円城塔の早川文庫収録作「Self-Reference ENGINE」を手にとってみたが、まるでプログラミング言語を読んでいるような味気なさに驚いて、「新しい世代の文学なんだな」という思いと、日本語で書いてあるのに「わからない」文学が生まれてきたのかという寂しさのような感情がせめぎあった。
結局、その本は読まなかった(読めなかった)。
円城 塔
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その円城と盟友として紹介されることの多い伊藤計劃の「ハーモニー」という作品が出てきた時、直後作者が若くして亡くなったというニュースにも動かされて、これまた手にとってみた。
今度は、比喩ではなくプログラム言語そのもので書かれていた。
冒頭部分を引用する。
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01
いまから語るのは、
<declaration:calculation>
<pls:敗残者の物語>
<pls:脱走者の物語>
<eql:つまりわたし>
</declaration>
引用終わり---------------
このような表記法が、「地の文」として多用されるのだ。
技法としての意図を汲み取ろうという努力を拒絶されたような気分になって、棚に本を戻した。
しばらくして、前作「虐殺器官」も、「ハーモニー」も文庫化され、円城塔の芥川賞受賞があり、「伊藤計劃・円城塔以降」と呼ぶべき新しい文学の波紋が、飛浩隆や東浩紀、宮内悠介のような若い書き手はもちろん、まどマギや進撃の巨人など広範囲に影響しているのを見て、興味を抑えきれず、重い腰をあげて、まずは「虐殺器官」の文庫を手にした。
これが凄かった。
詩情あふれる美しい文体で綴られる「残酷」そのもの。
あのプログラム言語的なギミックは見当たらない。
僕はこの世界を共通して覆う問題のほとんどは、政治や企業や家庭、個人といったあらゆる階層で対症療法的に繰り返される打ち手が、副層的に影響しあってどうしようもない合成の誤謬に陥っていることが要因なのだと思っている。
「虐殺器官」は、9.11以降の「テロとの戦い」(という語がすでにして対症療法的なのだ)が先鋭化して、行き着くところまで行った時、人間の尊厳そのものを武器とするほかなく、それゆえに「殺す」ことは「愛」と無関係になり、その必然的な帰結として殺戮は無差別となり、対象は文明そのものとなった未来を描いている。
そこは人間が理性の力で紡いできた思想の城が無力化された世界だ。
暗黙の了解として持ち出すことのなかった、「絶望」そのものを刃とした殺戮の物語は、必然的にそれまでの文学とは一線を画される。
だからなのだろうか。
僕はこの異形の物語に大変感心して、周囲の誰彼にこの小説の素晴らしさを興奮して語ったから、少なくない友人がこの本を読んでくれた。
でも、この物語に同じような感銘を受けてくれた人は少なかったし、むしろ読み通せなかった人の方が多かったように聞く。
無理もないと思う。
この作品は、そもそも小松左京賞にノミネートされながらも最終選考で、小松左京御大ご自身から、「虐殺の武器」が本当は何だったのかが明示されていないことや、虐殺者の動機がよくわからない、との評をもらい、落選している。
(円城塔の「Self-Reference ENGINE」もこのとき同時に落選している)
SF界の巨匠ですら理解しがたいテーマだったのかもしれない。
でも僕には、その武器はこれ以上ないほど、人類の未来の武器の究極の姿を的確に表現しているように思われたし、そも個人の動機でない、というところにこの物語の絶望の源泉があるわけだから、なんと的はずれな落選評かと思われたのだ。
そういうわけで、僕はもちろん一度ページを捲り続けることをあきらめた二作目の「ハーモニー」に再度挑戦することになったが、これはあまり熱心には人に勧めなかった。
原著のカバー裏に記された、あまりにも美しい「あらすじ」を読んだあとでは、自分で筋をご紹介する気になれないので、そのまま引用させていただく。
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「一緒に死のう、この世界に抵抗するために」―御冷ミァハは言い、みっつの白い錠剤を差し出した。
21世紀後半、「大災禍」と呼ばれる世界的な混乱を経て、人類は医療経済を核にした福祉厚生社会を実現していた。
誰もが互いのことを気遣い、親密に“しなければならない”ユートピア。
体内を常時監視する医療分子により病気はほぼ消滅し、人々は健康を第一とする価値観による社会を形成したのだ。
そんな優しさと倫理が真綿で首を絞めるような世界に抵抗するため、 3人の少女は餓死することを選択した―。
それから13年後、医療社会に襲いかかった未曾有の危機に、かつて自殺を試みて死ねなかった少女、現在は世界保健機構の生命監察機関に所属する霧慧トァンは、あのときの自殺の試みで唯ひとり死んだはずの友人の影を見る。
これは“人類”の最終局面に立ち会ったふたりの女性の物語―。
『虐殺器官』の著者が描く、ユートピアの臨界点。
(改行は引用者による)
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伊藤計劃は、ここでも対症療法的な人間の生き方が、どこに我々を連れて行くのかを、考えうる限り最も非感情的に描こうとした。
伊藤はこの小節を難病治療のベッドの上で書いた。
自分の脳に、(比喩ではなく)ガンマナイフをあててもらいながら。
医療というものの行く末に何があるのか、彼の想像力が紡いだ未来がこれだった。
病気にならない=幸せであるために人間が引き替えにしなくてはならないものを考えていった時、彼がたどりついたのが「幸福とは、夢も希望も必要ない状態である」という結論だった。
切ないじゃないか。
僕らは本当にそんな選択をするだろうか。
という問いは伊藤計劃には無効なのだ。
彼には選択肢がなかった。
だからこの物語には、続きはない。
これ以上、書かれなければならない言葉はないだろう。
僕はそう思っていた。
神林長平が、「いま集合的無意識を、」を書くまでは。
神林 長平
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「いま集合的無意識を、」は、表題作を含む六編を収録した短編集。
その表題作にて、神林長平は、自分、つまり「ぼく」を語り手に、コンピュータネットワーク越しに語りかけてくる、亡くなったはずの伊藤計劃に真情を吐露する、というお話。
まさに「死せる計劃 、生ける長平を語らす」だ。
で、「ぼく」はなんと言ったのか。
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「きみが伊藤計劃だというのならば、ではきみに言おうじゃないか。大丈夫だ、われわれが、ぼくが、書いてやる。少なくともぼくには、たとえば今回の震災で心理的打撃を受けたりしている若い作家たちに向けて、現実=リアルに屈するな、フィクション=虚構の力を信じろ、きみたちがやっていることはヒトが生きていく上でパン(とワイン)と同じように必要不可欠なものだと、叱咤激励する力はまだある。ヒトは、フィクションなしでは生きていけないんだ」
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実体としての伊藤計劃と、その作品があまりにも強く結びついてしまって、いわば伊藤計劃の亡霊に足を取られているんじゃないのか、フィクションの力を信じろ、と言っているのだ。
では、読者としての僕も信じてみようじゃないか。
ヒトは、フィクションなしでは生きていけないと、僕も思うから。
付記
伊藤計劃の絶筆を円城塔が引き継いで書いている、という話は聞いていた。
出版された時は、もちろんためらいなく購入して読んでみた。
残念ながら、伊藤計劃作品の奥底に流れている、人類への冷ややかな視線を流麗な文体で覆い隠したあの独特の手触りは、ここにはない。
「夭逝した鬼才の遺志を、芥川賞作家が継いで完成させた」という期待感で読まれるはずの多くの方に、そういう気持ちで読まないでくださいと懇願してまわりたい気分だ。
もっとなんというか軽い、よく出来た歴史改変もののエンタテインメント小説だと思う。
そう思って読めば、ウィリアム・ギブソンとブルース・スターリングの「ディファレンス・エンジン」を嚆矢とするスチーム・パンクの「蒸気機関」を「ゾンビ」に置き換えたもので、設定のユニークさは特筆に値するし、円城のデビュー作「Self-Reference ENGINE」からの連続性も見て取れる。
円城塔の最新作、という置き方で読むのが吉、とみた。
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