2013年6月12日水曜日

十二人の怒れる男

「十二人の怒れる男」という、終始部屋の中で心理劇が展開する映画のことを知ったのは、三谷幸喜の「12人の優しい日本人」が話題になってからのことだった。

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名作の誉高い本作は、レンタル店でもかならず揃えているから、「12人の優しい日本人」を観るとき併せて観た。

その頃、下北沢の小さな劇場で、劇団七曜日などの演劇を毎週のように観に行っていた僕は、その小劇場的な演出の手触りがとてもよく似たこの映画がとても好きになった。
だからDVDの価格がこなれてきて、よい映画が安価で入手できるようになったとき、真っ先にこのDVDを入手した。

スラムに住む18歳の少年が、「父親をナイフで刺し殺した」として第1級殺人罪で死刑に問われる。無作為に選ばれた12人の陪審員たちが、殺人事件に対する評決を下すまでを描いた法廷劇。

ほとんどひとつの室内で完結するコンパクトな舞台に、劇作家レジナルド・ローズは小さなアメリカを再現してみせる。

陪審員長は中学校の体育教師で、フットボールのコーチをしている。
臆病な銀行員に、高圧的な会社経営者。彼は5年前に仲違いした息子との確執がある。
冷静沈着な株式仲介人もいて。このあたりがホワイト・カラーの集団。
彼らは、やり取りに反応的に対処する人たちだ。

そしてスラム育ちの工場労働者や塗装工の労働者がいる。
彼らは同じスラム育ちの少年の裁判で遠慮がちに、場の空気に合わせようとしている。
めんどくさがり屋なセールスマンは、今夜のヤンキースの試合を楽しみにしていて、時間ばかりを気にしている。

建築士(ヘンリー・フォンダ)は、裁判そのものに疑念を抱いているし、人情深く洞察力のある老人も、場に流れる空気には疑問を感じている。
アメリカの保守的な知識層だ。

一方、居丈高な自動車修理工経営者は差別意識が強いし、ユダヤ移民の時計職人は聡明な人として描かれている。
そして、広告代理店宣伝マンはあくまでも軽薄に振るまい、他人の言動に左右され続け、結局自分の意見を持つことはない。

このようなアメリカ国家の縮図に、レジナルド・ローズは、全員一致の採択を求めるのだ。

現実の世界には、意志の統一を図っていく時に「全員一致の採択」を求められることはほとんどない。
インスタントな意思決定は多数決で事足りるし、合意が必要な時でも、階層が上の人が作ったシナリオに笑顔で合わせていくことで、無用な軋轢なく社会を運用していくすべを僕らは知っている。

だから、劇中の彼らも、無意識的に形成された「有罪」の空気にしたがって、場を運用しようとしたのだ。
ヘンリー・フォンダが、「人の命を5分で決めてもし間違っていたら? 一時間話そう。ナイターには十分間に合う」と言い出すまでは。

有罪の評決が出れば、少年は電気いすで死刑になることが決まっている。
ヘンリー・フォンダが、この場に持ち込んだのは、公権力による「殺人」の権利が今この場に委ねられているんだよ、という指摘だ。
思えばやはり奇妙な制度ではある。裁判員制度というのは。


「あの不良が。連中は平気でうそをつく。真実なんてどうでもいいんだ。大した理由がなくても奴らは人を殺す。気にするような人種じゃない。奴らは根っからのクズなんだ」
という陪審員の発言で、この「殺人」権の行使基準が「偏見」に大きく依存していることが明らかになる。

これはアメリカという多民族国家が内包している構造的な問題ではあるが、どんな社会でも人はそれぞれだし、複数の集団が出来れば、その間には偏見が存在するだろう。
日本版「十二人」である「12人の優しい日本人」では、最初の評決が逆に全員「無罪」から始まるというところが、同質社会である日本らしさを見事に表現している。
それでも、そこには根深い偏見がやはり存在しているのである。


事実、社会にこのような偏見から生じた争い事はたくさん起こっていて、そしてそこに「ヘンリー・フォンダ」はいない。
われわれ一人ひとりが「ヘンリー・フォンダ」になれるだろうか、と映画を見なおして自分に問いかけた時、答えがなかなかイエス、と断言できないなら、いったい僕らに何が出来るんだろう。

その答えを見つけるまで、この映画は輝きを失うことはない。

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