2013年5月28日火曜日

「私がクマにキレた理由」とイノセンスの本当の意味

NHK BSプレミアムで「私がクマにキレた理由」を視聴。


私がクマにキレた理由 (特別編)〔初回生産限定〕 [DVD]
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン (2009-11-06)
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お話は、シングルマザーの母親に将来を期待され、苦しい生活をやりくりして大学を卒業させてもらった、スカーレット・ヨハンソン演じる主人公の女性アニーが、ゴールドマン・サックスの面接で、「あなた自身のことを自分の言葉で表現して」と問われて、答えられないところから始まる。
「私って、誰?」

この躓きひとつで、彼女は就活そのものを放棄しちゃったわけだから、相当なショックとして描かれているわけだ。
だからココは、コメディとして流さずに、慎重に吟味してみる必要があると思う。

人の親ならば誰だって、自分自身が気づかないうちに、自分の人生への後悔をその深い愛情の裏側に隠して、子どもを育てていく。
何かの願いを込めて付けられた名前。
進路を選び取る度に繰り返される自分の経験からのアドバイス。

しかしその愛情の真の意味は、子ども自身が親と同様の経験をした時にしか正しく認識されないものだ。
映画では、その気付きを引き出す道具立てとしてイーストアッパーサイドの奥様に雇われる「子守(ナニー)」という仕事を用意したわけだ。

そして映画は、アニーの「成長」を描き出す。


昔お世話になった哲学の先生に発達心理学で言う「イノセンス」という言葉を教わった。
子どもは、どんなに選択の自由がある環境下であったとしても、絶対に「親」だけは選ぶことができない。
言うまでもなく、選択には責任が伴う。
でも子どもであるうちは、選択と絶対的に無縁な「親」という存在を持っているから、うまくいかないことはすべて親のせいにすることができる。
「こんなふうに僕を産んだから」という魔法の一言で。
この状態を「イノセンス」と言っているのだそうだ。

そして、その呪縛から逃れ、すべてのことは自分の責任だと受け入れることが出来た時、人は大人とよばれるのだ。

アニーは、一連のMr.X一家との騒動を経て、母親が行かせてくれた大学の影響下にない進路を自分の手で選び取ろうとするようになる。
これがアニーの成長だ。

しっかりした成長物語という背骨があるからこそ、この映画はコメディとして存分に楽しめるのだと思うなあ。

2013年5月19日日曜日

「ミス・ポター」に描かれた軛の垂直分布

BS朝日で放送されていた、映画「ミス・ポター」を観た。
ポター、とはピーターラビットの作者ビアトリクス・ポターのことで、だからこれは伝記映画ということになる。


別段、ピーター・ラビットに関心があったわけではないが、先日読んだコニー・ウィリスの「犬は勘定に入れません」と同じヴィクトリア朝時代が舞台と知り、童話作家の側面からイギリスが迎えた大きな時代の変革期をどのように描かれるのか興味があった。

なんだかんだ言っても、世界が今こういうカタチになっている変化の大本はだいたいヨーロッパにあるのであって、動乱の因果が目に見える形になる以前に、ヨーロッパの各国でどのような下地が作られていたのか、知っていればいるほど理解が深まるだろうと思ったのだった。

果たしてこの映画は、まさにその期待に応えてくれるものであった。


多くの革命を経て、王権の軛(くびき)から逃れ、自由を手にしたはずの「市民」社会も大きな軛を外してみれば、その下に家族内での父権や結婚に関するあれこれ、女性の自立に対する偏見などが根深く残っていて、より人間そのものに近い位置にある偏見ほど頑なだ。
現代において、我々個人の自由が保証されていることが、このように長い時間をかけて、有名、無名の人たちが自分自身の人生に悩み、行動した結果なのだということにあらためて思いを馳せる。


それにしてもビアトリクス・ポターは幸いだった。
偏見に深く囚われた母親はいたが、芸術家を志したものの家柄から夢を断念した父親が、彼女の魂の叫びには感応する心を持っていたからだ。
上流社会では「愛」と「結婚」は別物で仕方がないのだ、という観念を、弟のような駆け落ちではなく、言葉の力で突き破ったビアトリクスと、それを受け入れることができた父親。
このような心の声に耳を傾ける姿勢の重要さは、社会に自由の意義が浸透した現在であってもまったく変わらない。
愛する娘にとっての良き父親でありたいと願う自分にとって、心の声は聞こえているのか、こんなふうに振る舞えるのか、まったく他人ごとではないぞ、などと考え、落ち着かない気分で、むしろそこにハラハラしながらこの映画を観た。

精進したいと思う。

2013年5月17日金曜日

ブレット・ザ・ウィザード完結!

こんな歳(2013年5月現在、47歳です)になっても漫画なんかを読んでいる。
最近気に入って読んでいたブレット・ザ・ウィザードが4巻で完結した。

様々な魔法が刻み込まれた魔法銃をタネとしかけが命のマジシャンが上手に使いこなして、カネや地位を求めて魔法銃を悪用しまくる権力者をやっつけていくという筋立てがいい。
そしてその魔法銃なる不思議アイテムの出処がなんと・・・というオチもまずまず。

しかし、本当にこの漫画が面白いのは、例えば一度使った薬莢をリサイズして、もう一度弾丸として再生する手順を詳細に描いたり、まだ「羽が生えてた」頃のアメ車の当時流行した改造なんかにこだわってみせたり、コルトやS&W、ワルサーなんかの様々なバージョンのメリット・デメリットなんかを語るところだと思う。
趣味性全開なのだ。
ホント、男っていつまでも子どもだよねえ。
でもそれが楽しいんだよねえ。わかる、わかるよっ!!とついつい、批判されてもいないし、頼まれてもいないのに擁護してしまう。


それに、細部をゆるがせにしない描写は、魔法銃なんていう科学的根拠を持たないアイテムを扱うからこそ、それをとりまくものにリアリズムを追求したのだろう。
魔法銃に魔法を追加して書き込むときに「エッチング」という技術を使うのだが、書いてる人、これ間違いなくやったことあるよね?と思うくらい精緻な表現で、エッチング教本(なんてものがあれば、だが)の挿し絵としても充分通用しそうだ。


それにしても4巻で完結というのは連載漫画としては短い。
でも好きで読んでいた自分から見ても、このサイズがちょうどいいお話だったと思う。
だから、人気があるからとずるずる連載を延ばしてみっともない作品になってしまうよりずっと良かったと思うのだが、作者にしてみればそうも言っていられないだろう。
事実作者のコメントを読んでも打ち切られた感たっぷりで、こんなエピソードも入れたかったと恨み節が漏れていた。

ちょうど姉妹誌で浦沢直樹のビリーバットが連載中だが、両者の話運びはなんとも対照的だ。
ブレット・ザ・ウィザードでは、伏線が「コマ」単位で張られるのだが、浦沢作品では、伏線は「エピソード」単位で張られる。
普通伏線はそうとわからないように張るものだが、浦沢作品では、これは伏線ですよとはっきりわかるように書いている。
だから結末がすごく気になるのだね。
まあ、あげくに回収されなかったりするものがあるもんだから、20世紀少年の時のように読者の不満が爆発することもあるし、多すぎる伏線は、そのまま物語のサイズが大きくなることを意味して、結果散漫な作品になることも珍しくない。


それでも掲載誌サイドとしては、これはありがたいだろう。
次を読みたいから必ず雑誌を買ってくれる。部数が出れば、広告掲載費も上がって収益性が高くなる。


しかし私のように雑誌は買わず、気の利いた漫画を単行本で読みたいと思うユーザーは、小さいけど宝石のように輝く作品のほうが嬉しいはずだ。
商業主義が万能な現代(いま)だけど、打ち切りの結果、ではなく意図してこのような完成度の高い作品を書く作家さんがいなくならないよう、その素質があると思われるブレット・ザ・ウィザードの作者園田健一氏の次作に期待しようと思う。


2013年5月16日木曜日

「エネミー・オブ・アメリカ」が本当に予見していたものは

しかし、今年のファイターズは本当に勝てない・・と昨夜地上波で放送された試合を観て、そのまま放心していたら、エネミー・オブ・アメリカという映画が始まったので流れで観た。
以前にもテレビで観たことがあったが、(いつものように)すっかり筋は忘れていた。

こんなことを書くとファンの不興を買うだろうが、僕はウィル・スミスという俳優があまり好きではない。
しかし、それをまるっきり帳消しにしてお釣りがくるジーン・ハックマンのかっこ良さよ!

高度に発達した情報機器がもたらす管理社会ならぬ、「監視社会」の到来に警鐘をならす一作と見たが、その意味でジョージ・オーウェルの1984年の正統的後継作品といえる。

となると、村上春樹が1Q84で喝破したように、近未来を描くことの「つまらなさ」も同様に継承していることになる。
1949年に出版された「1984年」は、その時点では憂うべき近未来であり、「自由」の本質的な両義性を問う問題作であったはずだ。しかし、小説内で提示された問題意識の本質性からこの作品は傑作として読み継がれていくうち、時は流れ否応なく実際の1984年はやってくる。
オーウェルが予想したような社会は、いくつかの革命の大きな挫折を経て、結果、到来しなかった。
そのことは作品価値をいささかも損なわないが、その価値を拾い切れない読者の「予想は外れたね」という的はずれな評価を得る。この「つまらなさ」が村上が1984年を近未来小説ではなく、過去改変小説として描くべきだったと考え、そして実践した理由だ。

エネミー・オブ・アメリカのシナリオも、二つの証拠ヴィデオを巧みに配置したプロットで充分楽しめるサスペンスを構成していたが、やはり冒頭二人の政治家の対立として描かれる二つの政治的思想のぶつかり合いのところに本題がある。

「個人の自由が保障される社会」と「安全を保障するために情報を必要とする政府」の二律背反。
公務員が「サーヴァント」のままでは生活者の安全が守れない時代のディレンマ。

この映画に描かれているものは、ジャン・ジャック・ルソーが社会契約論の中で描いた「自由」と「自由」の間に横たわる「公共」という名の妥協点を設定し、契約によってそれを守るという社会ヴィジョンが、人間が作り出していくテクノロジーによって歪んでいく様子なのだ。

日本国憲法ではこの点を、第13条において「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」と明示して、特に「公共の福祉」という意識的な言葉で補強している。

現在96条の改定について議論が喧しいが、この「公共の福祉」という意識的で民主主義の原点に忠実な文言を「公の秩序」という序列的で、垂直的な文言に変更しようとしているあたりが、今回の自民党憲法改正草案のもっともきな臭く、思想的な部分なのであり、このタイミングでこの映画を再放送して、この隠れた悪意に対してこっそり民意を先鋭化させようとしているのだとしたら、テレビ局の慧眼である。
おおいに拍手を送る。

2013年5月5日日曜日

村上春樹「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」Review Part-2

第一作の「風の歌を聴け」以来、村上春樹は、その文体を、基本的にアフォリズム(警句)を基礎に組み立ててきた。
だから時に揶揄されることもある「やれやれ」が多用されることになる。

しかし、「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」には、「やれやれ」という言葉の多用は見当たらない。

その代わりにちょっと突き放したような現在形での描写が多用される。
近年の村上作品の多くは三人称で書かれているが、アフォリズムの立場で書く以上、批判者の視点が必ず混じるため、基本的には登場人物たちと同じ地平に立って書かざるを得ず、それまでの一人称的な手触りを残したままだ。だからそれはヘミングウェイというよりはチャンドラーの書法になる。


日はまた昇る〔新訳版〕 (ハヤカワepi文庫)
アーネスト ヘミングウェイ
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ロング・グッドバイ (ハヤカワ・ミステリ文庫 チ 1-11)
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しかし、この作品では一人称的な手触りは実に希薄で、どこかよそよそしくて、時々どこまでも遠くまで見通せる望遠鏡で覗き見たような書きぶりが現れることがある。
それも単に突き放しているのではなく、ホールデン少年を描くときのサリンジャーのような、遠さ故のもどかしさのようなものを感じるのだ。

この書法は、アフターダークでも観察者の視点として用いられているが、内実はずいぶん違うと思う。これは「父の視点」だと思うからだ。

灰田父の青年時代、全共闘で活動して挫折したとの表記がある。これはぴたりとではないにせよ、村上春樹の早稲田大学時代の経験と重なる部分がある。主人公たちはその息子の世代として書かれており、いつもより遠目の第三者視点は、このあたりの立ち位置に由来しているのではないだろうか。

初期の村上作品には「世代」の存在が希薄だ。
それが「ねじまき鳥」あたりから、「歴史」という縦糸を積極的に物語の中に織り込んでいくことになる。
これは、村上が海外で執筆を始めて、西洋と日本の「個」に対する考え方があまりに違うことに戸惑い、そしてノモンハンまでやるのに、その後連続した戦後観を持ち続けられない日本人の感覚の不思議さを問題意識として持ったからだと、「村上春樹、河合隼雄に会いに行く(新潮社文庫,P56)」に詳しく書かれている。

その感覚は「カフカ」にも書き継がれるが、アフターダークで一度リセットされる。
そして1Q84において、父の存在を物語の一部として強く機能させることで、獏とした歴史という糸を、父子というはっきりした形を持った個人的な歴史の連なりにメタファーし直したのではないかと思う。
そうして問題意識の意味の再生を図っているように僕には思えるのだ。

そして今作でついに、「父の視点」(多崎の、とか灰田の、といった意味ではない)で書くというストレートな書法を持ち込んで、人にとっての縦糸を描こうとしたのではないだろうか。

通常「父性」といった場合、それは組織的な権勢を象徴し、理論的で垂直型の思考や統制を象徴する。
だからそれは、カタチがあり、言語オリエンテッドだ。
つまりそれは「引き継げるもの」なのであり、そこが水平型で包括的で愛情に彩られている「母性」との大きな違いだ。

本作で、その引き継がれるものは、緑川の言うワグナーの指環として、または多崎のホイヤーとして言及される。
さらに、その引き継ぐものは「いずれにせよ死を迎えるときに丸ごと理解するもの」なのであり、引き継ぐといっても「その種子を蒔くだけ」なのだ、と言っている。
しかしこれはあくまでも「父の世代」の話なのであり、この話を継承したはずの灰田はそうそうに物語から退場してしまう。

「父の世代」に属する作者村上春樹自身が経験した学生紛争は、強力なコミットメントが一瞬にして「熱くなる方がバカ」みたいなムード(=デタッチメント)に変化していったと自身が回顧している。
そのデタッチメントを是とするようになった当時の若者たちが成長して、今度は自身が父になった時、今までとは違った「父性」を獲得したはずだ。
それはどのようなものだったのか。

物語では、灰田の退場の後を受けて、理想的な父親であり夫であるエドヴァルト・ハアタイネン氏が登場する。エドヴァルトとは、ホイヤーのドイツ系スイス人創業者と同じ名前だが、Part-1でも書いたようにこの作品では「命名」は意識的だ。
自然、エドヴァルトの存在は、肺がんでの死の床で、もう何も話すことはできず、ただホイヤーの時計と大きな財産だけを残したつくるの父親と対比される。

裸一貫で起業し(ここには若きアントレプレナーとして批判されながらも成功を収めるアカとの対比構造がある)、経済的成功を収め、一日50本の煙草とともにその人生を驀進し、肺がんのために言葉を失い、時計を残して死んでいったつくるの父親。
緑豊かなフィンランドの別荘地で半日を陶芸家として、半日を家庭人として、時に自分の技術を大学で教えながらシンプルに生きていくハアタイネン氏の生き方とはもちろん対称的だが、どちらがよいという話ではない。

今我々が生きているこの国が、そうやって形作られてきたのだということが、意味合いとして継承されているだろうか、と問われている気がするのだ。
豊かになった我々は、父たちががむしゃらに頑張って働いてきた日々を、社会の変革に当事者として立ち会ってきた日々を、「なかったこと」にしてはいないだろうか。
不都合なことは「捏造」だと言い、すべてを為政者たちの「無能」のせいだったと押し付けてはいないだろうか。

つくるが友人グループからつきつけられた「絶交」は、彼に大きな喪失をもたらし、それは過去をめぐる旅によって浄化された。
再生ではない。再生はできない。
だからこれはやはり「巡礼」でなくてはならなかったのだ。

この国に住む僕らは、いったい何を「なかったこと」にしようとしているのか。
ぼくらの巡礼の旅は、どこを目指せばいいのか。
まずはそこから考え始めてみたいと思う。

<了>

2013年5月3日金曜日

村上春樹「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」Review Part-1

村上春樹「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」読了。


色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年
村上 春樹
文藝春秋 (2013-04-12)
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いつもと違う手触りに戸惑いながら読んだ。

やはり前作1Q84は作者村上春樹の大きな転換点であったのだと思う。

「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」で、せっかく出会った運命の恋人を無情にもすれ違わせ、「国境の南、太陽の西」でも、世界でたった二人理解し合えたと感じた少年と少女を引き裂く。
「ノルウェイの森」では、ワタナベは直子と結ばれないだけでなく、直子の服を着て現れる玲子と肌を触れ合わす。

村上春樹が持つ運命的なものへの冷徹な眼差しは、ある意味で世界の理に忠実だ。
原因と結果は、結果が表出してはじめて、ある事象を原因として再定義する。
因果関係というものは時系列的な順序と意味的な発生順序が常に逆転している。
だからあらかじめ決められた物事などは存在しない。そこには常に「現在」があるだけなのだ。
だから恋が運命的であることもなく、ましてや人の心の中だけで動く不可解なその感情は、だいたいいつも思うようにはならない。
村上は、運命の恋人たちをそのように処してきた。

しかし1Q84では一転して青豆と天吾を一直線に運命の恋の成就へと導く。しかも、Book2の終わりで充分成就した恋を、さらにBook3まで費やして完全なものとして描いた。
つまりそうならざるを得ない、強い運命へのコミットの物語を作者は紡ぎだしたということになる。


そして、今作でも村上小説は「運命」に関するコミットメントをもう一歩前に進めている。それが「名前」だ。

多くの村上作品で男性主人公に付けられている「ワタナベノボル」という名前は、親友の画家安西水丸氏の本名である。と言っても小説中の人物が安西氏を暗示しているわけではもちろんなく、要するに「昔から決まっている苗字とか生まれる前から決まっている名前なんかに物語上の意味があったら変でしょ」ということだ。
だからそんなどうでもいい「名前」なんてものを作品ごとに考えたりしないよ、ということなのだろう。
逆に後からつけた名前には意味があるのだが。
田村カフカしかり、加納クレタ・マルタしかり。

しかし今回は、苗字に色を含む人物を配し、その対比としての「色彩を持たない多崎つくる」という人物描写を成している。
そしてそれはつくる本人による錯誤なのであり、その錯誤がこの物語の中核をなす悲劇の遠因として描かれている。
だからこそ、「記憶を隠すことはできても、歴史を変えることはできない」という言葉が物語の大きな推進力として機能する。
そう。「記憶」という思い込み(=錯誤)が心に形成する「運命」(=しかたないもの)を、厳然と存在し続ける歴史という事実に向き合うことによって打破していくという、これは人が強く生きていくための態度の提示なのだと思う。

多くの村上作品では、主人公は何気ない日常から異常な非日常に巻き込まれていくが、今作は最初から激しい喪失の只中にいる主人公が、その喪失の本質に辿り着いていく旅を描いている。力強いのである。
だからその旅は「巡礼」でなくてはならず、通奏される音もリストの「巡礼の年」でなければならない。
今までの作品世界を彩ってきた音楽はそれぞれに印象的なものだが、選曲に必然性はなかった。そのような曖昧な趣味性が村上作品に独特な味わいや面倒くささを与えていた。
必然性によって構築された本作の骨組みには、今までにないリジッドな感じがある。少しよそよそしさを感じさせるくらいに。
そのようにして村上は、今まで慎重に取り扱ってきた「因果」というものにぐっと強くコミットし始めているのではないだろうか。


さらに見逃せないのが、全共闘世代を「父の世代」として描いていることだ。
言うまでもなく、村上春樹本人が大学時代に学園紛争での大学封鎖を経験している。
つまりこの物語は、彼にとって「息子たちの物語」ということになるのであり、「父性」そのものがもうひとつの大きなテーマではないかと感じる。
次回、父性をテーマにまとめてみたい。