2013年10月3日木曜日

ジャレド・ダイアモンド「文明崩壊」を読む(4):マヤの崩壊

ジャレド・ダイアモンド「文明崩壊」を読む、の4回目です。
今日はいよいよマヤ文明の崩壊について書かれた第2部第5章を読みます。

マヤ文明は、今から一千年以上前に、メキシコのユカタン半島を中心に栄え、そして崩壊した。
一般には、スペインの侵攻によって滅亡したと考えられているだろうが、この時生き残っていたマヤ人は数十万人で、その前に五百万人規模のいくつもの王国からなる大文明が栄えていたのである。
人口の激減という危機を迎え、複雑な文字を持つ高度な文明を伝えながら細々と暮らしていたところにスペインが侵攻してきて、ディエゴ・デ・ランダによる歴史上最も悪質な文化破壊である徹底的な焚書を行い、ヨーロッパの文明に書き換えられてしまった。
この絶望的な事態さえ乗り越えて、現代もマヤの子孫たちは彼の地で暮らしている。

本稿では、古典期マヤの人口激減について主に扱う。

マヤの栄えた地域は、今まで見てきた文明の崩壊地に較べて、雨量が予測困難な地域ではあるものの環境の脆弱さは致命的というほどのものではない。
むしろ、コロンブス到着以前の新大陸において最も進歩的で創造性豊かな社会のひとつだったといえる。
それでも、人口の激減は襲ってくるのである。

マヤに何が起きたのか。

スタートはやはり森林破壊と侵食。
そして、それを後押しする旱魃、という構造は今まで見てきた文明崩壊と同じだ。

気が遠くなるほど長い時間をかけて世界各地におい茂った樹木という資源を使って、人類が繁栄し、その数が限界点を超えた時点で急速に森林資源を使い尽くしてしまうという基本的な人類という種族の行動パターンがここにも見られる。

また、社会を神からの統治権を得た王が統べ、もっぱら降雨の責任を負わされたというのもマヤの社会にも共通しておきた事柄だ。
旱魃は、農業にもダメージを与えるが、政治機構にも大きなダメージを与えるのである。
これもまた多くの崩壊した文明と同じ。

つまり問題は、それをリカバーする何かの幸運に恵まれたかどうか、ということになる。

マヤは恵まれなかった。

逆に、阻害する要因が社会の中に育っていた。
それが王同士、貴族同士の競争が慢性化して、社会に内在する問題の解決より戦争と石碑の建造を常に重視するという風潮ができていたことだ。

現代でもそうだが、階級化された社会は、食糧を生産する農民と、官僚や軍人などの非農民で構成される。非農民は食糧を生産せず、農民が作った食糧を消費するだけである。したがって農民たちは、どのような階層社会でも、自分たちの必要な分だけでなく、ほかの消費者たちの必要も満たすだけの食糧を供給しなければならない。
生産を行わない消費者を何人養えるかは、その社会の農業生産力にかかっている。

現代のアメリカの高効率農業では農民ひとりが平均して125人の他の人間に食糧を提供している。
古代エジプトの農業でも自分の家族に必要なぶんの5倍の収量があったと言われる。
しかし、マヤでは自分の家族を養えるぶんの2倍しか収穫することが出来なかった。
主食のトウモロコシがタンパク質の含有量が低い上に、集約性も生産性も低い作物だったことや、その他のイモ類などの作物を作れなかったことがその主因である。

これが少しの気候変動がすぐに社会に致命的な食糧不足を招く主要因であるとともに、マヤに争いが絶えなかったことの遠因である。


まずマヤには大型の家畜がいなかったため、戦争の際、糧食を人が運んでいた。エネルギー効率が悪く、湿潤な気候下で保存性の低くなるトウモロコシを運んで戦争に行ける距離は著しく制限される。
そのため、マヤの各集落は戦争によって侵略、統合し、大帝国になっていくというプロセスを踏まなかった。
より良い農地を求めての小競り合いを周辺部で繰り返すだけだったのである。

そしてこの「均衡」は、旱魃によって崩れる。

神の血族と称し、降雨と繁栄を約束した王の言葉は履行されなくなる。
王は、それを祭礼の象徴が「小さい」からだと、民に大きな石碑を作らせるようになった。それが森林伐採を加速する。
しかし状況は改善しない。
足りない資源を求めて、国をあげて隣国を襲う。
しかし争いに勝っても、当然のことだが天候は回復しない。

人々の健康は失われ、人口は加速度的に減少していった。

その危機の間、たくさんあったマヤの王国の為政者たちはみな、私腹を肥やすこと、戦争、石碑を立てること、農民から充分な食糧を取り立てることなど、短期的な利益に関してしか注意を払わなかった。

と、書いていながら、まるで現代の新聞を読んでいるような既視感を覚える。
ルワンダの民族紛争もマヤの「隣国との戦争」と同じだ。
ここ十年くらいの日本の政府がやったこととやらなかったことのリストを作れば、政策についての短期性と長期性の網羅性の高い例示ができ、本稿とよく似た手触りの絶望感が得られるだろう。

未来のことがわからないのは当たり前だが、これほど何度も過ちを繰り返すのなら人が学ぶ意味はいったいどこにあるのだろうか。

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