東野圭吾さんのガリレオ・シリーズ、「容疑者xの献身」に続く映画第二弾、ということになります。
ポニーキャニオン (2013-12-25)
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「容疑者xの献身」に関しては、「容疑者xの本格問題」を軸に、以前このような文章を書いている。
→我「容疑者xの献身」を楽しむものに如かず
ガリレオ・シリーズの映画化であるから、やはりこの問題を避けて通ることはできない。
二階堂黎人が提起した「容疑者xの本格問題」の起点はこのような指摘だった。
こ の本の真相(湯川の想像)には、読者に対する手がかりも証拠も充分でなく、読者はそれをけっして推理できない。よって、作者が真相であるとするものが最後 に開示されるまで、読者は真相に到達し得ない。つまり、そういう結末の得られ方(作者からの与え方)は《捜査型の小説》であるから、《推理型の小説》では ない(=本格推理小説ではない)、ということなのである。
本作「真夏の方程式」においても“湯川の想像”は、やはり推理とは呼びがたい“飛躍”を内在させていた。
そして、容疑者xと同様に、 その想像自体は、事件を解決するためのものでなく、もっぱら事件に関係した者の心の状態を変化させることに寄与するのである。
もっと突っ込んで言えば、謎を解くことだけでは、事件を解決したことにならないよ、という作者からの「容疑者x問題」への返答ともいえるのではないか。
また本作では、脱原発問題を想起させる「環境保全」と「資源開発」という二項対立が、物語の軸として立てられている。
どちらが正しいかではなく、どちらを選択するか。
それが人間にできる議論のせいぜいの範疇である、とガリレオは折に触れ両陣営に示唆している。
それぞれの立場にしがみついて、逐一否定して反論しあっていても、どこにも辿りつけない。
映画では、ある少年の成長を通じて、今の日本のあちこちで見られるこのような閉塞の風景を浮き彫りにしていく。
人間が正しく生きていくために必要な“地図”が科学だ、とガリレオは少年に告げる。
「今、学校で教えていることは将来の役に立たない」などと、大のおとなが言い立てるようなこの国で、僕らはどこに辿り着こうとしているのか。
すべての少年のとなりにガリレオはいないのに。
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