2014年10月12日日曜日

映画「オーケストラ!」の超高速チャイコフスキーが聴きたい!

チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲ほど楽曲の解釈で印象が変わってしまう曲もないだろう。

所有しているのはカラヤン=ムターのグラモフォン盤。
端正なリズムを持つ、ドイツ的な演奏の一枚と思う。
ハーモニーは極めて整った形で提供され、全体を優雅さが貫いている。
その分、ヴァイオリニストのスポンテニアスなフレージングとの落差が曲への没頭を阻害する一面がある。

ムターは緩急のある演奏で、ウィーン・フィルの音の清流の中を泳ごうとするが、水の重みにあがいているように聴こえてしまう。

ところが、映画「オーケストラ!」で聴いたチャイコフスキーの闊達で饒舌な語り口はどうだ。

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ストーリーの展開上そうなっているのだが、オーケストラはヴァイオリンに導かれて協奏曲に導入されていく。
あくまでもヴァイオリンが提示したメロディにオーケストラが追随していく演奏が一楽章全体に貫かれている。
後半、ヴァイオリンとオーケストラが同じフレーズで呼応しあうところがあるが、まったく同じ質感で奏でられている。
カラヤン=ムターの盤では、ムターが突っ込んで弾いたフレーズをカラヤンが鷹揚に受け入れるという図式になっていて、聴いている方が冷静になってしまう。

映画のチャイコフスキーは、後半に向けてぐんぐんスピードが上がっていき、最後の和音が奏でられたとき、それが映画とわかっていても立ち上がって拍手をしたくなる。

しかしそれだって、ヴァイオリニストを演じたメラニー・ロランの美しさのせいでないと、はっきりとは言い切れる人はいないだろう。




この映画のために、フランス国立オーケストラのサラ・ネムタネを招いて二ヶ月間の特訓をしたそうだ。
その美貌と、役作りへの情熱があの奇跡のラストシーンを作り出したことは間違いないと思う。

オペラは、映像付きのDVDで観るべきか、音楽だけで楽しむべきかという議論があり、楽劇の歌手は俳優ではなく、あくまでも歌の出来でキャストされるものだし、ましてや役作りのためにダイエットをしたりしないわけだから、音だけ聴いても充分楽しめるものでなくてはならない、というのが大方の見方である。
しかし、このような優れた音楽映画を観ると、楽曲理解の入り口として映像の説得力は大きな味方になりえると感じる。

こうなると、躍動感のあるチャイコフスキーを探してみたくなる。
現代の指揮者は昔のマエストロと呼ばれる人に較べると一般にテンポが速い。
これを指して、クラシック音楽を古くから愛好する人たちの間で、最近はいい指揮者がいないという言説が流行することになるわけだが、これはクラシックに限ったことではない。
ポップミュージックにおいてもここ10年位でBPM(Beats Per Minute)は平均的に10くらい上がっていて、音楽全体の高速化が始まっているようだ。
せわしない時代ということだろうか。

クラシック指揮者ではパーヴォ・ヤルヴィという指揮者が「表情豊か」という前評判を裏切る高速ベートーヴェンを近年録音している。
2015年からN響の首席指揮者に就任する予定とのことで、もしかしたら演奏に触れる機会もあるかもしれない。

2014年10月2日木曜日

1951年からの警告:「トリフィド時代」

「トリフィド時代」は、SF史上に残る名作のひとつで、ジョン・ウィンダムによって1951年に書かれた。
だから作品の背景には東西の冷戦が強くその影を落としている。

東西両陣営が秘密裡に用意した兵器が、想定外の事態で地球規模の災厄を起こす。
緑色の彗星のようなものが世界中の夜空に走り、それを見た者はすべて視神経を侵され盲目になってしまうのだ。
何らかの事情でその光を見なかった極少数の健常者が、世界の舵取りを委ねられる。

それだけではない。
これまた秘密裡に人工的に作られた、高品質の食用油が取れる植物「トリフィド」は、その圧倒的な繁殖性で安価な油が生産できるが、成長すると歩きまわり(!)動いていたり物音をたてるものを毒を持った鞭毛で襲うという異形の生物であった。
そしてこの災厄で世界中のトリフィドが成長を抑制する処置から逃れてしまい、盲目となった人間社会を襲う。

ウィンダムは、自らが設定したこの絶望的な世界の中で、様々な方法で世界を再建しようとする人間たちを描く。

あるリーダーは(登場するのは最後だが)、健常者(支配者)と目の見えないもの(被支配者)を適正な比率に配備し、役割や序列を徹底した、いわば封建領地のようなグループを束ねて、独裁国家を作る思想家だった。
まず軍備を固め、自らを臨時政府と名乗る。
マシンガンを片手に強制的に領地を拡げていく。
圧倒的に目の見えないものが多いこの世界で、このやり方は生産性が低いため、次々に缶詰などの保存食を確保していく必要があるから、略奪が基本的な戦略となり、必然的に領地の拡大が第一義となる。

別のリーダーは、世界の再建のために必要な物は、「知識」の再生であるという立場をとった。
作物を作る。機械類を作る。燃料を加工して作り出す。どんなことにも知識が必要で、本は残っていても実際に稼働させるには人の訓練が要る。
そしてこの生産力では、健常者のエネルギーはすべて緊急性の高い作物の生産に追われ、最低限必要な作物を永遠に作り続けることになり、いつか野蛮人の社会に堕してしまうだろう。
かつて、高い教育は、都市部でまだ生産に従事しない世代に施され、基本的に世界をまわしていく作物や燃料などの一次的な生産は田舎で賄われていた。(ここで田舎、という言葉が使われているのはこの作品がイギリスで生まれたことによるものである、という点に注意されたい。カントリーの持つ語感はイギリスでは貧しさではなく、豊穣さをイメージさせるものだ)

つまり知識の再生にはそのための「余暇」(=ギリシャ語で余暇をスコレーといい、これがスクールの語源である)を生み出す基礎になる労働力が必要だということになる。幸い、これから生まれてくる子どもたちには、失明の危機は訪れない。なるべく多くの子を産むことがこの社会を再建する鍵になると考えたこのリーダーは、キリスト教的な倫理観をいまこそ捨てて、自由恋愛を含む新しい道徳律の社会を作ろうと提唱する。

そこに反発してもう一人のリーダーが生まれる。
キリスト教の倫理観をあくまでも保持し、慈愛によって清貧に生きていくという考えに賛同する人たちが集まり、グループから分離する。

結果から言えば、このキリスト教による新世界の構築が最も早く頓挫する。
慈愛を何よりも優先する彼らは、原因不明の新しい疫病の患者を切り捨てられず、あっさりとコロニーごと滅んでしまうのだ。

軍事的な独裁国家もじりじりと小さくなっていき、新しい道徳律による社会はある程度の成功を収める。
新しい道徳律のグループが育て上げた労働力を背景に、今度は学校を作ることで、トリフィドとの戦争に立ち向かっていく決意を固めるところまでが描かれている。

ウィンダムが、このような極限状況を設定までして新しい世界の再建をイメージした背景には、現在もなお続く西欧社会の繁栄を支えたものが、結局のところ奴隷の労働力とその奴隷自身を商材とする三角貿易であった、ということへの罪悪感があったのではないだろうか。

ギリシャで高度な学問が発展したのは、奴隷が作ってくれた“暇”のおかげであった。
ローマ帝国の成功の一因は、戦争で戦うのはローマ市民で、その糧食は隷属する非支配国が税によって担うという分業構造が強い軍隊を長期間維持し続けたことにある。
大英帝国の繁栄も、産業革命だけでは成らず、奴隷三角貿易による莫大な原資があったればこそだった。

ウィンダムが物語の中でキリスト教を排除したことも、このことと関連していると思う。
博愛をうたうキリスト教が、黒人を奴隷として遇して良いとした根拠は、彼らは白人とは別の種だから、というものだった。黒人も白人も同じ人類であるという科学的根拠は進化論の中からしか生まれてこず、創世記と矛盾する進化論を彼らが認めるわけにはいかないということも、人種差別の撤廃への大きな障害のひとつとなった。
これは、過ちを過ちと認知する妨げが、この世界にはたくさんあるというウィンダムからの警告ではないか。

相変わらず、世界の何処かでいつも戦争は行われているし、領土紛争なら数えきれないくらいある。でも幸い二十世紀の大きな戦争もこの世界を滅亡には至らせなかったし、東西冷戦もなんとかやり過ごした。
本当に滅びてしまわなければ学べないとは思わない。

でも、少し大げさに聞こえるかもしれないけれど、例えば戦争とか、経済恐慌といったような世界が何度も経験したようなものじゃなくて、もっと「わかりにくい」危なさが近づいている時代なんじゃないかな、と思うことがある。

それは例えば、勤め先の会社から情報を盗んで、どこかに売りつけるという悪質な犯罪が起きた時に、みんなで嬉々として盗まれた方の不備を責めているのを見た時や、自身の弱さから禁じられた薬物に頼ってしまった人が更生に立ち向かおうとする時に、犯罪者に金を渡すなと言って過去の業績から上がる収益までも絶とうとするのを見る時だ。
過ちは今も目の前にあり、しかしそれはなかなか見えない。

これからの社会を作っていく子どもたちに、ぜひ「トリフィド時代」を読んでほしいと思う。


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2014年9月24日水曜日

「RENT」:徹頭徹尾、音楽によって描かれた青春群像

10年ほど前に仕事でニューヨークに行ったとき、お客様が現地で「オペラ座の怪人」のチケットを手配してくださって、ブロードウェイに出かけた。
まだ日本では公開されていなかった「RENT」のポスターが街中に貼られていた。
RENTは、おそらくFOR RENT、つまり貸家に関することだろうと見当がついたが、今回DVDで観て「家賃」のことだとわかった。
なるほど。

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ニューヨークのイースト・ヴィレッジで毎月の家賃も払えない若きアーティストたち。
それがこのミュージカルの主人公だ。

で、冒頭からとにかく歌がいちいち凄い。
このミュージカルの台本を書き、すべての楽曲の作詞作曲をしているジョナサン・ラーソンの作り出すメロディは全曲において素晴らしく、それを唄うキャストの歌声も単に上手いとか心がこもっているという次元を超えて、声の力だけでこちらの心がビリビリ痺れてくる。

映画青年マークを演じるアンソニー・ラップの声はまるでエルヴィス・コステロみたいにB級的な魅力を放っていて、それなのに、どの共演者と歌っても見事なハーモニーになる。
見事な歌唱だ。

マークのルームメイトでロックミュージシャンのロジャーを演じるアダム・パスカルの声は、時にスティーブン・タイラーのようにシャウトする。ラーソンは非常に器用な作曲者で、ロジャーのパートはどの楽曲の中でも、そこだけロック調になるように調整されている。ドラッグ中毒から脱したもののHIVに感染した自分を呪うロジャーの孤独な心を、そしてその孤独から救おうとする仲間のメロディとの呼応が、非常に音楽的に表現されているのだ。

ジョアンヌというエリート弁護士のレズビアンを演じるのはトレーシー・トムズ。ブルース・ブラザーズのアレサ・フランクリンを彷彿させる凄い歌声だ。
アフリカン・アメリカンのウルトラ・ソウルフルな彼女の歌声に、マークのちょっと英国っぽい皮肉の利いたハスキーボイスが絡んでいく演出は何度観てもぞくぞくする。


構造上、ストーリーをドライブするのは、カネのないアーティストたちと、彼らが家賃(RENT)を払わずに居座るアパートメントのオーナーとの対立、であるはずだが、冒頭からこの対立は意外なほど深刻化せず、権力者であるはずのオーナーサイドはびっくりするほど消極的な手しか打ってこない。
むしろ彼らを深刻なピンチに追い込むのは「エイズ」である。

検査で陽性と診断されれば、いつ発症するかわからない恐怖に怯える日々がはじまる。
登場人物の半数近くがHIV感染者として描かれているが、実際のところはどうなのだろう。
彼らは「ライフ・サポート」と呼ばれる「集会」に参加している。
車座になって、日々の恐怖や周囲の無理解などについて語り合う。
まず、自分がHIV感染者であることを「認める」ことがなにより重要なのだという。
そして認め合った者同士で語り合うことで少しでもその恐怖を癒やす。

昔読んだ、ローレンス・ブロックのマッド・スカダー・シリーズで、アル中患者が同じように車座になって 「自分はアル中だ」と認める集会の存在を知った。最近も、シュガー・ラッシュというディズニーの子供向け3DCGアニメに、ゲーム内の悪役が車座になって「自分は悪役だ」と認め合う集会が出てきた。
そしてRENTではHIV感染者が、同じような集会を行っている。

なにもしないでいるとどんどん自分の中で膨らんでいく不安を、言葉に置き換えて外部化する、というノウハウなのだろうか。
アパートに閉じこもり発症に怯えながら、それでも人生最高の曲を書くという望みを支えに生きるロジャーと、不安そのものをわかちあいながら日常に織り込んで生きる彼らの生き方のどちらが、より人間らしいのか、僕には判断がつかない。
ただ、その不安に怯える自分を外部化してまでして認めなければ生きていけないような日々が、あくまでも自分らしい存在であろうとし、創造的な日々を生きようとした結果であるというところに何とも言えない虚しさを感じてしまうのだ。

彼らの精神的支柱であったエンジェルというゲイがエイズを発症、ほどなく亡くなって、物語は終息に向かう。
ラストシーンで映像作家志望のマークの渾身の映画と、ロジャーがとうとう書いた<最後の>一曲が披露されるが、これがもうひとつ心動かされない出来なのは何故なのか。
思うに、この楽劇を書いたジョナサン・ラーソン自身が、アメリカン・ロック的なサウンドにシンパシーを感じていなかったのではないか。
振り返れば、ロジャーの歌のシーンはテイストの違う歌に<異物>として挿入されている感覚をおぼえる。

ラーソンは、オペラで言う、ライトモチーフのように、ニューヨークという街の多様さを音楽の<交わらなさ>で表現しようとしているのではないだろうか。
そしてエンドロールが始まったとき、全体としてこの楽劇を貫く音楽の記憶が、まるで織り上げられたシンフォニーのように響いてくる。
徹頭徹尾、音楽によって描かれた青春群像。それがこのRENTという作品だと思う。

2014年8月20日水曜日

井上夢人「ラバー・ソウル」:騙された記憶を上書きしたくない

文庫化された井上夢人さんの「ラバー・ソウル」を書店で見かけて、手に取った。

井上夢人さんは、以前徳山諄一さんとのコンビで岡嶋二人を名乗っておられた。日本版エラリー・クイーンというところか。
ずっと以前にコンビ最終作の「クラインの壺」を読んで面白かった記憶があったが、なぜかコンビ解消後単独名義で出した作品には食指が動かなかった。

今回この本を手に取ったのは、その装丁に、筆者のものか編集さんのものかはわからないが、並々ならぬ情熱とこだわりとセンスを感じたからだった。

タイトルは、もちろんビートルズのアルバム・タイトルからつけられたもの。
で、目次からすでにアルバム風である。


 で目次をめくるとこうなる。





これが実はただの飾りではなくて、各章の扉の仕掛けに繋がっている。
これがその扉。

各章はアルバム「ラバー・ソウル」の収録曲のタイトルになっている。

それだけではなくて、この扉ページのトーンアーム、第4章ではこうなっている。





そう、少し進んでいるのである。
これがB面最後まで続いている。
愛情のこもっている本なんだな、と思って買った。

しかも読んでみてわかったが、この章立てを曲名にしているところに、ストーリーの「裏側」を示唆させているという、小説技巧的にも凝りに凝っている作品なのだ。
面白く無いはずがない。

実は単行本の発売時に書店で見かけて、その時は買わなかった。
何故かと言うと表紙絵にちょっと禍々しいものを感じたからだった。

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しかし読み終えた今、この表紙の印象までもが180度変わってしまった。

解説には二度読み間違いなしと書いてあるが、そういう性質の本ではない。
むしろ、騙された自分をそのままにしておきたいと思わせるほどの鮮やかな叙述トリックが際立っている、と僕は読んだ。
僕は、叙述トリックのミステリが何より嫌いな男である。
しかしこれはいい。
作品に「格調」というものがある。
人間を馬鹿にしていない。騙してやろう、という心が先に立っていない。
こんな叙述トリックの作品は初めてだ。





2014年7月23日水曜日

ソナタ形式で綴られるコメディー映画「ジャッジ!」の脚本が素晴らしい件

クラシック音楽の用語に「ソナタ形式」というのがある。

楽曲の展開のパターンのひとつで、簡単に言うと、まず主題が提示され(提示部)、その主題をさまざまに変形し、変奏する(展開部)。この緊張感のある(つまり主題からの逸脱)展開部を抜けた後、提示部の主題を再び繰り返す(再現部)形式のこと。

提示部の主題が第一・第二の二つの主題から構成されていることも考え合わせると、物語における起承転結にも似ているが、ソナタ形式の特徴はなんといっても再現部にある。
提示部で聴いた主題が、再現部で繰り返された時に、それが変奏を経ているがゆえに最初と違った心象風景を見せてくれる。

同じメロディが二つの顔を見せるのだ。
例えばそれは、自分が子どもとして育てられている時に、親の子育てを見てきて、今度は自分が親になった時にはじめて、あの時親が自分にしてくれたことの意味を識る、というようなことに似ている。
これがソナタ形式の醍醐味なのだ。

そして映画なんかを観ていて、この映画よく出来てるなあと感心するような時、脚本がソナタ形式に倣って書かれていることが多い。
今回観た「ジャッジ!」というコメディー邦画もそのような映画だった。

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妻夫木聡、北川景子主演。
妻夫木くんは、本当にコメディーではイキイキとした演技をする。
清州会議でのバカ殿役も実に良かったが、今回のはもっといい。


以前、広告の仕事をしていたので、冒頭のきつねうどんのCFのプレゼンで、「宣伝部長がネコといったらネコなんだ」というくだりがなんだかちょっと懐かしいが、そのちょい役の宣伝部長をあがた森魚がやっているという無駄な贅沢さがこの映画のクオリティを物語っている。

第一主題は、このあと、妻夫木くんが青森時代に憧れていた女性と東京で再会し、自分が本当にやりたかったことを思い出し、そのきっかけになった靴のCMのビデオをプレイバックするというカタチで奏でられる。

そして、役者として進境著しいリリー・フランキー演じる窓際社員から、第二主題が繰り出される。
ダメ社員の妻夫木くんが何故かアメリカの広告祭に審査員として派遣されることになり、英語も話せず、CMプランナーとしての実績もない彼に、リリー・フランキー扮する窓際社員が、これだけ覚えていけ、という英文をいくつかと、簡単な“芸”を授ける。
これが第二主題として機能する。


(当然のことだが)付け焼き刃の英語は、現地でとんちんかんなドラマを生み出す。
第二主題は、シチェーション・コメディの中でさまざまに変奏される。
その騒動の裏側で、第一主題に据えられた靴のCMもその作者の心境の変化として変奏している。


このお互いに関係しあって変奏を作り出していく脚本が実に巧みなのだ。

そしてピンチに陥って肚をくくった妻夫木くんが、それしか知らない「第二主題」を、大きく変化した状況の中で純粋に再現する。そして、事態があるべき姿に収束していくのだ。
で、ここのところが、この映画の面白さのコアなので詳しくは書かないが、実に見事だとだけ言っておく。


傑作なのである。


逆の例も挙げておく。
同時期に公開された西島秀俊、キム・ヒョジン主演のサスペンス「ゲノムハザードある天才科学者の5日間」 だ。

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冒頭から死体消失や、その死体からの電話など不可解な“美味しい”謎が提示される本格ミステリー。
原作はサントリーミステリー大賞受賞作。

で、この美味しいはずの謎は、すでにタイトルにてネタばらしされている。
そう、イラストレーターとして登場した人物は、実はとある天才科学者であることがすでに知らされているのである。
そして、畳み掛けるような“偶然”の連続で、物語は真相へと向かうのである。

真相がわかってみると、物語の起点すらもある不幸な偶然から始まっていた、という始末だ。
せめて何かの陰謀があって欲しかった、と思ってしまうほど必然性の薄い物語。
当然、ソナタもこなたもないのである。

だからといって、この映画が面白くなかったと言いたいのではない。
西島秀俊のかっこいい疾走シーンはおそらく日本映画史にくらいは残りそうな名場面だったし、キム・ヒョジンのどこまでも感情にストレートな演技も好感の持てるものだった。
シナリオもすべからくソナタ形式でなければならないというわけでも、もちろんない。

それでも「ソナタ形式」の応用が、観ているものを因果のサークルの中に捕らえて、その世界を体感させる仕掛けとして、やはりひとつの有効な手段であることを、このふたつの映画の印象は証明しているのではないかと思う。

2014年7月17日木曜日

映画「清州会議」:三谷幸喜の意外にも正攻法な清州会議解釈

映画「清州会議」をDVDにて鑑賞。

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三谷幸喜作品である。

本能寺の変のあと実際に行われた、織田家の跡目決めと領地分配の会議が題材となっている。
かつて、何度もドラマや映画に取り上げられた題材で、三谷幸喜がどのようにこの「よく出来た」お話を処理するのかに興味がわく。

誰もが跡目争いの候補としてノーマークだった当時2歳の三法師を、まんまと自分だけに懐かせ、抱きかかえて登場した秀吉が「殿の御前であるぞ、頭が高い」と抵抗勢力である柴田勝家を押さえつける清州会議のエピソードは、史実にしては出来過ぎた演出が施されているように感じる。
秀吉が登場するエピソードは、彼が天下人となったあとに「書かせている」いくつかの太閤記が下敷きになっているものが多く、実際どうであったのかはすでに判然としないものが多いのだ。

中でも特に清州会議は怪しい。

まず、三法師が跡目争いの本筋であると、秀吉だけが気付いていたというのが普通に考えておかしい。
三法師は信長の長男の嫡子なのである。
また次男・三男はすでに養子に出ている。
おそらく最初から三法師が筆頭候補であったはずだ。

また、会議が清須で行われた理由も、当時三法師が清州城に滞在していたから、と考えたほうが自然すぎるほど自然だ。

「十二人の怒れる男」を正反対のアプローチで舞台化した三谷幸喜が、この演出過多な「実話」をどのようにおちょくってくれるのか、を期待したわけだ。

しかし三谷幸喜は、本作品においては正攻法のアプローチで、仕掛けとしては柴田勝家を人情味あふれる昔気質の武士、秀吉をビジョナリーに仕立てて、時代の変わり目を生き抜く男たちのドラマとしてみせた。
また、その裏で、これまた昔気質な色仕掛けで運を引き寄せようとするお市と、現代的な謀略で最大の利益を生み出した松姫の相克をも走らせ、見事な現代劇に仕立てている。

思えば、三谷幸喜はすでに日本有数のヒットメイカーなのであって、僕が期待したようなオルタナティブな表現は、若い野心家に望めばいいのであった。


それにしても剛力彩芽にこの役は酷であった。
なにしろ麻呂眉にお歯黒。
どんな美人でも、そうとう厳しいものになる。
しかしだからこそ、最後の見せ場の演技で、あの「歯」は効いている。
かわいそうな気もするが、ちょっとゾッとしてしまった。

映画「パシフィック・リム」:菊地凛子の名演技

映画「パシフィック・リム」をDVDにて鑑賞。


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公開時には日本でもずいぶんな話題作だったと思うが、これなら日本のアニメにもっと優れた作品がいくらでもあるだろう。
少なくともシナリオ、および設定に関しては二番煎じの印象を拭い去れない。
見せ場のシーンでもエヴァンゲリオン、ジャイアント・ロボなど、ああこれはあれだな、みたいな元ネタを感じさせるものが多かった。
監督さんは日本の特撮ものをリスペクトしている人なんだそうで、ゴジラの本多猪四郎監督への献辞もラストに流れる。

それでも映画として充分楽しめたのは、やはり菊地凛子さんの名演によるところが大きい。
アクションもいいし、内心の葛藤を表現する演技が実に日本的で、類型に堕さないところがよかった。


でもこの映画はそれだけかな。
あ、あと芦田愛菜ちゃんのハリウッド進出作ってこれだったんですね。