2014年11月6日木曜日

大いなる眠り:レイモンド・チャンドラー、翻訳:村上春樹

1939年発表のレイモンド・チャンドラー、長編第一作「大いなる眠り」である。
現在、早川書房で村上春樹による全作品の新訳が進行中で、この「大いなる眠り」は、その第四弾ということになる。

大いなる眠り (ハヤカワ・ミステリ文庫)
レイモンド チャンドラー
早川書房
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マルセル・プルーストの筆致が、あらゆる抽象を文字に定着するのに対して、チャンドラーのそれは、あらゆる具象を活写する。
あるときは、それは完全に新しい比喩によって語られ、あるときは印象的な「つよがり」によって語られる。
隙のない文体だ。

あまりにも見事にものごと(のみ)が語られるので、それを読んでいる僕らは、マーロウが何に気付いているのかに気付けない。
語られていることだけを読んでいても、事件の真相に気付くことはできない。
これは、ミステリの作法としてはいささか型破りな方法論だ。
確かに読んでいて、あれ、これどうしてわかったんだろうと思うところもある。

しかしそのような<詮索>が無粋に思えるほど、この語り口は冷ややかで美しい。
心配しなくても、最後にすべてマーロウが教えてくれる。
それでいいのだ。
マーロウは犯罪捜査をしているのではなく、人の「助けて欲しい」という声に応えているのだから。

だからマーロウの物語は、法や警察組織といったものが、人の世にあるいくつもの理不尽に対していかに無力であるか、また生か死かの判断を迫られるような局面では、結局のところ頼れるのは<人間>という存在だけなのだという、日常の中で僕らが知らん振りをしている事実をそっと目の前に差し出してくる。

そして僕らの電話帳に<フィリップ・マーロウ>の名前は載っていない。
今はその事実が、どうしようもなく胸に重い。

2014年11月5日水曜日

ドラゴン・タトゥーの女

デヴィッド・フィンチャーが撮ったミレニアム1の映画化作品。
暗く重々しい彼の画調は、この寒く美しい北欧の地に息づく狂気に似つかわしい。
それにしても、あの複雑なプロットをよくぞここまで明快に再構築したものだと感心する。

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カッレくんのことや、ハリエットの経営的成功などのサイドエピソードを削いで、シンプルに事件への興味で物語を牽引していった成果だろう。
だから、この映画では「ミレニアム」の小説世界を貫いているテーマがはっきりと浮き彫りになってくる。

それが「弱者への暴力」である。
第一部である「ドラゴン・タトゥーの女」では、それが女性へのレイプというカタチで現れる。

原作者スティーグ・ラーソンは、15歳のころ一人の女性が輪姦されているところを目撃するが、何もせずその場を逃げ去ったという経験を持つ。
そしてその翌日、勇気を出して被害者の女性に許しを請うが、拒絶されてしまう。
その日以来ラーソンの心から、自らの臆病さに対する罪悪感と、女性への暴力に対する怒りが消えることはなかった。
その被害者の女性の名前こそ「リスベット」だったのだ。

ミレニアムシリーズのアンチヒロイン、リスベット・サランデルは、15歳のラーソンが抱いた悔恨の象徴なのである。

そしてラーソンは、物語の中でこの悔恨を「私的制裁」によって晴らそうとする。 
法の運用の<穴>に落ちて、後見弁護人からレイプを受けるリスベットの報復。
ミカエルを罠に落としたヴェンネルストレムの隠し財産をハッキングして奪い取る、など。

逃げるマルティンを追うリスベットが、ミカエルに「殺していい?」と聞くときの嬉しそうな表情は忘れられない。この台詞は原作にはないものだが、本当の苦しさは<法>には委ねられないというラーソンの考えを補強しているのだろう。

2014年11月4日火曜日

アナーキズムに対置されるもの~ダークナイト・トリロジー

クリストファー・ノーラン監督がリブートしたバットマン・シリーズ。
アン・ハサウェイが出ているというので観ただけだったのが、これは面白かった。
アン・ハサウェイももちろん素晴らしかったが。


一見して単なるアクション巨編でないことがわかる。
バットマンの<仮面>に与えられた意味がそれを象徴している。

通常、人が<仮面>をつけるときは、その正体を隠したい時だ。
だから本来、仮面そのものは無個性でなければならない。
ところが、バットマンの<仮面>は、法を超えて悪を制裁するという強い意味性を持っている。
職業に紐付いた制服と同じ。
つまり<仮面>を引き継げば、役割も継承できる。

ヨーロッパ社会が大きな犠牲を払いながら確立してきた人権社会が、結果として人間の心の闇に潜む巨悪を助長してしまうという矛盾。
バットマンはその匿名性を背景に、この矛盾を圧倒的な暴力で制圧するものである。
つまりバットマンは、人間の社会が現在の制度の延長にあるかぎり必要とされ続ける、ある種の<社会的存在> として描かれているのではないか。

しかし、バットマンの存在をこのように仮定すると、否応なくもうひとつの形態が想起されてしまう。
それは市民自身による圧政である。
それが、三作目の「ダークナイト・ライジング」で、ベインが率いた反乱政府だ。
いわばそれはアナーキズムの社会だ。

ゴードン警察本部長が自分を逮捕しようとする市民軍の兵士に「誰の権限で警察を逮捕しようとするのか」と問うた時、兵士は「市民だよ」と返答した。
皮肉なことに法治的な仕組みの行使には、匿名性を盾に行動できた彼らが、 囚人と市民の船がお互いの船に仕掛けられた爆弾の起爆装置を持たされた時、両者ともにスイッチを押すことはできなかった。
正義と信じたものを法を超えて実行するために必要なものは匿名性などではなかったのだ。

法治的でない社会は、その維持に個々人の高い徳性が必要とされる。
一般的なイメージと違い、アナーキズムの社会は高度に個々の民度を練った末にしか生まれ得ないものなのである。

しかし悪を巨悪で以って討つ、という構造はいたちごっこを産むだけで、悪の存在を進化させるバットマンは、やはりこの世に存在してはいけないものなのだろう。
おそらくそれが、この長い物語の中でブルース・ウェインが学んだ多くのものごとの中で最も重要なものだったはずだ。

わざわざGPSを仕込んだ真珠のネックレスを持ちだして、彼が見つけた新しい人生をアルフレッドに見せたのはその証明なんだと思う。

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2014年10月22日水曜日

オマルー導きの惑星ー:ロラン・ジュヌフォール

時々、無性にSFが恋しくなる時期がある。
なぜかはわからない。

で、そういうときほど探しても探しても読みたいSFが見つからない。
なんでなん?

今回は気になりながらもスルーしていた「オマルー導きの惑星ー」を手にとった。

オマル-導きの惑星- (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)
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なぜスルーしていたかというと、帯に書いてある「ハイペリオンを凌ぐ」という言葉。
そんなわけないでしょ?

ところがどっこい。
似てないこともないけれど、凌ぐかどうかなんかはちっとも気にならないくらい、まったく別の面白さをもった作品でした。
理屈抜きに面白い。
人物に惹かれる。
現実社会でも人は自分の生い立ちを語る時、一番イキイキと話すものだが、そのドライブ感を見事に文学に取り込んでいる。
ページ・ターナーですね。うまいです。

そして最後の最後に明かされるあっと驚く未来史。
それが明かされる前に書き連ねられた、この不思議な星オマルで起きている民族間の問題に僕らは現代の地球で起きてきた、そして今でも起きている問題のいくつかを重ねて見ていたはずだ。

その共感が最後の最後に見事にぐるんとひっくり返される。
そして我々の視界の外側にあったものが、圧倒的な勢いで心に迫ってきたところで物語は終了する。
うまいなあ。
読了したとたん続編買いましたわ。

オマル2 ー征服者たちー (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)
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四月は君の嘘(10)/新川直司

アニメのスタートが待ち遠しい「四月は君の嘘」の最新10巻が刊行された。


一つ目の見どころは相座武士の大復活。
曲はショパンのエチュードop10-12
練習曲作品10の第12番という意味。
作品10はカリスマステージピアニストから作曲家へ華麗な転身を遂げたフランツ・リストに敬意を表して捧げられたものだそうだ。

第12番は、「革命」というタイトルで知られるピアノ独奏の小品で、この革命というタイトルはフランツ・リストが命名したと言われている。
ポーランド革命の失敗で故郷ワルシャワが陥落したことを演奏旅行先で知ったショパンの動揺と失意を表現した曲、ということだろうと思う。

この曲はいい曲だと思う。
世の中にはショパンが大好きという人は多いので、こんなことを言うと怒られるかもしれないが、ショパンの曲の多くは僕にとって、美しいが「どうでもいい」と思わせる。
それでもフレデリック・ショパンには、いくつか非常に印象的な曲がある。
二つのピアノ協奏曲はどちらも大傑作だと思うし、晩年の幻想即興曲やノクターンの20番などは、深く胸に染み入ってくる本物の傑作と思う。
この「革命」もその傑作の一角に入る楽曲と言えるだろう。

ゆっくりと自分を蝕み続ける肺結核、故郷を失うという喪失感、多くの愛人たちとの複雑な関係。
このショパンの懊悩を相座武士は正面から受け止めて掘り下げていく。
ライバルたちが、作曲者の描いたキャンバスを自分の色で自由に染めなおしていくのに憧れや焦燥を感じながらも、あくまでも楽曲そのものが持つ精神を深く、どこまでも深く彫り直していく。
漫画から音は出てこないが、涙が出てきた。

実際には誰の演奏で聴けばいいだろう。
すぐに思いつくのは、有馬公生タイプのショパン解釈をするブーニンと、今回の相座武士のような正統解釈タイプのルイサダの対比だ。
ショパン国際ピアノコンクールで、ワルツop34-3を高速演奏するという不意打ちで優勝をさらったブーニンと、正統派の演奏で評価が高かった分、割りを食って5位に甘んじたルイサダ。
息の長い着実な演奏活動を今も続けていると聞くルイサダの方を入手してみようと思う。

革命のエチュード~プレイズ・ショパン
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この巻にはもうひとつの見どころがある。
それはやっと動き出した「幼なじみの恋」

幼なじみという言葉につきまとうこの切ない感じって何なんだろう。

ドラゴンクエストVは僕にとっての永遠のベスト1ゲームだが、それは中盤にある「結婚イベント」のせいだ。
幼いころ一緒に冒険をした幼なじみのビアンカと、この先の旅を続けていくために必要な船の持ち主のお嬢様フローラのどちらかを結婚相手に選ばなくてはならないのだ。
僕は何度もこのゲームをやっていて、今度こそフローラを選ぶぞと思って始めるのだが、いつもその場になるとビアンカを選んでしまう。

きっと小学校の頃近所に住んでいた幼なじみのハルカちゃんのせいなんだと思う。

近所に住んでいて、同い年で、親同士が仲がいいのに一向に一緒に遊ばない僕たちに、ある日、これ一緒に行っておいでと渡された「青少年科学館」のチケット。
僕は科学館が大好きだったので見事に釣られて、彼女と二人で出かけることにした。

田舎の狭い道幅の両端に別れて歩いて科学館に向かった。
それでも科学館はやっぱり楽しくて、二人でいろんなプログラムを見ているうちにすっかり意気投合して、帰り道でも夢中で話しながら歩いていた。
家の前で待っていた二人の母親の嬉しそうな顔を見て、我に返って、そして急に恥ずかしくなった。
それ以来偶然会っても、なにか殊更によそよそしく接している自分がいた。
そしてそんな自分がとても嫌だった。

幼なじみという言葉を聞くと、今でもなにか心に小さな刺をさされたような気持ちになる。
だから僕は椿の恋を応援したい。
椿の言った「あんたは、わたしと恋に落ちるべきなのよ」という言葉は無条件に正しいと思う。

しかしそうなるべきようには人生が動いていかないのもまた真理なんである。
あまりにリアルでいたたまれないぞ、この漫画。

2014年10月21日火曜日

さよならフットボール/新川直司

新川直司先生の「四月は君の嘘」が面白い。
アニメ版の放送も間近にせまり、最新刊10巻の発売に併せて、新川直司先生の前作「さよならフットボール」も新装にて復刻となった。
めでたい。
全二巻というコンパクトなサイズを疾走する物語が心地よい、再評価されるべき作品と思う。



天才的なボールさばきを見せる女子中学生、恩田希。
彼女は女子サッカーチームの無い環境で、男子に混じって練習している。

しかし、成長していくにつれ体格差は歴然となる。
幼いころのチームメイトにフィジカルに劣る女の子が男に勝てるはずがない、という一言に反発し、一計を案じて試合にもぐりこんで・・というお話。

一見よくある話だ。
力の劣る側が威張り腐った強者に、頭脳プレーで一矢報いるというのがこの類型の常道で、この物語もその展開を踏襲しているが、胸に残るのは一矢報いたことの爽快さではなかった。

「フィジカルはフットボールのすべてではない」
彼女の信念は試合の中で徐々に崩れていく。
当たり負けをテクニックでカバーできない。
今まで女の子の自分に周りのみんなが<手加減>していたことに気付く。

ボロボロになって倒れてしまった彼女を、チームメイトやライバルまでもが心配そうに見つめているのに気付いた時、やっと、自分が一番<フィジカル>にとらわれていたことを知るのだ。
恩田希自身がそれを認め、すべてを自分のこととして受け止めた時、チームはひとつとなりボールは躍動を始めた。

人間というのはなんて優しい生き物か。
心の一番奥では、敵も味方も、男も女もないのだ。
そして、なんと複雑な矛盾を抱えた生き物であることか。
死力を尽くした闘った果てにこそ、理解があるとは。

闘い終わった後に、人は闘っていた相手が実は自分であったと知る。
<理解>はいつも自分に返ってくる。

作者のその人間への優しい視線が、この物語を凡百のジャイアントキリング・ストーリーとは一線を画すものにしている。
僕はそう思う。

2014年10月19日日曜日

増田寛也編著「地方消滅〜東京一極集中が招く人口急減」

友人に勧められて、中公新書「地方消滅」という地方に住む者にとって穏やかでないタイトルの本を読んでみた。友人が勧めてくれたのは、第5章をまるまる割いて北海道の地域戦略を取り上げているからだった。
この章は「北海道総合研究調査会」理事長の五十嵐氏によって書かれている。地元の事情をよく反映した丁寧な論説と思う。

地方消滅 - 東京一極集中が招く人口急減 (中公新書)
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僕は生まれこそ帯広だが、幼少期から高校卒業までを釧路で過ごし、人に出身地を訊かれれば釧路と答える。
長く住んだのは、太平洋炭鉱の鉱夫たちが住む街で小学校の同級生の多くが炭鉱の子だった。昭和40年代の終わりから50年代にかけて炭鉱はすでに撤退戦の最中で、すでに人の住まなくなった家が廃墟化していて僕ら子どもたちの格好の遊び場になっていた。

小学校を卒業する頃、領海法の改正と漁業水域に関する暫定措置法が施行され、それまで北方の漁業基地として栄えたもうひとつの産業が僕らの街から失われた。「ニヒャッカイリ」という言葉の響きは釧路の人間にとっては、為す術もなく見守るしかない自然の暴威によく似た感慨をもたらすものだ。

遠洋漁業は実入りの良い商売で、長い航海から帰ってきて大金を稼いだ漁師さんたちが短い陸(おか)での時間でこれを景気良く使っていく。釧路の街全体がそのカネで潤っていた。
これに替わる産業を新たに作っていくのは容易なことではない。
先日20年ぶりに訪れた街には百貨店もなく、駅前通りは閑散としていた。

北海道に住んでいて、経済に関心のある人なら十勝の農業が成功しているのは誰でも知っているだろう。単位面積当たりの収益性が高い大規模農業で、高い収益を得ている農家が多い。
あの頃の釧路と同じ。
TPPのような第二の「ニヒャッカイリ」になりそうなものを警戒する気持ちがよくわかる。
グローバリズムが地方を壊す典型を、政治はいつまでたっても学ばない。
「こうすれば避けられる」という一枚の処方箋など、それが個々の生業の集合体である故に、街に効くクスリにはなりえないのだ。

官僚から知事に転じ、総務大臣まで務めた著者が処方箋としてしめす中核地方都市の「ダム機能」も、文字通りの「絵に描いた餅」になってしまっている。
日本創生会議が調べたデータが要領よくまとまっている本書を買う価値は充分あると思うので、彼らに投じられた我々の税金を少しでも取り返すためにも、「ダム機能」の詳細はぜひ本書にあたっていただきたいと思うが、そりゃそうできたらいいよね、というだけの結論は、結局のところそれに人生そのものをかける我々の「生」をあまりにも軽視している。
そしてその軽視の視線を隠すために、それを行政の責任に見えるように書いている。

すべての事業が家業であったギリシャ時代からはるか時を経て僕らはいつか、誰もが誰かに雇われている「無責任時代」を生み出した。
そんな僕らはいつも責任をどこに押し付けるかを探している。
その格好の相手である行政は、しかし僕らの人生に何かの保証を与えてくれるものではない。
ましてや選挙の度に変わってしまう政治になど。
それはあくまでも個々の中に還流して次の一歩へのエネルギーに変換されるべきものだ。

本書でも、ダム機能をもたらす方策のひとつに「学校」を挙げている。
地方を出る大きな契機が進学であることは間違いないし、その先の就職の支援も学校が担っている以上、地方を出た人が卒業後に戻らず、その近隣地で新しいかまどを持つことはある程度まで避けられないことだ。
では、地方に魅力的な学校を作ればいい、というのは果たして処方箋になりえるか。
魅力的な制度を作れば学校が魅力的になると思っているような人には、長い年月愛される学校を作ることは絶対にできない。そんなことが「必要だから」という理由だけでできたら誰も苦労しないんだよ。
医療も同じ。

現代マーケティングの巨人フィリップ・コトラーは、簡潔で多くの業種に有用なマーケティング理論を発表したが、教育と医療にだけは「利益」をモチベーションの中心に「持ってはいけない」ためにそれまでのマーケティングは有用でないとして「非営利組織のマーケティング理論」という名著を発表している。

非営利組織のマーケティング戦略
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コトラーが、これら非営利組織のモチベーションに置くものとして挙げたのが「ビジョン」
誰か頭のいい人がカッコイイ言葉でまとめたこの国の行方のようなものではなく、個々の心にある情熱が作り出すそれぞれのビジョンこそが、人を育てたり、助けたりするために必要なものだというコトラーの言には、疑いを寄せつけないリアリティがある。

だとすれば、地方再生の第一歩はもちろんその地方が住民に愛されている、という一点に尽きる。幸い各地で、若者を中心にしたまちおこしのプロジェクトが立ち上がっている。希望はそこにこそある。

「少子化」などというこれまた個々の「生」を軽々しく総括した言葉をスタート地点においた議論はそろそろ無効になりつつあると思う。
結局女性にたくさん子どもを産んでもらうには、という無神経な話題をしたり顔で言葉をぼかしながら話し合っている様子が僕には下品に見えて仕方ないんだ。

少子化はつまるところ、ドラッカーがとうの昔に予見していた「テクノロジスト」と「パートタイムワーカー」に二極化した労働環境が実際に到来し、そうなると子どもの教育は当然高度化した職業に対応させる方向に向かうわけで、一人あたりの教育のコストは上がり、収入が右肩上がりの時代は良かったが、永遠の栄華はない故に持てる子どもの数は自然と限られてくる、という状況を説明する言葉にすぎない。
そのような状況を生まれた時から見ている子どもたちは、自分でもたくさんの子どもを持つ生活をイメージできないだろう。

それに<社会>は、人口減がもたらした社会福祉制度の歪みや税収の減少に苦しんでいるかもしれないが、<世界>はあまりにも増えすぎた人口のためにより致命的な歪みを抱えてしまっているのではないか。
僕らの生活を支えるために、大きなエネルギーが必要とされ、時には戦争の理由になり、時には僕らに恐ろしい副作用をもたらしている。
太陽が育ててくれる食糧では人間の命を支え、食欲を満たすに足りず、コムギは遺伝子を操作されて自分では子孫を作れない体にされて不自然な収量を僕らに提供してくれている。
今まで人間の手の及ばなかった場所にあるものを<資源>に換えて、次々に消費対象にしていく僕らの未来に何が待っているのか。

社会の高度化がもたらした「少子化」は社会自身が発動した自浄作用と考え、人口が減少した社会をどのように運営していくかを、対症療法としてではなく、「社会の豊かさとは何か」と読み替えて考える時期ではないか。
担い手となる若い才能はもう地方に現れている。
同様に別の若い才能は、もう軽々と国境を超えてグローバルスタイルのビジネスを展開している。彼らの活躍は政治的グローバリズムと違って、ローカルの生業を壊しはしない。
それはどちらも情熱に基づいた生業以上のものではないからだ。
ローカルとグローバルの境目がなくなりつつあるこの時代に一番邪魔な枠組みがもしかしたら絵に描いた餅しか生み出せない「国家」という仕組みなのかも知れない。