語)か、英訳で読んでいたか、それとも偶然の一致なのか、そんなところも非常に興味深い問題作。

松本零士の「セクソロイド」は有名な作品だが収録作品は番外編として書かれたタイムトラベルもの。立派なハードSFだ。
吾妻先生の短編も安定のクオリティ。

貴重なのは、今や出版物が非常に入手しにくくなった平井和正の短編「虎は暗闇より」が収録されていることだ。
中学・高校と僕の頭のなかは半分くらい平井和正で占められていた。
ウルフガイ、アダルト・ウルフガイ、超革命的中学生集団、幻魔大戦、真幻魔大戦。
大好きだったなあ。
懐かしいなあ。

こうして歴史的に日本SFを読んでいくと、時代を下って段々技巧的になっていく様子がわかる。
昔のSFは書き方が実直だ。
だからこそ、<作り物>の未来が読み手の胸に迫るのではないか。
円城塔を代表とする新しい書き手の技巧は見事だと認めるが、技巧的に書かれた虚構のどこに僕は心をあずければいいのか。

日本SFの正統な後継者の筆頭は、だから野尻抱介だろうと思う。
本アンソロジーでも「素数の呼び声」というアクロバティックなのに平易な短編が収録されている。
松崎有理さんのように実直に科学に向き合う若い作家も出てきた。
この先は、アニメーションとの連携でマーケットを拡大していけるといいと思う。
漫画という表現を得て、日本SFは発展してきたのだから。

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マン・オブ・スティール

スーパーマンのリブートである。
バットマンのリブートで最高の手腕を見せたクリストファー・ノーランの製作で、監督は「オタク監督」で知られるザック・スナイダー。
ゆうきまさみの「鉄腕バーディー」に強い影響を受けたというアクション・シーンが、この監督らしさということか。

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それにしてもこの超人同士の戦闘、人間社会に与える被害が甚大すぎないか。
青年期のクラーク・ケントは石油採掘場で倒れてくる鉄塔を支えてヘリコプター一台を救うが、ゾットとの戦闘ではおそらく万単位の死者を出しているだろう。

しかもこの超人二人、打たれ強すぎて、戦闘そのものが無意味に見えてくる。
頭も使えよ!と思わずにいられなかった。


それでも全体としてはいい映画だと思う。
物語は、ゾット将軍のクーデターから始まる。
政治家の無策から惑星の資源を使い果たし、種族そのものの絶滅をなすすべも無く待つクリプトン星の主導権を軍事力で奪おうとするこのクーデターは、何度も何度も人類が繰り返してきた過ちの、あまりにも直接的なメタファーだ。

最後の希望として逃されるカル=エルは、若い太陽を持つ、かつてのクリプトンの植民地「地球」に送られた。カル=クラーク・ケント=スーパーマンは、その若い太陽の力をエネルギー源として超人の力を発揮する。

日本の戦争も含め近代の戦争の多くは、エネルギーの周辺で起きてきた。
埋蔵された有限の地下資源をあてにして暮らしていくのはやめて、新しい考え方に基づいた社会を構築すべき時期が来ているのではないか。
クリストファー・ノーランにとってのスーパーマンは、そのような考え方の象徴としてこの映画の<良心>を支えているのである。

だからこそ、クラーク・ケントは、青年期にかけて自分探しの旅をしている。
強すぎる力は、人を助けることもできるが、恐怖の源泉にもなる。
そもそも考えてみれば、美しい花も愛玩動物も自分を襲ってこないから愛情を注げるのである。
人は、 自分が“殺せる”ものしか愛することは出来ないのだ。
クラークを保留なしで愛してくれるのは生みの親と育ての親だけだった。
そしてクラーク・ケントは、自分探しの旅の最後に自分を理解し、愛してくれるレインを見つけた。
この手続を経てはじめて、スーパーマンは人類の未来を象徴する<良心>として機能できるというわけだ。

数多く製作されているリブーテッド・ヒーローたちは、みな苦悩するヒーローとして描かれている。
善か悪かのストレートな二分法で語れない現代の反映として。
力のレベルが異次元にあるスーパーマンの苦悩は、だから最大級に大きい。
愛は彼を救うのか。
愛は地球を救うのか。
その答えはまだ描かれていない。

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2014年11月6日木曜日

大いなる眠り:レイモンド・チャンドラー、翻訳:村上春樹

1939年発表のレイモンド・チャンドラー、長編第一作「大いなる眠り」である。
現在、早川書房で村上春樹による全作品の新訳が進行中で、この「大いなる眠り」は、その第四弾ということになる。

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マルセル・プルーストの筆致が、あらゆる抽象を文字に定着するのに対して、チャンドラーのそれは、あらゆる具象を活写する。
あるときは、それは完全に新しい比喩によって語られ、あるときは印象的な「つよがり」によって語られる。
隙のない文体だ。

あまりにも見事にものごと(のみ)が語られるので、それを読んでいる僕らは、マーロウが何に気付いているのかに気付けない。
語られていることだけを読んでいても、事件の真相に気付くことはできない。
これは、ミステリの作法としてはいささか型破りな方法論だ。
確かに読んでいて、あれ、これどうしてわかったんだろうと思うところもある。

しかしそのような<詮索>が無粋に思えるほど、この語り口は冷ややかで美しい。
心配しなくても、最後にすべてマーロウが教えてくれる。
それでいいのだ。
マーロウは犯罪捜査をしているのではなく、人の「助けて欲しい」という声に応えているのだから。

だからマーロウの物語は、法や警察組織といったものが、人の世にあるいくつもの理不尽に対していかに無力であるか、また生か死かの判断を迫られるような局面では、結局のところ頼れるのは<人間>という存在だけなのだという、日常の中で僕らが知らん振りをしている事実をそっと目の前に差し出してくる。

そして僕らの電話帳に<フィリップ・マーロウ>の名前は載っていない。
今はその事実が、どうしようもなく胸に重い。

2014年11月5日水曜日

ドラゴン・タトゥーの女

デヴィッド・フィンチャーが撮ったミレニアム1の映画化作品。
暗く重々しい彼の画調は、この寒く美しい北欧の地に息づく狂気に似つかわしい。
それにしても、あの複雑なプロットをよくぞここまで明快に再構築したものだと感心する。

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カッレくんのことや、ハリエットの経営的成功などのサイドエピソードを削いで、シンプルに事件への興味で物語を牽引していった成果だろう。
だから、この映画では「ミレニアム」の小説世界を貫いているテーマがはっきりと浮き彫りになってくる。

それが「弱者への暴力」である。
第一部である「ドラゴン・タトゥーの女」では、それが女性へのレイプというカタチで現れる。

原作者スティーグ・ラーソンは、15歳のころ一人の女性が輪姦されているところを目撃するが、何もせずその場を逃げ去ったという経験を持つ。
そしてその翌日、勇気を出して被害者の女性に許しを請うが、拒絶されてしまう。
その日以来ラーソンの心から、自らの臆病さに対する罪悪感と、女性への暴力に対する怒りが消えることはなかった。
その被害者の女性の名前こそ「リスベット」だったのだ。

ミレニアムシリーズのアンチヒロイン、リスベット・サランデルは、15歳のラーソンが抱いた悔恨の象徴なのである。

そしてラーソンは、物語の中でこの悔恨を「私的制裁」によって晴らそうとする。 
法の運用の<穴>に落ちて、後見弁護人からレイプを受けるリスベットの報復。
ミカエルを罠に落としたヴェンネルストレムの隠し財産をハッキングして奪い取る、など。

逃げるマルティンを追うリスベットが、ミカエルに「殺していい?」と聞くときの嬉しそうな表情は忘れられない。この台詞は原作にはないものだが、本当の苦しさは<法>には委ねられないというラーソンの考えを補強しているのだろう。

2014年11月4日火曜日

アナーキズムに対置されるもの~ダークナイト・トリロジー

クリストファー・ノーラン監督がリブートしたバットマン・シリーズ。
アン・ハサウェイが出ているというので観ただけだったのが、これは面白かった。
アン・ハサウェイももちろん素晴らしかったが。


一見して単なるアクション巨編でないことがわかる。
バットマンの<仮面>に与えられた意味がそれを象徴している。

通常、人が<仮面>をつけるときは、その正体を隠したい時だ。
だから本来、仮面そのものは無個性でなければならない。
ところが、バットマンの<仮面>は、法を超えて悪を制裁するという強い意味性を持っている。
職業に紐付いた制服と同じ。
つまり<仮面>を引き継げば、役割も継承できる。

ヨーロッパ社会が大きな犠牲を払いながら確立してきた人権社会が、結果として人間の心の闇に潜む巨悪を助長してしまうという矛盾。
バットマンはその匿名性を背景に、この矛盾を圧倒的な暴力で制圧するものである。
つまりバットマンは、人間の社会が現在の制度の延長にあるかぎり必要とされ続ける、ある種の<社会的存在> として描かれているのではないか。

しかし、バットマンの存在をこのように仮定すると、否応なくもうひとつの形態が想起されてしまう。
それは市民自身による圧政である。
それが、三作目の「ダークナイト・ライジング」で、ベインが率いた反乱政府だ。
いわばそれはアナーキズムの社会だ。

ゴードン警察本部長が自分を逮捕しようとする市民軍の兵士に「誰の権限で警察を逮捕しようとするのか」と問うた時、兵士は「市民だよ」と返答した。
皮肉なことに法治的な仕組みの行使には、匿名性を盾に行動できた彼らが、 囚人と市民の船がお互いの船に仕掛けられた爆弾の起爆装置を持たされた時、両者ともにスイッチを押すことはできなかった。
正義と信じたものを法を超えて実行するために必要なものは匿名性などではなかったのだ。

法治的でない社会は、その維持に個々人の高い徳性が必要とされる。
一般的なイメージと違い、アナーキズムの社会は高度に個々の民度を練った末にしか生まれ得ないものなのである。

しかし悪を巨悪で以って討つ、という構造はいたちごっこを産むだけで、悪の存在を進化させるバットマンは、やはりこの世に存在してはいけないものなのだろう。
おそらくそれが、この長い物語の中でブルース・ウェインが学んだ多くのものごとの中で最も重要なものだったはずだ。

わざわざGPSを仕込んだ真珠のネックレスを持ちだして、彼が見つけた新しい人生をアルフレッドに見せたのはその証明なんだと思う。

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2014年10月22日水曜日

オマルー導きの惑星ー:ロラン・ジュヌフォール

時々、無性にSFが恋しくなる時期がある。
なぜかはわからない。

で、そういうときほど探しても探しても読みたいSFが見つからない。
なんでなん?

今回は気になりながらもスルーしていた「オマルー導きの惑星ー」を手にとった。

オマル-導きの惑星- (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)
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なぜスルーしていたかというと、帯に書いてある「ハイペリオンを凌ぐ」という言葉。
そんなわけないでしょ?

ところがどっこい。
似てないこともないけれど、凌ぐかどうかなんかはちっとも気にならないくらい、まったく別の面白さをもった作品でした。
理屈抜きに面白い。
人物に惹かれる。
現実社会でも人は自分の生い立ちを語る時、一番イキイキと話すものだが、そのドライブ感を見事に文学に取り込んでいる。
ページ・ターナーですね。うまいです。

そして最後の最後に明かされるあっと驚く未来史。
それが明かされる前に書き連ねられた、この不思議な星オマルで起きている民族間の問題に僕らは現代の地球で起きてきた、そして今でも起きている問題のいくつかを重ねて見ていたはずだ。

その共感が最後の最後に見事にぐるんとひっくり返される。
そして我々の視界の外側にあったものが、圧倒的な勢いで心に迫ってきたところで物語は終了する。
うまいなあ。
読了したとたん続編買いましたわ。

オマル2 ー征服者たちー (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)
ロラン・ジュヌフォール
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四月は君の嘘(10)/新川直司

アニメのスタートが待ち遠しい「四月は君の嘘」の最新10巻が刊行された。


一つ目の見どころは相座武士の大復活。
曲はショパンのエチュードop10-12
練習曲作品10の第12番という意味。
作品10はカリスマステージピアニストから作曲家へ華麗な転身を遂げたフランツ・リストに敬意を表して捧げられたものだそうだ。

第12番は、「革命」というタイトルで知られるピアノ独奏の小品で、この革命というタイトルはフランツ・リストが命名したと言われている。
ポーランド革命の失敗で故郷ワルシャワが陥落したことを演奏旅行先で知ったショパンの動揺と失意を表現した曲、ということだろうと思う。

この曲はいい曲だと思う。
世の中にはショパンが大好きという人は多いので、こんなことを言うと怒られるかもしれないが、ショパンの曲の多くは僕にとって、美しいが「どうでもいい」と思わせる。
それでもフレデリック・ショパンには、いくつか非常に印象的な曲がある。
二つのピアノ協奏曲はどちらも大傑作だと思うし、晩年の幻想即興曲やノクターンの20番などは、深く胸に染み入ってくる本物の傑作と思う。
この「革命」もその傑作の一角に入る楽曲と言えるだろう。

ゆっくりと自分を蝕み続ける肺結核、故郷を失うという喪失感、多くの愛人たちとの複雑な関係。
このショパンの懊悩を相座武士は正面から受け止めて掘り下げていく。
ライバルたちが、作曲者の描いたキャンバスを自分の色で自由に染めなおしていくのに憧れや焦燥を感じながらも、あくまでも楽曲そのものが持つ精神を深く、どこまでも深く彫り直していく。
漫画から音は出てこないが、涙が出てきた。

実際には誰の演奏で聴けばいいだろう。
すぐに思いつくのは、有馬公生タイプのショパン解釈をするブーニンと、今回の相座武士のような正統解釈タイプのルイサダの対比だ。
ショパン国際ピアノコンクールで、ワルツop34-3を高速演奏するという不意打ちで優勝をさらったブーニンと、正統派の演奏で評価が高かった分、割りを食って5位に甘んじたルイサダ。
息の長い着実な演奏活動を今も続けていると聞くルイサダの方を入手してみようと思う。

革命のエチュード~プレイズ・ショパン
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この巻にはもうひとつの見どころがある。
それはやっと動き出した「幼なじみの恋」

幼なじみという言葉につきまとうこの切ない感じって何なんだろう。

ドラゴンクエストVは僕にとっての永遠のベスト1ゲームだが、それは中盤にある「結婚イベント」のせいだ。
幼いころ一緒に冒険をした幼なじみのビアンカと、この先の旅を続けていくために必要な船の持ち主のお嬢様フローラのどちらかを結婚相手に選ばなくてはならないのだ。
僕は何度もこのゲームをやっていて、今度こそフローラを選ぶぞと思って始めるのだが、いつもその場になるとビアンカを選んでしまう。

きっと小学校の頃近所に住んでいた幼なじみのハルカちゃんのせいなんだと思う。

近所に住んでいて、同い年で、親同士が仲がいいのに一向に一緒に遊ばない僕たちに、ある日、これ一緒に行っておいでと渡された「青少年科学館」のチケット。
僕は科学館が大好きだったので見事に釣られて、彼女と二人で出かけることにした。

田舎の狭い道幅の両端に別れて歩いて科学館に向かった。
それでも科学館はやっぱり楽しくて、二人でいろんなプログラムを見ているうちにすっかり意気投合して、帰り道でも夢中で話しながら歩いていた。
家の前で待っていた二人の母親の嬉しそうな顔を見て、我に返って、そして急に恥ずかしくなった。
それ以来偶然会っても、なにか殊更によそよそしく接している自分がいた。
そしてそんな自分がとても嫌だった。

幼なじみという言葉を聞くと、今でもなにか心に小さな刺をさされたような気持ちになる。
だから僕は椿の恋を応援したい。
椿の言った「あんたは、わたしと恋に落ちるべきなのよ」という言葉は無条件に正しいと思う。

しかしそうなるべきようには人生が動いていかないのもまた真理なんである。
あまりにリアルでいたたまれないぞ、この漫画。

2014年10月21日火曜日

さよならフットボール/新川直司

新川直司先生の「四月は君の嘘」が面白い。
アニメ版の放送も間近にせまり、最新刊10巻の発売に併せて、新川直司先生の前作「さよならフットボール」も新装にて復刻となった。
めでたい。
全二巻というコンパクトなサイズを疾走する物語が心地よい、再評価されるべき作品と思う。



天才的なボールさばきを見せる女子中学生、恩田希。
彼女は女子サッカーチームの無い環境で、男子に混じって練習している。

しかし、成長していくにつれ体格差は歴然となる。
幼いころのチームメイトにフィジカルに劣る女の子が男に勝てるはずがない、という一言に反発し、一計を案じて試合にもぐりこんで・・というお話。

一見よくある話だ。
力の劣る側が威張り腐った強者に、頭脳プレーで一矢報いるというのがこの類型の常道で、この物語もその展開を踏襲しているが、胸に残るのは一矢報いたことの爽快さではなかった。

「フィジカルはフットボールのすべてではない」
彼女の信念は試合の中で徐々に崩れていく。
当たり負けをテクニックでカバーできない。
今まで女の子の自分に周りのみんなが<手加減>していたことに気付く。

ボロボロになって倒れてしまった彼女を、チームメイトやライバルまでもが心配そうに見つめているのに気付いた時、やっと、自分が一番<フィジカル>にとらわれていたことを知るのだ。
恩田希自身がそれを認め、すべてを自分のこととして受け止めた時、チームはひとつとなりボールは躍動を始めた。

人間というのはなんて優しい生き物か。
心の一番奥では、敵も味方も、男も女もないのだ。
そして、なんと複雑な矛盾を抱えた生き物であることか。
死力を尽くした闘った果てにこそ、理解があるとは。

闘い終わった後に、人は闘っていた相手が実は自分であったと知る。
<理解>はいつも自分に返ってくる。

作者のその人間への優しい視線が、この物語を凡百のジャイアントキリング・ストーリーとは一線を画すものにしている。
僕はそう思う。

2014年10月19日日曜日

増田寛也編著「地方消滅〜東京一極集中が招く人口急減」

友人に勧められて、中公新書「地方消滅」という地方に住む者にとって穏やかでないタイトルの本を読んでみた。友人が勧めてくれたのは、第5章をまるまる割いて北海道の地域戦略を取り上げているからだった。
この章は「北海道総合研究調査会」理事長の五十嵐氏によって書かれている。地元の事情をよく反映した丁寧な論説と思う。

地方消滅 - 東京一極集中が招く人口急減 (中公新書)
増田 寛也
中央公論新社
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僕は生まれこそ帯広だが、幼少期から高校卒業までを釧路で過ごし、人に出身地を訊かれれば釧路と答える。
長く住んだのは、太平洋炭鉱の鉱夫たちが住む街で小学校の同級生の多くが炭鉱の子だった。昭和40年代の終わりから50年代にかけて炭鉱はすでに撤退戦の最中で、すでに人の住まなくなった家が廃墟化していて僕ら子どもたちの格好の遊び場になっていた。

小学校を卒業する頃、領海法の改正と漁業水域に関する暫定措置法が施行され、それまで北方の漁業基地として栄えたもうひとつの産業が僕らの街から失われた。「ニヒャッカイリ」という言葉の響きは釧路の人間にとっては、為す術もなく見守るしかない自然の暴威によく似た感慨をもたらすものだ。

遠洋漁業は実入りの良い商売で、長い航海から帰ってきて大金を稼いだ漁師さんたちが短い陸(おか)での時間でこれを景気良く使っていく。釧路の街全体がそのカネで潤っていた。
これに替わる産業を新たに作っていくのは容易なことではない。
先日20年ぶりに訪れた街には百貨店もなく、駅前通りは閑散としていた。

北海道に住んでいて、経済に関心のある人なら十勝の農業が成功しているのは誰でも知っているだろう。単位面積当たりの収益性が高い大規模農業で、高い収益を得ている農家が多い。
あの頃の釧路と同じ。
TPPのような第二の「ニヒャッカイリ」になりそうなものを警戒する気持ちがよくわかる。
グローバリズムが地方を壊す典型を、政治はいつまでたっても学ばない。
「こうすれば避けられる」という一枚の処方箋など、それが個々の生業の集合体である故に、街に効くクスリにはなりえないのだ。

官僚から知事に転じ、総務大臣まで務めた著者が処方箋としてしめす中核地方都市の「ダム機能」も、文字通りの「絵に描いた餅」になってしまっている。
日本創生会議が調べたデータが要領よくまとまっている本書を買う価値は充分あると思うので、彼らに投じられた我々の税金を少しでも取り返すためにも、「ダム機能」の詳細はぜひ本書にあたっていただきたいと思うが、そりゃそうできたらいいよね、というだけの結論は、結局のところそれに人生そのものをかける我々の「生」をあまりにも軽視している。
そしてその軽視の視線を隠すために、それを行政の責任に見えるように書いている。

すべての事業が家業であったギリシャ時代からはるか時を経て僕らはいつか、誰もが誰かに雇われている「無責任時代」を生み出した。
そんな僕らはいつも責任をどこに押し付けるかを探している。
その格好の相手である行政は、しかし僕らの人生に何かの保証を与えてくれるものではない。
ましてや選挙の度に変わってしまう政治になど。
それはあくまでも個々の中に還流して次の一歩へのエネルギーに変換されるべきものだ。

本書でも、ダム機能をもたらす方策のひとつに「学校」を挙げている。
地方を出る大きな契機が進学であることは間違いないし、その先の就職の支援も学校が担っている以上、地方を出た人が卒業後に戻らず、その近隣地で新しいかまどを持つことはある程度まで避けられないことだ。
では、地方に魅力的な学校を作ればいい、というのは果たして処方箋になりえるか。
魅力的な制度を作れば学校が魅力的になると思っているような人には、長い年月愛される学校を作ることは絶対にできない。そんなことが「必要だから」という理由だけでできたら誰も苦労しないんだよ。
医療も同じ。

現代マーケティングの巨人フィリップ・コトラーは、簡潔で多くの業種に有用なマーケティング理論を発表したが、教育と医療にだけは「利益」をモチベーションの中心に「持ってはいけない」ためにそれまでのマーケティングは有用でないとして「非営利組織のマーケティング理論」という名著を発表している。

非営利組織のマーケティング戦略
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コトラーが、これら非営利組織のモチベーションに置くものとして挙げたのが「ビジョン」
誰か頭のいい人がカッコイイ言葉でまとめたこの国の行方のようなものではなく、個々の心にある情熱が作り出すそれぞれのビジョンこそが、人を育てたり、助けたりするために必要なものだというコトラーの言には、疑いを寄せつけないリアリティがある。

だとすれば、地方再生の第一歩はもちろんその地方が住民に愛されている、という一点に尽きる。幸い各地で、若者を中心にしたまちおこしのプロジェクトが立ち上がっている。希望はそこにこそある。

「少子化」などというこれまた個々の「生」を軽々しく総括した言葉をスタート地点においた議論はそろそろ無効になりつつあると思う。
結局女性にたくさん子どもを産んでもらうには、という無神経な話題をしたり顔で言葉をぼかしながら話し合っている様子が僕には下品に見えて仕方ないんだ。

少子化はつまるところ、ドラッカーがとうの昔に予見していた「テクノロジスト」と「パートタイムワーカー」に二極化した労働環境が実際に到来し、そうなると子どもの教育は当然高度化した職業に対応させる方向に向かうわけで、一人あたりの教育のコストは上がり、収入が右肩上がりの時代は良かったが、永遠の栄華はない故に持てる子どもの数は自然と限られてくる、という状況を説明する言葉にすぎない。
そのような状況を生まれた時から見ている子どもたちは、自分でもたくさんの子どもを持つ生活をイメージできないだろう。

それに<社会>は、人口減がもたらした社会福祉制度の歪みや税収の減少に苦しんでいるかもしれないが、<世界>はあまりにも増えすぎた人口のためにより致命的な歪みを抱えてしまっているのではないか。
僕らの生活を支えるために、大きなエネルギーが必要とされ、時には戦争の理由になり、時には僕らに恐ろしい副作用をもたらしている。
太陽が育ててくれる食糧では人間の命を支え、食欲を満たすに足りず、コムギは遺伝子を操作されて自分では子孫を作れない体にされて不自然な収量を僕らに提供してくれている。
今まで人間の手の及ばなかった場所にあるものを<資源>に換えて、次々に消費対象にしていく僕らの未来に何が待っているのか。

社会の高度化がもたらした「少子化」は社会自身が発動した自浄作用と考え、人口が減少した社会をどのように運営していくかを、対症療法としてではなく、「社会の豊かさとは何か」と読み替えて考える時期ではないか。
担い手となる若い才能はもう地方に現れている。
同様に別の若い才能は、もう軽々と国境を超えてグローバルスタイルのビジネスを展開している。彼らの活躍は政治的グローバリズムと違って、ローカルの生業を壊しはしない。
それはどちらも情熱に基づいた生業以上のものではないからだ。
ローカルとグローバルの境目がなくなりつつあるこの時代に一番邪魔な枠組みがもしかしたら絵に描いた餅しか生み出せない「国家」という仕組みなのかも知れない。

2014年10月12日日曜日

映画「オーケストラ!」の超高速チャイコフスキーが聴きたい!

チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲ほど楽曲の解釈で印象が変わってしまう曲もないだろう。

所有しているのはカラヤン=ムターのグラモフォン盤。
端正なリズムを持つ、ドイツ的な演奏の一枚と思う。
ハーモニーは極めて整った形で提供され、全体を優雅さが貫いている。
その分、ヴァイオリニストのスポンテニアスなフレージングとの落差が曲への没頭を阻害する一面がある。

ムターは緩急のある演奏で、ウィーン・フィルの音の清流の中を泳ごうとするが、水の重みにあがいているように聴こえてしまう。

ところが、映画「オーケストラ!」で聴いたチャイコフスキーの闊達で饒舌な語り口はどうだ。

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ストーリーの展開上そうなっているのだが、オーケストラはヴァイオリンに導かれて協奏曲に導入されていく。
あくまでもヴァイオリンが提示したメロディにオーケストラが追随していく演奏が一楽章全体に貫かれている。
後半、ヴァイオリンとオーケストラが同じフレーズで呼応しあうところがあるが、まったく同じ質感で奏でられている。
カラヤン=ムターの盤では、ムターが突っ込んで弾いたフレーズをカラヤンが鷹揚に受け入れるという図式になっていて、聴いている方が冷静になってしまう。

映画のチャイコフスキーは、後半に向けてぐんぐんスピードが上がっていき、最後の和音が奏でられたとき、それが映画とわかっていても立ち上がって拍手をしたくなる。

しかしそれだって、ヴァイオリニストを演じたメラニー・ロランの美しさのせいでないと、はっきりとは言い切れる人はいないだろう。




この映画のために、フランス国立オーケストラのサラ・ネムタネを招いて二ヶ月間の特訓をしたそうだ。
その美貌と、役作りへの情熱があの奇跡のラストシーンを作り出したことは間違いないと思う。

オペラは、映像付きのDVDで観るべきか、音楽だけで楽しむべきかという議論があり、楽劇の歌手は俳優ではなく、あくまでも歌の出来でキャストされるものだし、ましてや役作りのためにダイエットをしたりしないわけだから、音だけ聴いても充分楽しめるものでなくてはならない、というのが大方の見方である。
しかし、このような優れた音楽映画を観ると、楽曲理解の入り口として映像の説得力は大きな味方になりえると感じる。

こうなると、躍動感のあるチャイコフスキーを探してみたくなる。
現代の指揮者は昔のマエストロと呼ばれる人に較べると一般にテンポが速い。
これを指して、クラシック音楽を古くから愛好する人たちの間で、最近はいい指揮者がいないという言説が流行することになるわけだが、これはクラシックに限ったことではない。
ポップミュージックにおいてもここ10年位でBPM(Beats Per Minute)は平均的に10くらい上がっていて、音楽全体の高速化が始まっているようだ。
せわしない時代ということだろうか。

クラシック指揮者ではパーヴォ・ヤルヴィという指揮者が「表情豊か」という前評判を裏切る高速ベートーヴェンを近年録音している。
2015年からN響の首席指揮者に就任する予定とのことで、もしかしたら演奏に触れる機会もあるかもしれない。

2014年10月2日木曜日

1951年からの警告:「トリフィド時代」

「トリフィド時代」は、SF史上に残る名作のひとつで、ジョン・ウィンダムによって1951年に書かれた。
だから作品の背景には東西の冷戦が強くその影を落としている。

東西両陣営が秘密裡に用意した兵器が、想定外の事態で地球規模の災厄を起こす。
緑色の彗星のようなものが世界中の夜空に走り、それを見た者はすべて視神経を侵され盲目になってしまうのだ。
何らかの事情でその光を見なかった極少数の健常者が、世界の舵取りを委ねられる。

それだけではない。
これまた秘密裡に人工的に作られた、高品質の食用油が取れる植物「トリフィド」は、その圧倒的な繁殖性で安価な油が生産できるが、成長すると歩きまわり(!)動いていたり物音をたてるものを毒を持った鞭毛で襲うという異形の生物であった。
そしてこの災厄で世界中のトリフィドが成長を抑制する処置から逃れてしまい、盲目となった人間社会を襲う。

ウィンダムは、自らが設定したこの絶望的な世界の中で、様々な方法で世界を再建しようとする人間たちを描く。

あるリーダーは(登場するのは最後だが)、健常者(支配者)と目の見えないもの(被支配者)を適正な比率に配備し、役割や序列を徹底した、いわば封建領地のようなグループを束ねて、独裁国家を作る思想家だった。
まず軍備を固め、自らを臨時政府と名乗る。
マシンガンを片手に強制的に領地を拡げていく。
圧倒的に目の見えないものが多いこの世界で、このやり方は生産性が低いため、次々に缶詰などの保存食を確保していく必要があるから、略奪が基本的な戦略となり、必然的に領地の拡大が第一義となる。

別のリーダーは、世界の再建のために必要な物は、「知識」の再生であるという立場をとった。
作物を作る。機械類を作る。燃料を加工して作り出す。どんなことにも知識が必要で、本は残っていても実際に稼働させるには人の訓練が要る。
そしてこの生産力では、健常者のエネルギーはすべて緊急性の高い作物の生産に追われ、最低限必要な作物を永遠に作り続けることになり、いつか野蛮人の社会に堕してしまうだろう。
かつて、高い教育は、都市部でまだ生産に従事しない世代に施され、基本的に世界をまわしていく作物や燃料などの一次的な生産は田舎で賄われていた。(ここで田舎、という言葉が使われているのはこの作品がイギリスで生まれたことによるものである、という点に注意されたい。カントリーの持つ語感はイギリスでは貧しさではなく、豊穣さをイメージさせるものだ)

つまり知識の再生にはそのための「余暇」(=ギリシャ語で余暇をスコレーといい、これがスクールの語源である)を生み出す基礎になる労働力が必要だということになる。幸い、これから生まれてくる子どもたちには、失明の危機は訪れない。なるべく多くの子を産むことがこの社会を再建する鍵になると考えたこのリーダーは、キリスト教的な倫理観をいまこそ捨てて、自由恋愛を含む新しい道徳律の社会を作ろうと提唱する。

そこに反発してもう一人のリーダーが生まれる。
キリスト教の倫理観をあくまでも保持し、慈愛によって清貧に生きていくという考えに賛同する人たちが集まり、グループから分離する。

結果から言えば、このキリスト教による新世界の構築が最も早く頓挫する。
慈愛を何よりも優先する彼らは、原因不明の新しい疫病の患者を切り捨てられず、あっさりとコロニーごと滅んでしまうのだ。

軍事的な独裁国家もじりじりと小さくなっていき、新しい道徳律による社会はある程度の成功を収める。
新しい道徳律のグループが育て上げた労働力を背景に、今度は学校を作ることで、トリフィドとの戦争に立ち向かっていく決意を固めるところまでが描かれている。

ウィンダムが、このような極限状況を設定までして新しい世界の再建をイメージした背景には、現在もなお続く西欧社会の繁栄を支えたものが、結局のところ奴隷の労働力とその奴隷自身を商材とする三角貿易であった、ということへの罪悪感があったのではないだろうか。

ギリシャで高度な学問が発展したのは、奴隷が作ってくれた“暇”のおかげであった。
ローマ帝国の成功の一因は、戦争で戦うのはローマ市民で、その糧食は隷属する非支配国が税によって担うという分業構造が強い軍隊を長期間維持し続けたことにある。
大英帝国の繁栄も、産業革命だけでは成らず、奴隷三角貿易による莫大な原資があったればこそだった。

ウィンダムが物語の中でキリスト教を排除したことも、このことと関連していると思う。
博愛をうたうキリスト教が、黒人を奴隷として遇して良いとした根拠は、彼らは白人とは別の種だから、というものだった。黒人も白人も同じ人類であるという科学的根拠は進化論の中からしか生まれてこず、創世記と矛盾する進化論を彼らが認めるわけにはいかないということも、人種差別の撤廃への大きな障害のひとつとなった。
これは、過ちを過ちと認知する妨げが、この世界にはたくさんあるというウィンダムからの警告ではないか。

相変わらず、世界の何処かでいつも戦争は行われているし、領土紛争なら数えきれないくらいある。でも幸い二十世紀の大きな戦争もこの世界を滅亡には至らせなかったし、東西冷戦もなんとかやり過ごした。
本当に滅びてしまわなければ学べないとは思わない。

でも、少し大げさに聞こえるかもしれないけれど、例えば戦争とか、経済恐慌といったような世界が何度も経験したようなものじゃなくて、もっと「わかりにくい」危なさが近づいている時代なんじゃないかな、と思うことがある。

それは例えば、勤め先の会社から情報を盗んで、どこかに売りつけるという悪質な犯罪が起きた時に、みんなで嬉々として盗まれた方の不備を責めているのを見た時や、自身の弱さから禁じられた薬物に頼ってしまった人が更生に立ち向かおうとする時に、犯罪者に金を渡すなと言って過去の業績から上がる収益までも絶とうとするのを見る時だ。
過ちは今も目の前にあり、しかしそれはなかなか見えない。

これからの社会を作っていく子どもたちに、ぜひ「トリフィド時代」を読んでほしいと思う。


トリフィド時代―食人植物の恐怖 (創元SF文庫)
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2014年9月24日水曜日

「RENT」:徹頭徹尾、音楽によって描かれた青春群像

10年ほど前に仕事でニューヨークに行ったとき、お客様が現地で「オペラ座の怪人」のチケットを手配してくださって、ブロードウェイに出かけた。
まだ日本では公開されていなかった「RENT」のポスターが街中に貼られていた。
RENTは、おそらくFOR RENT、つまり貸家に関することだろうと見当がついたが、今回DVDで観て「家賃」のことだとわかった。
なるほど。

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ニューヨークのイースト・ヴィレッジで毎月の家賃も払えない若きアーティストたち。
それがこのミュージカルの主人公だ。

で、冒頭からとにかく歌がいちいち凄い。
このミュージカルの台本を書き、すべての楽曲の作詞作曲をしているジョナサン・ラーソンの作り出すメロディは全曲において素晴らしく、それを唄うキャストの歌声も単に上手いとか心がこもっているという次元を超えて、声の力だけでこちらの心がビリビリ痺れてくる。

映画青年マークを演じるアンソニー・ラップの声はまるでエルヴィス・コステロみたいにB級的な魅力を放っていて、それなのに、どの共演者と歌っても見事なハーモニーになる。
見事な歌唱だ。

マークのルームメイトでロックミュージシャンのロジャーを演じるアダム・パスカルの声は、時にスティーブン・タイラーのようにシャウトする。ラーソンは非常に器用な作曲者で、ロジャーのパートはどの楽曲の中でも、そこだけロック調になるように調整されている。ドラッグ中毒から脱したもののHIVに感染した自分を呪うロジャーの孤独な心を、そしてその孤独から救おうとする仲間のメロディとの呼応が、非常に音楽的に表現されているのだ。

ジョアンヌというエリート弁護士のレズビアンを演じるのはトレーシー・トムズ。ブルース・ブラザーズのアレサ・フランクリンを彷彿させる凄い歌声だ。
アフリカン・アメリカンのウルトラ・ソウルフルな彼女の歌声に、マークのちょっと英国っぽい皮肉の利いたハスキーボイスが絡んでいく演出は何度観てもぞくぞくする。


構造上、ストーリーをドライブするのは、カネのないアーティストたちと、彼らが家賃(RENT)を払わずに居座るアパートメントのオーナーとの対立、であるはずだが、冒頭からこの対立は意外なほど深刻化せず、権力者であるはずのオーナーサイドはびっくりするほど消極的な手しか打ってこない。
むしろ彼らを深刻なピンチに追い込むのは「エイズ」である。

検査で陽性と診断されれば、いつ発症するかわからない恐怖に怯える日々がはじまる。
登場人物の半数近くがHIV感染者として描かれているが、実際のところはどうなのだろう。
彼らは「ライフ・サポート」と呼ばれる「集会」に参加している。
車座になって、日々の恐怖や周囲の無理解などについて語り合う。
まず、自分がHIV感染者であることを「認める」ことがなにより重要なのだという。
そして認め合った者同士で語り合うことで少しでもその恐怖を癒やす。

昔読んだ、ローレンス・ブロックのマッド・スカダー・シリーズで、アル中患者が同じように車座になって 「自分はアル中だ」と認める集会の存在を知った。最近も、シュガー・ラッシュというディズニーの子供向け3DCGアニメに、ゲーム内の悪役が車座になって「自分は悪役だ」と認め合う集会が出てきた。
そしてRENTではHIV感染者が、同じような集会を行っている。

なにもしないでいるとどんどん自分の中で膨らんでいく不安を、言葉に置き換えて外部化する、というノウハウなのだろうか。
アパートに閉じこもり発症に怯えながら、それでも人生最高の曲を書くという望みを支えに生きるロジャーと、不安そのものをわかちあいながら日常に織り込んで生きる彼らの生き方のどちらが、より人間らしいのか、僕には判断がつかない。
ただ、その不安に怯える自分を外部化してまでして認めなければ生きていけないような日々が、あくまでも自分らしい存在であろうとし、創造的な日々を生きようとした結果であるというところに何とも言えない虚しさを感じてしまうのだ。

彼らの精神的支柱であったエンジェルというゲイがエイズを発症、ほどなく亡くなって、物語は終息に向かう。
ラストシーンで映像作家志望のマークの渾身の映画と、ロジャーがとうとう書いた<最後の>一曲が披露されるが、これがもうひとつ心動かされない出来なのは何故なのか。
思うに、この楽劇を書いたジョナサン・ラーソン自身が、アメリカン・ロック的なサウンドにシンパシーを感じていなかったのではないか。
振り返れば、ロジャーの歌のシーンはテイストの違う歌に<異物>として挿入されている感覚をおぼえる。

ラーソンは、オペラで言う、ライトモチーフのように、ニューヨークという街の多様さを音楽の<交わらなさ>で表現しようとしているのではないだろうか。
そしてエンドロールが始まったとき、全体としてこの楽劇を貫く音楽の記憶が、まるで織り上げられたシンフォニーのように響いてくる。
徹頭徹尾、音楽によって描かれた青春群像。それがこのRENTという作品だと思う。

2014年8月20日水曜日

井上夢人「ラバー・ソウル」:騙された記憶を上書きしたくない

文庫化された井上夢人さんの「ラバー・ソウル」を書店で見かけて、手に取った。

井上夢人さんは、以前徳山諄一さんとのコンビで岡嶋二人を名乗っておられた。日本版エラリー・クイーンというところか。
ずっと以前にコンビ最終作の「クラインの壺」を読んで面白かった記憶があったが、なぜかコンビ解消後単独名義で出した作品には食指が動かなかった。

今回この本を手に取ったのは、その装丁に、筆者のものか編集さんのものかはわからないが、並々ならぬ情熱とこだわりとセンスを感じたからだった。

タイトルは、もちろんビートルズのアルバム・タイトルからつけられたもの。
で、目次からすでにアルバム風である。


 で目次をめくるとこうなる。





これが実はただの飾りではなくて、各章の扉の仕掛けに繋がっている。
これがその扉。

各章はアルバム「ラバー・ソウル」の収録曲のタイトルになっている。

それだけではなくて、この扉ページのトーンアーム、第4章ではこうなっている。





そう、少し進んでいるのである。
これがB面最後まで続いている。
愛情のこもっている本なんだな、と思って買った。

しかも読んでみてわかったが、この章立てを曲名にしているところに、ストーリーの「裏側」を示唆させているという、小説技巧的にも凝りに凝っている作品なのだ。
面白く無いはずがない。

実は単行本の発売時に書店で見かけて、その時は買わなかった。
何故かと言うと表紙絵にちょっと禍々しいものを感じたからだった。

ラバー・ソウル (講談社文庫)
井上 夢人
講談社 (2014-06-13)
売り上げランキング: 84,081

しかし読み終えた今、この表紙の印象までもが180度変わってしまった。

解説には二度読み間違いなしと書いてあるが、そういう性質の本ではない。
むしろ、騙された自分をそのままにしておきたいと思わせるほどの鮮やかな叙述トリックが際立っている、と僕は読んだ。
僕は、叙述トリックのミステリが何より嫌いな男である。
しかしこれはいい。
作品に「格調」というものがある。
人間を馬鹿にしていない。騙してやろう、という心が先に立っていない。
こんな叙述トリックの作品は初めてだ。