2013年5月3日金曜日

村上春樹「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」Review Part-1

村上春樹「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」読了。


色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年
村上 春樹
文藝春秋 (2013-04-12)
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いつもと違う手触りに戸惑いながら読んだ。

やはり前作1Q84は作者村上春樹の大きな転換点であったのだと思う。

「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」で、せっかく出会った運命の恋人を無情にもすれ違わせ、「国境の南、太陽の西」でも、世界でたった二人理解し合えたと感じた少年と少女を引き裂く。
「ノルウェイの森」では、ワタナベは直子と結ばれないだけでなく、直子の服を着て現れる玲子と肌を触れ合わす。

村上春樹が持つ運命的なものへの冷徹な眼差しは、ある意味で世界の理に忠実だ。
原因と結果は、結果が表出してはじめて、ある事象を原因として再定義する。
因果関係というものは時系列的な順序と意味的な発生順序が常に逆転している。
だからあらかじめ決められた物事などは存在しない。そこには常に「現在」があるだけなのだ。
だから恋が運命的であることもなく、ましてや人の心の中だけで動く不可解なその感情は、だいたいいつも思うようにはならない。
村上は、運命の恋人たちをそのように処してきた。

しかし1Q84では一転して青豆と天吾を一直線に運命の恋の成就へと導く。しかも、Book2の終わりで充分成就した恋を、さらにBook3まで費やして完全なものとして描いた。
つまりそうならざるを得ない、強い運命へのコミットの物語を作者は紡ぎだしたということになる。


そして、今作でも村上小説は「運命」に関するコミットメントをもう一歩前に進めている。それが「名前」だ。

多くの村上作品で男性主人公に付けられている「ワタナベノボル」という名前は、親友の画家安西水丸氏の本名である。と言っても小説中の人物が安西氏を暗示しているわけではもちろんなく、要するに「昔から決まっている苗字とか生まれる前から決まっている名前なんかに物語上の意味があったら変でしょ」ということだ。
だからそんなどうでもいい「名前」なんてものを作品ごとに考えたりしないよ、ということなのだろう。
逆に後からつけた名前には意味があるのだが。
田村カフカしかり、加納クレタ・マルタしかり。

しかし今回は、苗字に色を含む人物を配し、その対比としての「色彩を持たない多崎つくる」という人物描写を成している。
そしてそれはつくる本人による錯誤なのであり、その錯誤がこの物語の中核をなす悲劇の遠因として描かれている。
だからこそ、「記憶を隠すことはできても、歴史を変えることはできない」という言葉が物語の大きな推進力として機能する。
そう。「記憶」という思い込み(=錯誤)が心に形成する「運命」(=しかたないもの)を、厳然と存在し続ける歴史という事実に向き合うことによって打破していくという、これは人が強く生きていくための態度の提示なのだと思う。

多くの村上作品では、主人公は何気ない日常から異常な非日常に巻き込まれていくが、今作は最初から激しい喪失の只中にいる主人公が、その喪失の本質に辿り着いていく旅を描いている。力強いのである。
だからその旅は「巡礼」でなくてはならず、通奏される音もリストの「巡礼の年」でなければならない。
今までの作品世界を彩ってきた音楽はそれぞれに印象的なものだが、選曲に必然性はなかった。そのような曖昧な趣味性が村上作品に独特な味わいや面倒くささを与えていた。
必然性によって構築された本作の骨組みには、今までにないリジッドな感じがある。少しよそよそしさを感じさせるくらいに。
そのようにして村上は、今まで慎重に取り扱ってきた「因果」というものにぐっと強くコミットし始めているのではないだろうか。


さらに見逃せないのが、全共闘世代を「父の世代」として描いていることだ。
言うまでもなく、村上春樹本人が大学時代に学園紛争での大学封鎖を経験している。
つまりこの物語は、彼にとって「息子たちの物語」ということになるのであり、「父性」そのものがもうひとつの大きなテーマではないかと感じる。
次回、父性をテーマにまとめてみたい。

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