2013年7月11日木曜日

書評不可能な怪作、大江健三郎「水死」に溺れる

大江健三郎の「水死」は、極めて複雑に構成されていて、「読む」という行為では真意をはかることが難しい。

よって「書評」はしない。

この物語の構造を、まずは再構成してみようと思う。

まずは、劇団穴居人の女優ウナイコが演劇の素材に使う、夏目漱石の「こころ」。
ここに書かれる先生の遺書には、「明治天皇が崩御されたのだから明治の影響を強く受けた自分などが、その後に生き残っているのは必竟時代遅れではないか、と妻に言うと、では殉死でもしたら可かろうとからかわれ、では明治の精神に殉死する、と答えた」と書いてある。

次に老作家長江古義人(ちょうこう・こぎと)=大江健三郎が、抜き差しならぬ事情で最後の小説のテーマに選ぶ「父の水死」。

古義人の父は1945年の敗戦の直前、若き将校たちと特攻の計画を立てるが、その計画が郷里の森を破壊せざるをえないことが明らかになるや、翻意し、計画の中止を宣言して自ら短艇で川に乗り出し単独で自死する。
ここに、「昭和の精神に殉死する」という夏目漱石との関連性が見られる。

そして、この水死の際、携行した赤革のトランク。
この中にはフレイザーの「金枝篇」の原書が入っていた。
書き込みのある位置を調べると、王殺しの必要性について考えていたことがわかる。
また、森を守ることの神聖性も、金枝篇の中心テーマであったことから、この本が計画の中止に大きな影響を与えたこともわかる。

そしてここに来て、計画されていた特攻の対象が敵ではなく昭和天皇その人であったことが明らかになり、父の水死はその特攻に先んじての殉死であったことがわかる。

このいわば森の神話と現代史の接続の試みを軸に、障害を持つ作家の息子アカリと父の確執と雪解けが描かれ、その後突然舞台はウナイコの家族の確執へと移り、急速に拡大しスピードを上げてクライマックスに突き進む。

そして衝撃のラスト!
いったい何故、いつの間に、このような話になったのか読者が追いつけないほどのスピードでたちまち物語は密度を何百倍にも上げて結末する。

これはやはりただただ大江健三郎から迸る奔流に身を任せるほかない。
書評などは無意味だ。

ただ、やはりここに描かれた多義的な現代史を見せつけられた今は、現政体によって書かれた明治維新以降の歴史を、あらためて戊辰戦争での朝敵側から見た姿も検証してみる必要があるような気がして、半藤一利さんの「幕末史」を入手した。
そして「こころ」も、もう一度読んでみようと思う。



2013年の「華麗なるギャツビー」は、現代に何を語る

この映画の評判がいいのは聞いていた。


しかし、ディカプリオのジェイ・ギャツビーってのはどうにも想像がつかなかった。
あまりに露悪的にすぎるじゃないか、と思っていた。

僕はこの俳優の軽薄な眉間の皺がどうも好きになれなくて、タイタニックにしても、アビエイターにしても初期の出演作そのものの印象が悪くなってしまうくらいなのだが、それがルヘインのシャッター・アイランドの映画化での彼の好演で、お、ワルい顔が板についてきたね、と思っていたので、逆にあのワル顔でギャツビーをやられてもなあ、と思っていたのだ。

しかし、それはまったくの思い違いだった。

原作者スコット・フィッツジェラルドの文章は、言語という不自由で不器用な武器を巧みに操って、あらゆるものを現実よりも現実らしく提示してみせる。
ジェイとニックの出会いのシーンで、ジェイが最初に見せる微笑みをフィッツジェラルドはこう書いている。

「彼はとりなすようににっこり微笑んだ。いや、それはとりなすなどという生やさしい代物ではなかった。まったくのところそれは、人に永劫の安堵を与えかねないほどの、類まれな微笑みだった。」(中央公論新社、村上春樹訳 P92-P93)

この後も、微笑みについての表記が9行にわたって続くのだが、このように書かれた微笑みを「演じる」ってのはどんな気分なんだろうか。
人に永劫の安堵を与えかねないほどの、類まれな微笑みをもし持っていたら、僕の人生が変わりかねないじゃないか。
つまるところそれは、「普通に生きていれば一生お目にかかれないほどの」微笑みという意味で書かれているのだ。

しかし、ディカプリオはそれを「演技して」みせた。
少なくとも僕には、フィッツジェラルドが意図した微笑みはきっとこういうものだったに違いないと、確信できた。
あまりに印象的な表情だったので、鏡の前で練習してみたが自分が嫌いになりそうだったのでやめた。それは別にヤツのせいじゃないが、やっぱりディカプリオは好きになれないな。





今回の映画独自の演出もなかなかいいと思う。

語り手であるニック・キャラウェイが作家志望であったという設定も原作にはないし、狂騒の日々をなんとか生き抜いた後、アルコール中毒と不眠症でサナトリムで療養して、そこでこのギャツビーの物語を書いた、という設定も映画独自のものだ。

ニックという語り手は、原作では、冒頭にある父親の「誰かのことを批判したくなったときは、世間の人が、お前のように恵まれた条件を与えられたわけではない、ということを思い出せ」という忠告を忠実に守って、周囲の狂騒に一歩踏み込まず、自分という存在を固持する存在として描かれている。

だからこそ、騒動のあと一人西部に戻っていくわけだが、映画では、この冒頭の父親の忠告の中核部は注意深く取り去られ、彼自身も深く騒動に取り込まれ傷ついてしまう。

この映画の核心は、この成熟の時代の観客を、現代の映像技術を最大限に(文芸作品には珍しく3Dまで)駆使して、1920年代を象徴する狂乱のパーティーシーンにどこまで引き込めるか、リアルに感じさせるかにあったと思う。

そうまでしているのに、語り手が一歩引いたメンタリティでは、物語がうまく牽引されていかないということだろう。

しかし、ニックをサナトリウムに入れてしまうことで、ギャツビーの精神的な続編とも言える「バビロンに帰る」の喪失感を映画の中に組み込むことに成功しているのだ。
すでに何度も映画化されている「華麗なるギャツビー」をこの時代に再演することの意味を実によく考えてある作品だと感心させられた。



そして全編を印象的に導く「緑の灯火」。
第一次世界大戦で、莫大な富を得たアメリカという国が、目的を見失い、大恐慌が来るまでの10年間繰り広げた狂騒の日々。
そのロスト・ジェネレーションの只中で、ただ愛を信じて手段を選ばず突き進んだジェイ・ギャツビーを導く灯台の灯りが、デイジーの桟橋で輝く緑の灯火だった。


原作では、灯火に導かれてアメリカという新大陸を発見した人々の驚きにまで言及して、この国がどこへ行こうとしているのか、悦楽の果てにある陶酔の未来など現実には来ないのだと、語っているが、さすがに映像的な説得力をもってしても、幻想的に演出された緑の灯火一発でそこまでは表現できない。

そこでパーティシーンに予言的に起用されたのが、ガーシュインの「ラプソディ・イン・ブルー」という楽曲なのだろう。



アメリカは、戦争によって国家としての富は得たものの、積み上げてきた歴史をもたない悲しさで文化面では一歩欧州に及ばないという劣等感を持っており、独自な「アメリカ的」なるものを渇望していた。
ラプソディ・イン・ブルーは、その思いに応えてガーシュインが、移民によって、また奴隷貿易によってできたアメリカという国が宿命的に持っていた文化的な衝突が生み出したブルースを母体に発展したジャズを取り入れた交響曲として仕上げたものである。

アメリカの歴史の浅さへの劣等感を強くはね返していこうとする意志を込めたこの楽曲に、フィッツジェラルドが「華麗なるギャツビー」に織り込んだアメリカへのエールを託したのではないか。
そしてそれに続く、現代的な音楽が、この物語を現代の物語としても認識させる。
ジャズ・エイジもロスト・ジェネレーションも、いつでも繰り返し我々の前に現れるよ、という予言。
この映画はそこまで踏み込んで表現しているような気がする。


さすがにこれだけ奥行きの深い文学作品を、しかもすでに何度も映画になっているものを映像化するのは大変な作業だったと思うが、ディカプリオ氏の名演も含め、実によく出来た映画に仕上がっていたと思う。


2013年7月10日水曜日

「人間の建設」知には情を説得する力はない

「人間の建設」



これは評論家小林秀雄と、他変数解析函数論で世界中の数学者が挫折した三つの大問題をひとりで全部解決してしまったという大数学者、岡潔先生の対談集だ。

まさに知の巨人としかいいようのないこの人たちは、文系代表小林秀雄からアインシュタインと哲学者ベルクソンの確執のエピソードが飛び出したり、理系代表岡先生からドストエフスキーやらピカソの論評が飛び出したりでまったく油断できない。

さらに小林の言葉には独特の難解さがつきまとう。
論理が飛躍しているからだ。

この本は対談集だから、対談相手に伝わるように例解してくれるのでその飛躍の正体がわかるが、それはその言葉の本来の成り立ちとは関係のない彼自身の「世界の見方」のようなものを付加させて語られているということだと思う。

芭蕉の「不易流行」は、句作には「変わらないもの」も「はやりもの」もどちらも大事だ、という意味の言葉だが、小林にかかるとこの「不易」という言葉に、「詩的言語」は必ず幼時の記憶から生まれていると言う彼の確信を織り込まれて語られる。
だから「伝統的」という意味合いの不易という言葉に「個人の記憶」という意味合いがまとわりつくのだ。

逆に岡先生は、対談で取り上げられる様々なテーマの主題をことごとく「情緒」という言葉ひとつに集約させていく。

小林は、だから岡にとっての「情緒」という言葉にどんな「個人の記憶」がからみついているのかを暴こうと、「色彩」がゴッホの絵を変容させていったという話になれば、ゴッホがどれほど色彩を芸術的にではなく心理学的に捉えていたかというエピソードを持ち出し、トルストイの小説の「稚気」に話が及べば、ドストエフスキーの俗な邪心に触れ、都度都度激しく「知」と「知」が激突し、小心な僕は思わず目を背けることさえあった。

しかし、この知の奔流に圧倒されてはいけない。

この対談で彼らが一貫して言っていることは、結局のところ「知には情を説得する力はない」ということだからだ。

近年の原発事故後のエネルギー政策の議論が空転している主な要因が、低線量被爆での発癌率は受動喫煙のそれと同じかやや低い程度と知っても、「怖さ」が薄れるわけではない、というあたりにあるところを見ても、まさに「知には情を説得する力はない」のである。


この本は1965年の対談だが、いまだ我々はこの問題を解決できていないようだ。
であれば、さらに巨人たちの言葉を続けて聞こう。
彼らはさらにこう言い募る。

万人の感情を満足させるほどの力は「確信」したものからしか生まれないと。また、確信するまでは事物は複雑で言葉にならないと。だから、確信していない人を確信するように説得することは端から出来はしないし、余計な理屈が並ぶだけで意味がないと。

結局のところ我々が社会の中で交わしている言葉の多くが、「この体系の中には矛盾はない」ことだけを証明しようとやっきになっていて、個人が実物の中に感じる「直感」のようなものを感じる力が失われているのではないか、と彼らは訝っているのだ。

そして自然、彼らは理屈と対症療法に塗りこめられた教育の問題に切り込んでいく。
そして意味がわからなくとも古典を丸覚えしたご自身たちの経験が長い思索の人生の中でどれほど大きな効用をもたらしたかについて語っている。

まさに「人間の建設」としての教育を憂う、本書は箴言のカタマリだ。

20年弱、間接的にではあるが教育という事業に関わった一人としてまことに胸が痛い本だった。

2013年7月7日日曜日

我「容疑者Xの献身」を楽しむ者に如かず

1999年のクリスマス。
僕はドイツ行きの飛行機に乗っていた。
妻がゴスラーという小さな町にある菓子店でやっていた修行が空けるので、迎えに行くためだった。

その年大ヒットした東野圭吾の「白夜行」が道連れだった。
隣にはドイツ人の女性が座っていて、話しかけたそうにしている。

僕は大学時代、必修のドイツ語を何度も落とし、再履修を重ねてやっと卒業したのでドイツ人に話しかけられるのが怖かった。
だから食事の時間を除いて11時間ずっと「白夜行」に鼻を突っ込んで過ごした。

無理をする必要はなかった。
その小説はとても面白くて、読む手を止めることはできなかったからだ。
最後に押し寄せたカタルシスはあまりにも大きく、本を閉じて思わず、ずっとこちらの様子を伺っていた隣席のドイツ人に微笑みかけてしまった。

彼女は「You finished ?」と英語で言って笑った。
Yes,Very interesting.と応えたものの、少し違和感は残った。
これってミステリだったか?


それ以降の数冊も、探偵(役)が、提示された根拠から論理的な推論で犯罪の全容を解き明かす本格推理小説の本道を外れ、ヒューマン・ドラマ寄りの作風になっていったように感じられて、寂しいな、と思っていた。

その東野圭吾が、容疑者Xの献身という作品で、2005年度の直木賞を獲り、同時に本格ミステリ大賞や本格ミステリベスト10の第一位を獲ったと聞いて、おお本格の世界に戻ってきたんだね、よかった、と思っていた。

しかし、推理小説文壇では、作家二階堂黎人氏の、これは本格ではないという発言に端を発する「容疑者Xの献身、本格論争」なる騒動が起きていた。
くわしくはこちらをご覧いただきたい。

ここでは、この問題に関する私見は述べない。

今年2013年に公開されたガリレオシリーズの映画第二弾「真夏の方程式」に合わせて、「容疑者Xの献身」がテレビ放送されるというので、二階堂黎人氏が、議論の発端とした、

----------------------------------------------------------------
この本の真相(湯川の想像)には、読者に対する手がかりも証拠も充分でなく、読者はそれをけっして推理できない。よって、作者が真相であるとするものが最後に開示されるまで、読者は真相に到達し得ない。つまり、そういう結末の得られ方(作者からの与え方)は《捜査型の小説》であるから、《推理型の小説》ではない(=本格推理小説ではない)、ということなのである。
-----------------------------------------------------------------

に注意して、それが映像でもそうなっているのか、という視点で全編見なおしてみようと思ったのだ。
叙述のみに頼る小説よりも、映像が提示されてしまう映画では、手がかりを「隠す」こと自体が難しいからだ。

実際、あらためてそのような目で観てみると、むしろ映像を効果的に使って、真相を想起させる効果をあげているシーンがいくつか挿入されている。
しかしそれが「伏線」だったか、と言われると、それを探偵(役)が使って推理した形跡はなく、今問題になっている視点では大きな構造に変化はないのだ。

「読者が真相に達し得ない」ことが本格と呼ばれるジャンルの瑕疵になるのだとしたら、その瑕疵は確かに存在するようだ。
しかし、それでも映画を観た人間はガリレオの仮説構成能力には舌を巻くのではないか。
そして天才VS天才の、息詰まる頭脳戦を、つまり論理的な帰結をはるかに超えていく人間の心の複雑さにこそ、この物語の真髄があるのではないか。

書評投稿サイトでは、ミステリに対してよく「途中で、犯人わかっちゃった」というコメントを見かける。
自分の推理力を自慢したいのだろうね。

犯人がわかればいいのなら探偵や、警官になればいい。
容疑者Xもコロンボの諸作も犯人自体は最初にわかっている。
読書家は真相の露呈を避けようとする犯人とそれを暴く探偵の頭脳戦の品質を楽しむものだ。

その意味でこの「容疑者X」はガリレオという探偵役の造形を含め、充分なエンタテインメント性を持つ作品になっていると思う。

2013年7月5日金曜日

コニー・ウィリス「ブラックアウト/オールクリア」は覗き見を許さない

コニー・ウィリスのオックスフォード大学史学科シリーズの第三弾は、「ブラックアウト」と「オールクリア」の二巻構成で、ポケット版ハヤカワSFシリーズに収録された翻訳は、少し長いオールクリアが一冊におさまらず、ブラックアウトとオールクリア1・2の三巻構成になっている。


400字換算で3500枚で、ほとんどミレニアム三部作と同じくらいある。
著者は執筆に8年の歳月をかけ、翻訳も2年がかり。

そこまでして描きたかったものとは何だったのか。


2060年、オックスフォード大学の史学生三人は、第二次大戦下のイギリスでの現地調査に送りだされる。

アメリカ人記者に扮してドーヴァーをめざしたマイク。
ロンドンのデパートの売り子となったポリー。
そして郊外にある領主館でメイドをしていたアイリーンことメロピーの三人は、それぞれが未来に帰還するための降下点が使えなくなり、過去に足止めされてしまう。

同時代にタイムトラベルしていることがわかっていた三人は、お互いを探して降下点を借りて帰還しようとするが、もうほんとうになんでこんな時に限ってって感じで、無茶苦茶な不都合が全員に襲いかかり、行き違い、すれ違い、それでも結局偶然が重なってロンドンで再会、集結することになる。

もうこのあたりの事態の進まなさってのはコニー・ウィリスの真骨頂。
で、三人は力と知恵を合わせてなんとか帰還をしようとするが、なにぶん時は第二次大戦下で、うまくいかない。

命の危険に晒されながらも、その時代の人たちと心通わせながらなんとか生き延びていく。未来からの救援を心待ちにしながら。


ウィリスが8年もかけて構築したパズルのような大絵巻は、一章ごとに読み手を混乱させ、ページを進めるたびに事態は進まず、謎だけが増えていく。

そして本当にもうすぐ終わっちゃうけど、これどうなるのと思いはじめたあたりから、ピタピタピタとパズルのピースが嵌っていく。

ドゥームズデイ・ブックでも犬は勘定に入れませんもそうだった。

ああ、クロージングがはじまったんだ!と思ったらもうページを止めることは出来ない。
今まで愚図愚図してた主人公たちは重大な決断をビシビシ決めちゃうし、周りの人たちも、あんなに大事な情報を出し渋ってたのに、決め台詞バシバシ放り込んでくるし、でもうたまりまへん。

この瞬間のためにこの長い物語読んできたんだよなあ、という感じ。
結局やっぱりウィリスは最高だ、という結論で本を閉じた。


この長い物語は、9.11を契機に書かれたと聞いた。

人類の歴史に絶え間なく起こる諍い。
領土の拡大のため、宗教的信念のため、はたまた奥さんを寝取られたから、とか軍需産業保護のため、とか・・
とにかくいろんな理由で戦争は起こる。

どんな理由で起ころうと、戦争は人を傷つける。
人間は知恵の力で身体能力を拡張し続けるよう運命づけられたイキモノだ。
戦争はどんどん非人間的になり、尊厳なき死をふりまく。

そして理不尽なやり方で命を奪われるその直前まで、人は社会の中で欠くべからざる役割を演じながら生きる。
そして死を迎え、大きな喪失の傷跡を残す。

それでも人は生きていく。
その力強さが、ブラックアウト/オールクリアの世界を生きる人たちのひとりひとりを輝かせている。誰も失いたくない、と思わせる。
そしてその願いも虚しく失われてしまうことが、とても哀しい。
でもそう思うことこそが生きているということじゃないか。


だからウィリスは、史学生(ヒストリアン)が、時空を遡ってその一時点だけを知ろうとすることを許さなかった。
観察することだけでなく、時代の中に溶けこむことを要求し、あまつさえ今回は長期間閉じ込めさえした。

ウィリスはタイムトラベルを主題とした、しかも生半可な覚悟では開けないほど長大な物語を書くことで、我々が文学を覗き見のような態度で扱うことに警告を発しているのではないか。
9.11の悲劇を宗教上の対立のような卑小な記憶に風化させないために。

例えばヘミングウェイの「日はまた昇る」を読むときに、第一次大戦で豊かになったアメリカという国の大金持ちたちが、それでも、いやそれだからこそ文化的にはヨーロッパに一歩も二歩も遅れている田舎者たちである自分たちを恥じてヨーロッパに大挙して移住し、結果根無し草の生活を送り、目的を見失い堕ちていくという「ロスト・ジェネレーション」という背景を知らなければ、「金持ちってカネだけあっても空しいよね」くらいの感想にしかならないのではないか。

今何度目かの映画化で話題を集める「華麗なるギャツビー」だって、ロスト・ジェネレーションの文脈で読まなければ、セレブの退廃、別世界のメロドラマを覗き見る楽しみ、としか読めないのではないか。

映画も、絵画も、写真も、そして文学も、「切り取られた」フレームの中にある表現だ。
そして僕らはその「切り取られ方」こそに作者の意図があることを意識すべきだ、と思う。

2013年7月4日木曜日

「二流小説家 シリアリスト」不変なる母性と向き合う魂の物語

幼稚園から高校までを釧路で過ごした。
めったに映画の舞台になるような街ではない。
だから、エラリイ・クイーンの「災厄の街」を翻案して釧路で撮影された「配達されない三通の手紙」を僕は、すこし贔屓目に見ているかもしれない。
だが、外国の小説を日本を舞台に置き換えることで、なにかこう他人事でないリアリティを感じて大好きな映画だ。


だからデイヴィッド・ゴードン原作の「二流小説家」を日本に舞台を置き換えて、上川隆也と武田真治で映画化すると聞いた時からとても楽しみにしていた。



実際に観てみると、もうこれは翻案とかいうことは関係なく、非常に素晴らしい映画に仕上がっていて、原作に大きく心動かされたものとしてとても嬉しかった。


舞台を日本に持ってきたことが、この物語を母性の物語にした。

むろん主人公に文学への情熱を与えたのが母であった。
そして最初の著作は母の名前で発表されさえした。
その母は亡くなってさえ、常に彼の文学の批判者として機能しつづけた。

殺人者の人格を形成したのも、美しい母であった。
殺人者がインタヴュアーに語った最初の言葉は「君の母は美しいか」だった。

娘を殺害されて慟哭する母は、まったく理解できなくなったひきこもりの娘に対しても自身の母性から逃れることは出来なかった。


世界の近代化に連動して、王権は政府と官僚機構が担うようになり、家業は企業となり大きな組織になった。経済は国家さえも超えて地球全体を組織化した。
その中で垂直的な統合のシンボルだった父性は、本来の意味を失った。
だから、社会を問題にフィクションを描く時、社会の変化は父性の変容や喪失に仮託して語ることが出来る。
だが、母性は人間の存在そのものに纏わりついていて、不変だ。
だから「二流小説家」の人々は終始「母」の存在に影響を受けつづける。
そしてその逃れられないものと様々な方法で向き合うのだ。


原作との違いで注目すべきところは、他にもある。
物語の容れ物が小説から映画に変わっている、ということだ。

原作では舞台そのものが小説であるわけで、だから、作家的心境こそが終着点になっている。

----------------------------------------------
「推理小説を書くにあたっていちばん厄介なのは、虚構の世界が現実ほどの謎には満ちてはいないという点にある。人生は文学がさしだした形式を打ち破る。」

「真の不安と危機感とは、先の見えない“いま”をいきていることからこそ生じるものなのだ。“いま”という時は、一瞬一瞬に類がなく、二度と繰りかえされることがない。ぼくらにわかっているのはただひとつ、それがいつかは終るということだけだ。」
----------------------------------------------

原作ではこのように書かれ、人生と文学を重ねあわせながら、二流小説家と天才芸術家の相克を、それでも人はいつか死ぬという制約に着地させて語り切る。
終わりのある「虚構」によって、明日も続いていく日々を組み上げる作家という仕事の苦難と覚悟。
それが原題の「Serialist」(連載作家)の真意であり、だからこそ対比された天才芸術家の人生を終わらせるのは死刑でなければならなかった。


映画というメディアでは、このような文学的手法に頼ることはできない。
が、そのぶん人間と人間がぶつかりあっている様子を直接映像で見せることができる。

我々の脳の中には「ミラーニューロン」という特殊な神経組織があり、目に見えている同族がうまそうなものを食べていれば、「うまい」と感じたときに発火するニューロンが、食べてもいないのに発火し、殴られているところを見れば、「痛い」ときの気持ち(痛覚の再現ではなく)のニューロンが発火するようになっているそうだ。

このモノマネ細胞と呼ばれる神経組織の働きで、我々は視覚から他者の痛みをまるで自分のことのように知ることができるのである。

だから、文字によって高度に抽象化された観念を通じて文学から得られる何かが、あくまでも自分の中にある何かであるのに対して、視覚情報を付与された映画から得られるものは、俳優の想像力というフィルタを通したものになる。


だから、狭い取調室で徐々に激しさを増す、名優上川隆也と武田真治の取調室での息詰まる対決から、我々は抑えきれないほどの心の動揺を感じるのだ。

上川隆也は声のいい俳優だ。
二流小説家として社会に遇し続けられてきた抑圧から、天才芸術家によって呼び覚まされていく「書きたい」という情熱が彼に出させたあの叫びは、凡人として日常を送る我々には出せない声なのであって、上川隆也の舞台で鍛えられた声が我々の脳の奥深くを発火させてくれる。

サイコキラーを演じさせてこの人の右に出るものはない武田真治の、即興的で美しい「狂気」の解釈だって、我々が日常の中で獲得することができないもので、これを直接脳を発火させて二人の対決を見るからこそ、その対決が結局あがいても超えられない壁を必死で壊そうとする自分の過去との戦いであることを身にしみて知るのだ。


原作は小説家を題材にした小説だった。
だから必然的に人間と文学の関係を描いている。

それを原案として映画を作ったからこそ、僕らは映画というものが、監督の、そしてそれ以上に、演じている俳優の一挙一投足から感じ取る脳の発火によって、抽象化されない生身の懊悩を心に刻み込む芸術なのだと知ることができる。
この作品は、映画という芸術の特性をあらためて浮き彫りにしてくれた。

2013年7月2日火曜日

「銀河ヒッチハイクガイド」には確かに究極のこたえが書かれている

新橋の小さな居酒屋で、気心の知れた会社の仲間たちと時間を忘れて飲んでいると、つい自分のことを喋りすぎるものだ。
その日も、自分がいかにSF小説を愛しているか語っていたのだと思う。
いつもは本の話などしない後輩が寄ってきて「宇宙の果てのレストラン」って知ってますか、と話しかけてきた。

ハヤカワと創元がSFなんだと思っていた僕は、新潮社から出ていたその傑作を知らなかった。

翌日後輩は、ボロボロになるまで読み込まれた新潮文庫の「宇宙の果てのレストラン」を持ってきてくれた。
ユーモラスではあるが、ナンセンスはない。
カート・ヴォネガットのタイタンの妖女によく似ているが、知性も、それが皮肉であることも隠さない書きぶりが異彩を放つ。
設定がわかりにくいところがあったが、あとがきによれば、これは「銀河ヒッチハイクガイド」という小説の続編だという。

たちまち夢中になって、自分でも購入しようと思ったが「ガイド」も「レストラン」も絶版で入手困難とのことだった。
僕は催促されないのをいいことにその本をずっと自分の本棚に秘匿していた。

だから2005年に河出書房新社から今まで刊行されていなかった続編を含めての復刻&シリーズ全巻の刊行が発表された時は、ああこれでやっと返せる、と胸をなでおろしたのだった(いや、普通に返せよ)。


一年かけて復刻刊行された全五巻を、終始ニヤニヤしたり時々吹いたりしながら、とにかく笑いとともに読んだ。
この本に教訓を求めてはいけない。
ここにあるのは、よくぞオレの気持ちをわかってくれて、そんでもってこんなに上手に当てこすってくれてありがとう!という共感なのである。


物語の冒頭、地球人アーサー・デントは、バイパス建設予定地の上に建っている自分の家をブルドーザーに壊されそうになって抗議すると、ちゃんと掲示してあるんだから抗議するんなら事前にやってもらわないと、と言われ役所に見に行ってみると、照明の切れた地下の掲示場の使用中止と書かれたトイレの奥に廃棄されたキャビネットの引き出しの奥に貼り付けられた掲示を発見する。(なんでオレが書くとこんなに面白くないんだ?)

そしてまさに同じ時、大宇宙でも銀河ハイウェイの工事を行なっていて、邪魔な場所にある地球の破壊予告が50年も前からアルファ・ケンタウリの出張所に掲示されていたが、誰の抗議もなかったため、地球そのものが一瞬にして破壊されてしまう。

さすがにここまではひどくないが、こういうことってあるじゃないか。
ともかくこんなふうに物語は始まる。

ところでアーサー・デントだが、たまたまヒッチハイクで宇宙を旅していた男が地球にもぐりこんでアーサーの友達になっていたため、地球の破壊を察知してギリギリで助けてくれる。
かくして地球最後の生き残りとなったアーサーだが、地球破壊の仇討ちをするでもなく、地球復興を誓うでもなく、ヒッチハイクの旅を始める。

そして紆余曲折の果て、生命と宇宙と万物の謎の一端に触れるも、気付かず、といったような話だ。


その旅の道連れの一人?が、パラノイアに罹患した根暗ロボットのアーヴィン。
しかし大きな災厄に見舞われて仲間とはぐれてしまう。
彼はたどり着いた惑星で、何かにつけてああしろこうしろ、これは禁止だ、という立て看板だらけの山を見つける。

さすがにそこまではないが、そういうことってあるじゃないか。
「スピード出すな」だの「ここにゴミを捨てるな」だの、挙げ句の果てに「トイレを綺麗に使ってくださってありがとうございます」だと。

必要な掲示は故意に隠され、言わなくてもわかっていなくてはならないことは、五月蝿いくらいに書いてある。それが世の中だ。

銀河ヒッチハイクガイドシリーズは、このようなエピソードを積み重ねて、おおげさに言えば「生命と宇宙と万物の謎」を暴こうとする試みである。
作中でも、超知性を備えた汎次元生命体がこの宇宙の時空で二番目にすぐれたコンピュータ、ディープ・ソートを設計して、『生命、宇宙、そして万物についての究極の疑問の答え』を計算させるというエピソードが出てくる。

ディープ・ソートは750万年かかって答えを計算し、この偉大なる日のために集まった人々の代表に、答えは「42」だ、と告げる。

皆は当然ディープ・ソートの答えに納得がいかないが、ディープ・ソートに、42が何を意味するかを問う「究極の問い」が分からないから答えの意味が分からないのだと言われてしまう。
そしてその究極の問いを計算する、この宇宙の時空で最もすぐれたコンピュータを設計してくれるのだが、生命体(人間のことです。はい)を取り込んだそのコンピュータこそが、地球。
あまりに大きいのでよく惑星と間違えられるのだそうだ。

しかし、答えが出る前に、銀河ハイウェイ工事で取り壊されてしまった地球。
で、実はこのハイウェイ工事もでっちあげで、生命の意味が知れ渡ることで自分達の仕事がなくなることを恐れた精神科医と哲学者の組合が、地球を壊すためにヴォゴン人を雇ったのが真相だったとは!
というわけで最後の生き残りであり、謎の答えを脳に刻んでいるアーサー・デントは銀河中から追われる身となってしまう、というお話。

どうです、面白そうでしょう。
おいおいネタバレじゃないかって?
これは確かにこの物語の核心ですが、読みどころが核心部分にないっていうのが、この小説の稀有な価値なのですよ。
むしろこういう大きな構造をわかって読んだほうが、大切な細部の笑いどころに集中できるってもんです。


ちなみにGoogleで、電卓を表示させて、the answer to life the universe and everythingをコピペして計算させてみて欲しい。
いかにこの作品が欧米圏で愛されているかがわかるから。