2014年7月10日木曜日

劇場版「黒執事」のたったひとつの見どころ

アニメの2期放送に先駆けて、水嶋ヒロ×剛力彩芽のキャストで実写映画化された「黒執事」

もともと原作漫画でも、アニメ化作品でも、例えば「悪魔との契約」という魅力的な文芸的背景を持っているにもかかわらず、そこを研究した気配はない。
何かの文芸作品や映画などへのオマージュも特に感じ取れない。

ただしアニメ版には「坂本真綾が演じる少年」という立派な見どころがあり、作品として成立はしている。

この劇場版では、剛力彩芽をキャストするために組まれたオリジナルの設定、つまり本当は女の子だが当主を継承できるが男の子だけなので正体を隠しているというギミックが活きている。

どこで活きているかというとひたすらにメイドのリンのためにだ。
原作でもドジっ子メガネメイドとして登場するこのキャラクターが、この映画のメインキャストである。

映画でもリンはやはりドジだ。




しかし、主人の危機にあたり、正体を表す。
メガネが外れて、戦闘者としてのリンが姿を現す。って、山本美月かよ!

メガネでわかんなかったよ。

ここのアクションシーンが凄い。
格闘技で、相手を倒して馬乗りで迷いなく射殺。

その後も武器商人のボディガードたちを倒しては銃を奪い、殺す。
ご主人様の剛力を逃した後、大量のボディガードにひとりで立ち向かうシーン。
よく上着脱いだりして戦いの体勢を整える場面で、ベルトをキュッと引き、スカートの裾を絞る。
かっこいいです。この仕掛け。
メイド戦闘のスタンダードになると思う。


そしてここがアクションシーンのハイライト。
捕まえた敵に乗り、銃を奪い、そのまま回転しながら射撃、周囲の敵を薙ぎ払う。
これ、ご本人がやってるんだとしたら凄い。
水野美紀の後継として充分、やっていける。
で、戦い終わってセバスチャン(執事)に助けてもらって、メガネに戻る。

この後、敵執事と黒執事のバトルとか、意外な真犯人とか、そのまた背後に大物が、とかいろいろあるわけですが、結局このメイドバトル以上の盛り上がりはありませんでした。
というわけで、山本美月演じるリンのバトルシーンを中心にご紹介いたしました。

映画は続編に含みを持たせるエンディングでしたので、次回もリンの活躍に期待したいです。







2014年7月5日土曜日

映画「真夏の方程式」:容疑者xの本格問題への回答

映画「真夏の方程式」をDVDにて鑑賞。
東野圭吾さんのガリレオ・シリーズ、「容疑者xの献身」に続く映画第二弾、ということになります。


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「容疑者xの献身」に関しては、「容疑者xの本格問題」を軸に、以前このような文章を書いている。
→我「容疑者xの献身」を楽しむものに如かず

ガリレオ・シリーズの映画化であるから、やはりこの問題を避けて通ることはできない。
二階堂黎人が提起した「容疑者xの本格問題」の起点はこのような指摘だった。

こ の本の真相(湯川の想像)には、読者に対する手がかりも証拠も充分でなく、読者はそれをけっして推理できない。よって、作者が真相であるとするものが最後 に開示されるまで、読者は真相に到達し得ない。つまり、そういう結末の得られ方(作者からの与え方)は《捜査型の小説》であるから、《推理型の小説》では ない(=本格推理小説ではない)、ということなのである。

本作「真夏の方程式」においても“湯川の想像”は、やはり推理とは呼びがたい“飛躍”を内在させていた。
そして、容疑者xと同様に、 その想像自体は、事件を解決するためのものでなく、もっぱら事件に関係した者の心の状態を変化させることに寄与するのである。

もっと突っ込んで言えば、謎を解くことだけでは、事件を解決したことにならないよ、という作者からの「容疑者x問題」への返答ともいえるのではないか。


また本作では、脱原発問題を想起させる「環境保全」と「資源開発」という二項対立が、物語の軸として立てられている。
どちらが正しいかではなく、どちらを選択するか。
それが人間にできる議論のせいぜいの範疇である、とガリレオは折に触れ両陣営に示唆している。
それぞれの立場にしがみついて、逐一否定して反論しあっていても、どこにも辿りつけない。


映画では、ある少年の成長を通じて、今の日本のあちこちで見られるこのような閉塞の風景を浮き彫りにしていく。
人間が正しく生きていくために必要な“地図”が科学だ、とガリレオは少年に告げる。
「今、学校で教えていることは将来の役に立たない」などと、大のおとなが言い立てるようなこの国で、僕らはどこに辿り着こうとしているのか。
すべての少年のとなりにガリレオはいないのに。

2014年7月3日木曜日

映画「謝罪の王様」:Gomennasai is not “I'm sorry”.

映画「謝罪の王様」をDVDにて鑑賞。
さすが、クドカン×阿部サダヲ。脚本も演技も名人芸。一級のコメディーであります。

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僕は18年間営業の仕事をしてきたが、だいたい仕事の半分はなんらかの謝罪だ。
ミスに起因するものもあるが、クローズド・マーケットで決まった顧客と長期に渡る取引をする業界では、提供した商品がお客様の期待どおりでないときも、適切な謝罪が必要になる。

営業現場での謝罪においては、「それが本当は誰のせいか」ということは問題にならない、どころか問題にしてはならない。
それが自分以外のスタッフのせいでも、またはいかんともし難い社会情勢に起因するものでも、たとえお客様自身の勘違いであったとしても、すべてを代表して頭を下げるのが謝罪というものだ。

リクツを超越した「許してください」という純粋な気持ちだけが、謝罪の要諦である。



だから、映画内で、謝罪センターができるきっかけとなったラーメンチェーンの謝罪対応の迷走ぶりには、わかる、わかると大きく頷いた。
謝罪することと、事態を収拾するということの間には深くて大きな溝があるのだ。

国際弁護士に、謝罪の何たるかを語るシーンにも日本的な謝罪の本質がよく表現されていた。
だいたいI'm sorry.ってなんなんだ。
なんで、私は残念だ、と表明することが謝罪することになるんだ。
同じ意味でエラい人が「遺憾に思います」っていうのも、ちっとも得心がいかない。
「それはわたしのせいではありません」って言ってるのと同じだろ。


グローバリゼーションの中で、日本が喪った大事なもの。
それが謝罪だ、というのがこの映画のテーマだろう。
おおいに共感します。


さて、この映画にはもうひとつ見どころがある。
それはエンドロール。
E-Girls、エグザイル、VERBALの豪華共演による主題歌のミュージック・ムービーが凄い。
ぜひ観てください。

2014年7月2日水曜日

映画「ルームメイト」:物語のミスリードと映像のミスリード

映画「ルームメイト」をDVDにて鑑賞。
もちろん北川景子を観るためである。

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思いのほか、本格的なサスペンス/ミステリであった。
原作は、今邑彩さんの小説で、漫画化もされているようだ。

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ミステリには、映像や漫画にされると、読者へのミスリードがうまく働かなくなる種類のものがある。
今邑彩さんの「ルームメイト」もそのひとつなのだが、本作では二人の女優をうまく使ってそこをクリアしている。
だからやはり見どころは、と問われれば、北川景子と深田恭子の女優としての質の違いに集約される、と答えるだろう。

北川景子は、どんな役をやってもどこかに北川景子そのものを映し出しながら役を演じる。
「謎解きはディナーのあとで」のお嬢様も、「死刑台のエレベーター」の警官の恋人も、「悪夢ちゃん」の先生もどこから見ても役を纏った北川景子なのである。

一方、深田恭子という女優には、役の中に“ワタクシ”が入り込まない。
「夜明けの街で」での深田恭子はあくまでも秋葉なのであり、「ヤッターマン」に出れば、やっぱりコスプレを超えてドロンジョ様そのものになってしまうのである。

その深田恭子の本作での複数人格の演じ分けの見事さといったら!
人格の揺らぎは、この映画のコアであり、そのように瞬時に複数人格を行き来するのを、最後、北川景子が、その実在感ですっぽり受け止める、という構造になっている。
いわば、小説特有のミスリードの手法を捨て、映像ならではのミスリードに切り替えているのだ。

キャスティングの妙で見せる映画である。


もうひとつ付け加えるなら、映画の後の主題歌がいい。
とてもいい。
完全にこの映画の一部となって、気になるその先の彼らの運命を、“余韻”として引き受けてくれている。

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2014年6月29日日曜日

映画「エンダーのゲーム」:戦うことと理解すること

オースン・スコット・カードの「エンダーのゲーム」が映画化されると聞いて、大学生の頃、ハヤカワのSFハンドブックに載っている本を片端から読んでいた日々を懐かしく思い出した。

が、ディズニーの製作と知って、本作の魅力のおそらく半分しか描けないだろうな、とも思った。
原作のSF小説「エンダーのゲーム」は、ピーターとエンダーという兄弟の生き方の対比を通して、政治と戦争の関係性を描き出したものだからだ。
DVD化されたものを観て、やはり原作の政治批判部分を担ったピーターが「残虐性」の象徴のように矮小化して描かれていて、そこが少し残念だった。

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原作小説のことをもう少し言えば、「エンダーのゲーム」の登場人物の一人、ビーンを主人公にした「エンダーズ・シャドウ」に始まるシャドウシリーズというスピンアウト作品と、「ゲーム」の続編「死者の代弁者」「ジェノサイド」と続いていく本編シリーズで、政治と宗教を包括して人間性とは何かを問う壮大な世界を立体的に構築している。
現在はもう映画化を機に出版された新訳版の「エンダーのゲーム」しか入手できないのは、とても残念なことだ。


さて、映画のほうでは、
「戦いに勝つためには、相手を理解しなくてはならない」、
そして、「相手を理解すると愛情が芽生える」という皮肉な因果が戦争という悲劇の本質である、というテーマに絞って脚本化されているようだ。


この因果に沿って考えれば、最高の戦闘者は、敵の最高の理解者、ということになる。
だから、単純に「勝利」を目指すためには、理解から生まれる愛着が戦闘の障害になるというディレンマに陥ること無く、指令によって“純粋に”戦争を成す存在として“子どもたち”が選ばれる。
そして戦争そのものも“ゲーム”に偽装しなくてはならない。


しかしそれでも事が成った後、少年は自分たちのしたことに気付き、心に傷を負うだろう。
大人はこれも織り込み済みで、選考時から心のケアのためのスタッフを帯同させている。
しかし、“ケア”によって対処してはならないこともまた、子どもたち自身が一番よく知っている。
なぜなら、50年前の戦争で、やはり敵を理解した故に撃破に成功した“英雄”メイザー・ラッカムの存在すら、政治の中に取り込まれ、戦争の装置に取り込まれていることを少年は知っているからだ。
自分は悪くない、と思ったらこの悲劇は繰り返される、と少年は知っているのだ。

と書いて、これじゃあ映画評ではなくて、現代の日本のことじゃないか、と思って慄然とするが、この間同じようなことを某所に書いたら、そんな心配いりませんよ、と多くの書き込みを戴いたので余計に不安になった。

何故、戦いという目的がなければ「理解」にいたらないのか。
異質なものは、異質であるというだけでなぜ“敵”として扱われるのか。
ジョン・ウィンダムの「トリフィド時代」、ネヴィル・シュートの「渚にて」、ハインラインの「月は無慈悲な夜の女王」、ブライアン・オールディスの「地球の長い午後」
多くのSFの名作たちがそのテーマに挑んできた。

その疑問は想像の埒外にあってはならないものだからだ。
オーウェルの「1984年」のその先の未来を描き、根源に迫ったSFの古典の想像力。
事実、我々が繰り返してきた愚かな戦いまみれの歴史の要諦がそこにある。

2014年6月25日水曜日

奥泉光「東京自叙伝」

奥泉光先生の新刊「東京自叙伝」を読んだ。

東京自叙伝
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怪作なのである。
なにしろ最終章より前はすべてまるごと伏線。
しかし未読の方は、予断を持たず奥泉さんの名調子に身を委ねて、日本語そのものを楽しむのがいいと思う。

ソンナ小説ホントウにオモシロイのか、などという心配はいらない。
これまでのどの作品よりも味わい深い名文なのである。

いや、まさか「鳥類学者」は超えてないでしょ、と思われるファンの方もいらっしゃるでしょう。
ぜひお読みになって確かめていただきたい。
企みに充ちた文体です。
モウこの文体自体に寓意がある。
ただし、鳥類学者やグランド・ミステリーのような複雑で精緻なプロットはない。
そういう面白さではないのです。
ぜひ最終章を読んで、じわじわと迫ってくる文学的企みのダークサイドを感じ取ってほしいのです。

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既読の方は、僕の文章がすでに東京自叙伝の影響を深く受けているのに気がついて失笑していらっしゃることだろう。そのくらいの威力のある、浸透力の強い文章だ。

と、いうわけで、この小説に関しては何を書いてもネタバレになるから、このくらいでやめますが、 くれぐれも、これはちょっと私には合わない、などといって途中を飛ばして最終章だけ読むようなことはなさらないようにお願いしておきます。

逃れ得ぬもの:ゼロ・グラビティの「静寂」

映画「ゼロ・グラビティ」を観た。
公開時にずいぶん話題になっていた映画だし、上下方向にも目を配った新しい音響規格「ドルビー・アトモス」のリリース時にもデモに使われていたりしたので、期待していた。

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しかしあまりにもテンポよく、スムースに展開していく宇宙空間での冒険にヒヤヒヤしているうちに、なにか映画的な「物語」が始まらないうちに映画そのものが終わってしまった、という印象。

事実、短い映画ではある。
宇宙空間で観測をしているハッブル望遠鏡の修理に赴いたクルーたちを、猛スピードで軌道を周回するデブリが襲う。
生き残った者が、近く(と言っても100Km離れている)の国際宇宙ステーションに向かい、再突入用の宇宙船を探すが、こちらもデブリに襲われていて、大気圏には突入できない。
そこで、その宇宙船で、またまたお隣の中国の宇宙ステーションに行き、宇宙船を乗り換えて地球へ、というお話。

おそらく映画館で観ていれば、その圧倒的な孤独を感じさせる宇宙空間の描写や、襲ってくるデブリ、船内での爆発事故などの映像効果が堪能できたのかもしれない。
僕は元来映画に、そのような楽しみを求めていないので、まあこんなものか、と思って見終えた。

しかし、ベッドに入ってから、宇宙服でジョージ・クルーニーがかけていたカントリー・ミュージックが、何故あんなに耳障りに感じたのかが気になり始めた。
サンドラ・ブロック扮する技術者が、悪いけど音楽を止めてくれない、と言った時、僕も耳障りな音楽だなと感じていたのだ。
でも、音楽そのものはのんびりしたカントリー・ミュージックで、決してうるさい音楽ではない。
この感覚、何なんだろう。

ジョージ・クルーニーが、サンドラ・ブロックに、宇宙のどんなところが好きだ、と訊いた時の、「静寂」という答えにその理由があると気付いた。
気付いたとたん、静寂は音だけを指すのではなく、人間関係や、もう少し拡大して「社会」のようなものからの隔絶までも含むのではないか、と思いいたり、ベッドを出てもう一回。
この、気付いた時にもう一回、というのがDVDで映画を観るメリットだ。

すると、冒頭から、この危機を引き起こしているのが、ロシアの衛星破壊であるし、サンドラ・ブロックがジョージ・クルーニーに「それって心配したほうがいい」と訊くのに「そういうのはヒューストン(地上)に心配させとけばいいのさ」と答えている。
騒動は、地上で人間たちが勝手に起こしているものだ、という感覚。
しかしオープニング・ナレーションで、宇宙空間とは生命が存在できないところだ、と前置きしている。
そしてその地上に生命を繋ぎとめているのが「重力」=「グラビティ」である。
この映画、そもそも原題はGRAVITY(重力)で、ゼロ・グラビティ(無重力)ではない。
あのラストシーンでの主役は、明らかにサンドラ・ブロックではなく「重力」だった。

静寂を求めて宇宙空間に来たサンドラ・ブロックも、危機に瀕してジョージ・クルーニーの声を必死に求めた。結局彼女を救ったものも、AM波に乗った子どもの声だった。
逃げようとして逃げられないもの。
ゼロ・グラビティは、それを重力(=グラビティ)に仮託して語った物語だったのだ。