2013年5月16日木曜日

「エネミー・オブ・アメリカ」が本当に予見していたものは

しかし、今年のファイターズは本当に勝てない・・と昨夜地上波で放送された試合を観て、そのまま放心していたら、エネミー・オブ・アメリカという映画が始まったので流れで観た。
以前にもテレビで観たことがあったが、(いつものように)すっかり筋は忘れていた。

こんなことを書くとファンの不興を買うだろうが、僕はウィル・スミスという俳優があまり好きではない。
しかし、それをまるっきり帳消しにしてお釣りがくるジーン・ハックマンのかっこ良さよ!

高度に発達した情報機器がもたらす管理社会ならぬ、「監視社会」の到来に警鐘をならす一作と見たが、その意味でジョージ・オーウェルの1984年の正統的後継作品といえる。

となると、村上春樹が1Q84で喝破したように、近未来を描くことの「つまらなさ」も同様に継承していることになる。
1949年に出版された「1984年」は、その時点では憂うべき近未来であり、「自由」の本質的な両義性を問う問題作であったはずだ。しかし、小説内で提示された問題意識の本質性からこの作品は傑作として読み継がれていくうち、時は流れ否応なく実際の1984年はやってくる。
オーウェルが予想したような社会は、いくつかの革命の大きな挫折を経て、結果、到来しなかった。
そのことは作品価値をいささかも損なわないが、その価値を拾い切れない読者の「予想は外れたね」という的はずれな評価を得る。この「つまらなさ」が村上が1984年を近未来小説ではなく、過去改変小説として描くべきだったと考え、そして実践した理由だ。

エネミー・オブ・アメリカのシナリオも、二つの証拠ヴィデオを巧みに配置したプロットで充分楽しめるサスペンスを構成していたが、やはり冒頭二人の政治家の対立として描かれる二つの政治的思想のぶつかり合いのところに本題がある。

「個人の自由が保障される社会」と「安全を保障するために情報を必要とする政府」の二律背反。
公務員が「サーヴァント」のままでは生活者の安全が守れない時代のディレンマ。

この映画に描かれているものは、ジャン・ジャック・ルソーが社会契約論の中で描いた「自由」と「自由」の間に横たわる「公共」という名の妥協点を設定し、契約によってそれを守るという社会ヴィジョンが、人間が作り出していくテクノロジーによって歪んでいく様子なのだ。

日本国憲法ではこの点を、第13条において「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」と明示して、特に「公共の福祉」という意識的な言葉で補強している。

現在96条の改定について議論が喧しいが、この「公共の福祉」という意識的で民主主義の原点に忠実な文言を「公の秩序」という序列的で、垂直的な文言に変更しようとしているあたりが、今回の自民党憲法改正草案のもっともきな臭く、思想的な部分なのであり、このタイミングでこの映画を再放送して、この隠れた悪意に対してこっそり民意を先鋭化させようとしているのだとしたら、テレビ局の慧眼である。
おおいに拍手を送る。

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