村上春樹の短篇集「女のいない男たち」に収録の第三編「独立器官」のタイトルを見て、伊藤計劃の「虐殺器官」を思い出したのは僕だけではないだろうが、村上春樹が読むような小説ではない。偶然だろう。
しかし、器官の機能に奇妙な一致もあって興味深い。
さてこの物語は、一言でいえば「自分は何者であるか」という問いについての物語であるといえる。
渡会医師が、「自分は何者か」と考え始めるきっかけになったユダヤ人医師の本とはやはりフランクルの「夜と霧」だろうか。
内科医と精神科医のように細部は異なっているので、別に出典があるのかもしれないが、この著名なホロコースト生還者の手記は、渡会医師の衝撃を想像する手がかりになると思う。
著者のフランクルは、戦時下の強制収容所という極限状態の中で、自らも囚人でありながら冷静な学者の目で観察する。その目が、「人間」というものの姿を浮き彫りにしていく。
自分に対しての理解は、いつも他者の姿からやってくるのだ。
しかし他者の姿が、自分の理解を得るたったひとつの方法だったとしても、ただ見ているだけでは他者の姿が見えるだけだ。
その間にフィルタになる「鏡」がいるのである。
フランクルの場合のそれは精神科医としての専門知識だった。
しかし普通、人はそのようなユニバーサルな鏡を持っていない。
だから、我々は、貴方は何者か、と問うことから始めるほかない。
だが、自分が何者かわからないのに、貴方は何者か、と問うことはできるだろうか。
それができないのだとすれば、貴方が何者であってもかまいません、と表明する以外に他者と関係を結ぶことはできないだろう。
この無保留の受容の関係を<愛>というのだと思う。
そして、その<愛>についての理解は、自分が何者であるかすらも包括して受容する。
物語で、医師である渡会と、作家の谷村の二人が、ジムで行うスポーツがスカッシュであるのはおそらく偶然ではない。
壁に向かって、二人がボールを打ち合う姿は、まるである種のフィルタを通してお互いを理解していく過程のようだ。
そして、バーに移っても続けられる、対話による<スカッシュ>のさなか、渡会医師は谷村に「自分が何者であるかわからない」と告げるのだ。
複数の女性の間を巧みに立ちまわる渡会医師が、突然陥った恋愛に胸を痛める少年のような告白は、読者にとってはコメディー以外の何ものでもなかったはずだ。
しかしご本人にとっては、もちろんコメディーではない。
これは、恋を「独立器官」にまかせていた報いなのである。
つまり<愛>の理解のサイクルに自分自身への受容を含んで来なかったことへの報い。
そして、医師は、女性は皆、嘘を吐くための「独立器官」を持っていると言っていた。
これこそは、無保留の受容の対極にある態度である。
つまり彼は人を愛することそのものを“知らなかった”。
それでも彼が、恋を自身の「独立器官」にまかせているうちはまだよかった。
しかし、はじめて本当の愛を知り、そしてその愛をこともあろうに、とびっきりの独立器官謹製の“嘘”に撃ちぬかれたのである。
自分自身を受容する機会さえ、彼は永遠に喪ってしまったのだ。
人ごとではないのかもしれない。
僕らもきっと、程度の差こそあれ、このような独立器官を自分の心に持っているはずだ。
そうでなければ恋をするのも命がけになってしまう。
心から信じあえる人とでなければ何もできないという人生は、想像もつかないほど窮屈なものになるだろう。
このような他律性とどのように折り合っていくのかを識ることが、もしかしたら医師の望んでいた「自分が何者か」を知るということだったのかもしれない。
2014年5月9日金曜日
2014年5月8日木曜日
「イエスタデイ」(村上春樹短篇集「女のいない男たち」収録)について
村上春樹の新作短篇集「女のいない男たち」に第二編として収録された「イエスタデイ」は、
「昨日は/あしたのおとといで/おとおいのあしたや」
という、ビートルズ「イエスタデイ」の関西弁による創作訳詞ではじまる。
僕は読んでいないが、文藝春秋誌に掲載された時は、作者村上春樹による歌全体の訳詞が掲載されていたそうだが、中頓別騒動と同じように、こちらにも著作権代理人からクレームがついていたそうだ。
で、単行本収録時には、冒頭の部分だけを収録したようだ。
まあ、この印象的な冒頭部で、充分に、この<替え歌>を風呂で歌う男、木樽の奇矯さは伝わってくる。
「イエスタデイ」に登場する木樽と幼馴染のガールフレンドのことを考えると、カンガルー日和という初期の短編集の中でも特に人気の高い「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」を思い出す。
両作品に通底して響く「運命的なものを拒絶する」という態度はいったい人間の真摯さなのか、それとも臆病さなのか。
例えば、血を分けた親子の関係ならば、それは疑いなく運命といえる。子は自分の親を選ぶことができない。だからこそ、子は自分に降りかかる不運をすべて親のせいにして「イノセント」な存在であることができる。ひとつの強い運命の絆を傘にして、他のすべての不運の責任から守られる(疎外される)存在を「子ども」という。
そしていつか子どもは、自分が歩んでいく道を自分で選ぼうとする時、それと引き換えに今まで親のせいにしてきたすべてを自分のものとして引き受けていく覚悟を学ぶのだ。
「運命的」という言葉そのものに、そのような疎外性が含まれているのだ。
だから、その覚悟がないまま、運命的なカップルになってしまった木樽とえりか(彼の幼馴染)は、(「100パーセント」のカップルと同じように)そのままでは本当の意味でのカップルになれないのである。
だから、二人はともに運命への迷子のようにその後の人生を送る。
そのことはすでに物語冒頭部に暗示されている。
“なんだか『三四郎』みたいだけど”の一言で。
夏目漱石の「三四郎」で、主人公三四郎が心惹かれる女性美禰子が口癖のように言う「迷羊(ストレイ・シープ)、迷羊(ストレイ・シープ)」は、実直な田舎出身の三四郎に対し、近代化した都市生活者の自我に振り回される欲深さのようなものへの自虐だ、と僕は読んだ。
ストレイ・シープとは「迷子」のことで、マタイ伝の、九十九匹の迷わぬ羊よりも一匹の迷える羊を大切に思う羊飼いの説話から来ている。
そして羊飼い(=神)は、この一匹を見放さないのである。
だから、物語世界のストレイ・シープである彼らもまた、決して見放されることはないはずだ。おそらく作品世界で木樽とえりかは、本当に主人公の言うように紆余曲折を経て偶然再会し、結ばれるのだと思う。
冒頭部の「三四郎」は、そこまでの示唆をしていると僕は読んだ。
かつて、「100パーセント」において運命を拒否したカップルに冷酷なエンディングを用意した村上春樹は、本作では(1Q84に続いて)あたたかな未来を示唆している。
順風満帆でないがゆえに実り豊かな人生というものもある、というこの示唆は、好意的に登場させた北海道の町に非難され、せいいっぱいのリスペクトをこめて作ったイエスタデイ・トリビュートにケチをつけられたこの短篇たち自身に、皮肉にも符合している。
「昨日は/あしたのおとといで/おとおいのあしたや」
という、ビートルズ「イエスタデイ」の関西弁による創作訳詞ではじまる。
僕は読んでいないが、文藝春秋誌に掲載された時は、作者村上春樹による歌全体の訳詞が掲載されていたそうだが、中頓別騒動と同じように、こちらにも著作権代理人からクレームがついていたそうだ。
で、単行本収録時には、冒頭の部分だけを収録したようだ。
まあ、この印象的な冒頭部で、充分に、この<替え歌>を風呂で歌う男、木樽の奇矯さは伝わってくる。
「イエスタデイ」に登場する木樽と幼馴染のガールフレンドのことを考えると、カンガルー日和という初期の短編集の中でも特に人気の高い「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」を思い出す。
両作品に通底して響く「運命的なものを拒絶する」という態度はいったい人間の真摯さなのか、それとも臆病さなのか。
例えば、血を分けた親子の関係ならば、それは疑いなく運命といえる。子は自分の親を選ぶことができない。だからこそ、子は自分に降りかかる不運をすべて親のせいにして「イノセント」な存在であることができる。ひとつの強い運命の絆を傘にして、他のすべての不運の責任から守られる(疎外される)存在を「子ども」という。
そしていつか子どもは、自分が歩んでいく道を自分で選ぼうとする時、それと引き換えに今まで親のせいにしてきたすべてを自分のものとして引き受けていく覚悟を学ぶのだ。
「運命的」という言葉そのものに、そのような疎外性が含まれているのだ。
だから、その覚悟がないまま、運命的なカップルになってしまった木樽とえりか(彼の幼馴染)は、(「100パーセント」のカップルと同じように)そのままでは本当の意味でのカップルになれないのである。
だから、二人はともに運命への迷子のようにその後の人生を送る。
そのことはすでに物語冒頭部に暗示されている。
“なんだか『三四郎』みたいだけど”の一言で。
夏目漱石の「三四郎」で、主人公三四郎が心惹かれる女性美禰子が口癖のように言う「迷羊(ストレイ・シープ)、迷羊(ストレイ・シープ)」は、実直な田舎出身の三四郎に対し、近代化した都市生活者の自我に振り回される欲深さのようなものへの自虐だ、と僕は読んだ。
ストレイ・シープとは「迷子」のことで、マタイ伝の、九十九匹の迷わぬ羊よりも一匹の迷える羊を大切に思う羊飼いの説話から来ている。
そして羊飼い(=神)は、この一匹を見放さないのである。
だから、物語世界のストレイ・シープである彼らもまた、決して見放されることはないはずだ。おそらく作品世界で木樽とえりかは、本当に主人公の言うように紆余曲折を経て偶然再会し、結ばれるのだと思う。
冒頭部の「三四郎」は、そこまでの示唆をしていると僕は読んだ。
かつて、「100パーセント」において運命を拒否したカップルに冷酷なエンディングを用意した村上春樹は、本作では(1Q84に続いて)あたたかな未来を示唆している。
順風満帆でないがゆえに実り豊かな人生というものもある、というこの示唆は、好意的に登場させた北海道の町に非難され、せいいっぱいのリスペクトをこめて作ったイエスタデイ・トリビュートにケチをつけられたこの短篇たち自身に、皮肉にも符合している。
2014年5月4日日曜日
「ドライブ・マイ・カー」(村上春樹短篇集「女のいない男たち」収録)について
村上春樹の短篇集「女のいない男たち」は、「多崎つくる」に較べると、ずいぶん早くわが町の小さな書店にも在庫が揃った。
ページを開くとめずらしく「まえがき」があるが、これはもちろん例の中頓別騒動についての著者からのメッセージを織り込むためにわざわざ設置されたとみるべきだろう。「作品としての本筋に関係ないところだったので」という部分に、巧みに抗議の意を滑りこませている。
その中頓別町の表記は、上十二滝町になっていた。「羊をめぐる冒険」で星形の斑紋を背中に持っているという羊に会いに行く、あの町だ(羊に出てくるのは十二滝町だが)。そうと知っている人が読めば、そこで意識が途切れる。
どこまでもリアルで、誰にでも覚えのある心の揺らぎを丁寧に描きこんできた物語に、作者の著作中でもとびっきりファンタジックな作品の、それもそうとうにいわくのある村から出てきた娘だった、と明かされるのだから。
できれば、別の名前が良かったと思う。
それも実在する田舎の村。
作者の村上春樹氏が一番そう思っているだろう。
この「ドライブ・マイ・カー」という物語は、人と人の間に横たわるきわめて不完全な<理解>についての物語である。
愛した女性という共通項を間に置いてさえ、ぎくしゃくしたプロトコルに頼るしかない人間の不器用さが、ここに描かれているものだ。
そのぎこちなさ、は自動車のシフトチェンジに仮託されて物語をドライブしている。
ドライバーとして雇われた女性の運転は、ほぼ感知できないほどにシフトチェンジがスムーズであると書かれている。
これは、マニュアル仕様の黄色いサーブとともに、この物語に現れる<異能>であり<特異点>だ。
つまりこれを対置して表現しようとしたものが主題ということになる。
そしてそれは、人間の内面と行動の乖離を職業化した「演技」というものだろう。
演技から始まった関係は友情に変わり、ぎこちなさを増していく。
その振動に耐えられなくなって関係は壊れてしまう。
そしてそのような表面的で移ろいやすく、葛藤にみちた人間関係の物語を聞きながら、女性ドライバーの運転はあくまでも強固にスムーズだ。
そして主人公が吐露する不完全な<理解>に関する葛藤を、沈黙で受け止められなくなった時、彼女が正論とともに吐き出したのが、車窓からの吸殻だ。
煙草の吸殻が車窓から投げ捨てられたのを主人公が見たとき、同時に感じた彼女の正しさや強さの源泉とみたのが、北海道の田舎で育ったシンプルだからこそ力強い価値観だったのではないか。
そしてそれを受けての台詞が、「中頓別ではみんなそうするのだろう」だったのだ。
そこにはきっと、都会のうわべの人間関係からは得られない、土に根ざした強固な何かがあるのだろう、という主人公の憧れのような気持ちが込められている、そう僕には感じられた。
だから、この台詞は決して「本筋に関係ない」ものではなく、それどころか、巧みに配置された道具立てを一点に集めて主題を描ききる重要なもので、それゆえに印象的に読者の心にせまる。不幸なことにだからこそ、それは看過されなかった。
単行本で「上十二滝町」と書き換えられた該当部分を読んだ時、雑誌掲載時に感じたその北海道への憧れの感覚が大きく損なわれているのを感じざるを得なかった。
それでもなお、筆者が、このような特別な町名に書き換えたことには相応の意味があると考えるほうが自然だろう。
僕は、完全な創作による文学作品の、実態として悪意のないエピソードに、このようなクレームがつくことに、文学という愉しみの危機を感じる。
テレビドラマは、描かれているものが実態と違うと言って、筋書きの修正を迫られ、スポンサーはCMを自粛した。
東京都の美術館は、政治色のある彫刻作品を撤去した。
「女のいない男たち」に付されたまえがきと、書き換えられた「ドライブ・マイ・カー」は、村上春樹がこのような時代に書き残そうとした<注記>なのかもしれない。
ページを開くとめずらしく「まえがき」があるが、これはもちろん例の中頓別騒動についての著者からのメッセージを織り込むためにわざわざ設置されたとみるべきだろう。「作品としての本筋に関係ないところだったので」という部分に、巧みに抗議の意を滑りこませている。
その中頓別町の表記は、上十二滝町になっていた。「羊をめぐる冒険」で星形の斑紋を背中に持っているという羊に会いに行く、あの町だ(羊に出てくるのは十二滝町だが)。そうと知っている人が読めば、そこで意識が途切れる。
どこまでもリアルで、誰にでも覚えのある心の揺らぎを丁寧に描きこんできた物語に、作者の著作中でもとびっきりファンタジックな作品の、それもそうとうにいわくのある村から出てきた娘だった、と明かされるのだから。
村上 春樹
講談社
売り上げランキング: 84,351
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できれば、別の名前が良かったと思う。
それも実在する田舎の村。
作者の村上春樹氏が一番そう思っているだろう。
この「ドライブ・マイ・カー」という物語は、人と人の間に横たわるきわめて不完全な<理解>についての物語である。
愛した女性という共通項を間に置いてさえ、ぎくしゃくしたプロトコルに頼るしかない人間の不器用さが、ここに描かれているものだ。
そのぎこちなさ、は自動車のシフトチェンジに仮託されて物語をドライブしている。
ドライバーとして雇われた女性の運転は、ほぼ感知できないほどにシフトチェンジがスムーズであると書かれている。
これは、マニュアル仕様の黄色いサーブとともに、この物語に現れる<異能>であり<特異点>だ。
つまりこれを対置して表現しようとしたものが主題ということになる。
そしてそれは、人間の内面と行動の乖離を職業化した「演技」というものだろう。
演技から始まった関係は友情に変わり、ぎこちなさを増していく。
その振動に耐えられなくなって関係は壊れてしまう。
そしてそのような表面的で移ろいやすく、葛藤にみちた人間関係の物語を聞きながら、女性ドライバーの運転はあくまでも強固にスムーズだ。
そして主人公が吐露する不完全な<理解>に関する葛藤を、沈黙で受け止められなくなった時、彼女が正論とともに吐き出したのが、車窓からの吸殻だ。
煙草の吸殻が車窓から投げ捨てられたのを主人公が見たとき、同時に感じた彼女の正しさや強さの源泉とみたのが、北海道の田舎で育ったシンプルだからこそ力強い価値観だったのではないか。
そしてそれを受けての台詞が、「中頓別ではみんなそうするのだろう」だったのだ。
そこにはきっと、都会のうわべの人間関係からは得られない、土に根ざした強固な何かがあるのだろう、という主人公の憧れのような気持ちが込められている、そう僕には感じられた。
だから、この台詞は決して「本筋に関係ない」ものではなく、それどころか、巧みに配置された道具立てを一点に集めて主題を描ききる重要なもので、それゆえに印象的に読者の心にせまる。不幸なことにだからこそ、それは看過されなかった。
単行本で「上十二滝町」と書き換えられた該当部分を読んだ時、雑誌掲載時に感じたその北海道への憧れの感覚が大きく損なわれているのを感じざるを得なかった。
それでもなお、筆者が、このような特別な町名に書き換えたことには相応の意味があると考えるほうが自然だろう。
僕は、完全な創作による文学作品の、実態として悪意のないエピソードに、このようなクレームがつくことに、文学という愉しみの危機を感じる。
テレビドラマは、描かれているものが実態と違うと言って、筋書きの修正を迫られ、スポンサーはCMを自粛した。
東京都の美術館は、政治色のある彫刻作品を撤去した。
「女のいない男たち」に付されたまえがきと、書き換えられた「ドライブ・マイ・カー」は、村上春樹がこのような時代に書き残そうとした<注記>なのかもしれない。
2014年4月29日火曜日
ジョナサン・キャロル「死者の書」に問われた<父>との向き合い方
こんな魅力的なダーク・ファンタジーは初めてだ。
ジョナサン・キャロルの「死者の書」のことだ。
高校時代の同級生に教えてもらった。
その人が読む本だから、きっと素敵な本だろうと思っていたが、本当に思っていた通りの素敵さだった。
有名俳優の息子で、高校の教師をやっているトーマス・アビイが、マーシャル・フランスという今は亡き天才作家の伝記を書こうと長期休暇を取り、調べ物を始める。
古書店で、見つけたマーシャル・フランスの稀覯本は、すでに売約済みという。買い手と交渉して譲ってもらおうと、待っていると現れたのは若い女性で、
「本の趣味が世界一なのだから美人でにこやかなのが当然」と期待して彼女を見ると、
「顔立ちはかわいいと平凡の中間」で、「清潔で健康的」「茶色い髪はまっすぐだが、肩のあたりで、触れるのが怖いというようにちょっと跳ね上がっている」女性だった。
名前は、サクソニー・ガードナー。
トーマスとサクソニーは、協力してフランスの伝記を書くことになる。
二人は、フランスがその半生を過ごし、愛し、そして死んだ「ゲイレン」という町に逗留し、伝記を書くことにする。
取材を始めたトーマスの目の前で、少年がトラックにはねられた。
事故のあと、町の人に「あの男の子、はねられる前は笑ってました?」と訊かれ戸惑うトーマス。それまでよそよそしかった町の人達が、その日を境にいやに協力的になったことや、自分の行動が瞬時に町の隅々にまで知れ渡っていることにも不審を覚える。
その不審をフランスの娘、アンナに質すトーマス。
そしてアンナから語られた恐ろしい町の真実。
ダークファンタジーの典型のような端正な物語が、これが処女作とはちょっと信じられない見事な構成力とユーモラスな筆致で語られていく。
物語は緩急を丁寧にコントロールされて、ゆっくりゆっくり進んでいく。
しかし、その秩序は、ラスト8ページで何の予告もなく破られ、突然物語は疾走を始める。
ああ、この凝集された不思議さ。
圧倒的なスピードのペンに、僕は不思議に思う暇もなかった。
それまで酔うように堪能していた不思議さが、まるごとこの瞬間のための伏線であったことを知ったときの驚き!
騙されることがこんなに気持ちのいいことだと、僕は本当に知らなかった。
読後、表紙を見返して、本当に久しぶりに本のことを「愛おしい」と思った。
東京創元社の本には、時々こういう「愛おしさ」を感じさせる本がある。
例えば、シーリア・フレムリンの「泣き声は聞こえない」
ヘレン・マクロイの「幽霊の2/3」も忘れられない。
端正でコンパクトで物語然とした物語。
きっと大昔から人間に寄り添ってきた物語の多くは、このような姿をしていたのではないだろうか。
「死者の書」には、失われた父の復権というもうひとつのテーマが隠されている。
偉大な父を戴いた者が、「平凡さへの愛」と「非凡さへの欲求」の強い引力に翻弄される様子に心が動く。
現代に生きる我々は、直接的には、まだ貧しかった日本を豊かにしてきた特別な時代の嫡子であり、同時にもっと長い歴史を動かしてきた偉人たちや、その偉人たちを駆り立てた民衆の「息子(娘)」でもある。
そしていつも偉大さと平凡さを併せ持った「父」という存在を感じながら、自らはその心に抱いたイメージの父と自身をうまく重ねられずにいる。
トーマス・アビイはそれを書くことで友とし、アンナ・フランスは保存することで王とした。
決して逃げられないものとどうやって生きていくのか。
我々もまた問われているのだと思う。
ジョナサン・キャロルの「死者の書」のことだ。
高校時代の同級生に教えてもらった。
その人が読む本だから、きっと素敵な本だろうと思っていたが、本当に思っていた通りの素敵さだった。
有名俳優の息子で、高校の教師をやっているトーマス・アビイが、マーシャル・フランスという今は亡き天才作家の伝記を書こうと長期休暇を取り、調べ物を始める。
古書店で、見つけたマーシャル・フランスの稀覯本は、すでに売約済みという。買い手と交渉して譲ってもらおうと、待っていると現れたのは若い女性で、
「本の趣味が世界一なのだから美人でにこやかなのが当然」と期待して彼女を見ると、
「顔立ちはかわいいと平凡の中間」で、「清潔で健康的」「茶色い髪はまっすぐだが、肩のあたりで、触れるのが怖いというようにちょっと跳ね上がっている」女性だった。
名前は、サクソニー・ガードナー。
トーマスとサクソニーは、協力してフランスの伝記を書くことになる。
二人は、フランスがその半生を過ごし、愛し、そして死んだ「ゲイレン」という町に逗留し、伝記を書くことにする。
取材を始めたトーマスの目の前で、少年がトラックにはねられた。
事故のあと、町の人に「あの男の子、はねられる前は笑ってました?」と訊かれ戸惑うトーマス。それまでよそよそしかった町の人達が、その日を境にいやに協力的になったことや、自分の行動が瞬時に町の隅々にまで知れ渡っていることにも不審を覚える。
その不審をフランスの娘、アンナに質すトーマス。
そしてアンナから語られた恐ろしい町の真実。
ダークファンタジーの典型のような端正な物語が、これが処女作とはちょっと信じられない見事な構成力とユーモラスな筆致で語られていく。
物語は緩急を丁寧にコントロールされて、ゆっくりゆっくり進んでいく。
しかし、その秩序は、ラスト8ページで何の予告もなく破られ、突然物語は疾走を始める。
ああ、この凝集された不思議さ。
圧倒的なスピードのペンに、僕は不思議に思う暇もなかった。
それまで酔うように堪能していた不思議さが、まるごとこの瞬間のための伏線であったことを知ったときの驚き!
騙されることがこんなに気持ちのいいことだと、僕は本当に知らなかった。
読後、表紙を見返して、本当に久しぶりに本のことを「愛おしい」と思った。
東京創元社の本には、時々こういう「愛おしさ」を感じさせる本がある。
例えば、シーリア・フレムリンの「泣き声は聞こえない」
シーリア フレムリン
東京創元社
売り上げランキング: 1,019,007
東京創元社
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ヘレン・マクロイの「幽霊の2/3」も忘れられない。
ヘレン・マクロイ
東京創元社
売り上げランキング: 378,580
東京創元社
売り上げランキング: 378,580
端正でコンパクトで物語然とした物語。
きっと大昔から人間に寄り添ってきた物語の多くは、このような姿をしていたのではないだろうか。
「死者の書」には、失われた父の復権というもうひとつのテーマが隠されている。
偉大な父を戴いた者が、「平凡さへの愛」と「非凡さへの欲求」の強い引力に翻弄される様子に心が動く。
現代に生きる我々は、直接的には、まだ貧しかった日本を豊かにしてきた特別な時代の嫡子であり、同時にもっと長い歴史を動かしてきた偉人たちや、その偉人たちを駆り立てた民衆の「息子(娘)」でもある。
そしていつも偉大さと平凡さを併せ持った「父」という存在を感じながら、自らはその心に抱いたイメージの父と自身をうまく重ねられずにいる。
トーマス・アビイはそれを書くことで友とし、アンナ・フランスは保存することで王とした。
決して逃げられないものとどうやって生きていくのか。
我々もまた問われているのだと思う。
2014年3月31日月曜日
ドストエフスキー「白痴」に見える恋の真の姿
ドストエフスキーの五大長編のひとつ「白痴」を読了した。
これはおそらくドストエフスキー長編の中でもっともストレートな「面白さ」を持った作品ではないだろうか。
まず、主人公ムイシュキン公爵をめぐる女性たちの特殊な「デレ」が実に近代的である。
以前からドストエフスキーは予言者だよね、と思っていたが、本作もその根拠なき確信を補強してくれた。
まず、スイスでの療養からロシアに戻ってきた公爵が、親戚を頼って訪れたエパンチン将軍家の三女アグラーヤ。
まごうことなき、ツンデレちゃんである。
その計算のかけらも感じられない純度の高いツンデレ性は、戦場ヶ原ひたぎ型ではなく、涼宮ハルヒ型のそれで、充分進化して分化したツンデレ様式にも完全に対応しているドストエフスキーの人物描写は見事というほかない。
さらに、もっとも重要なヒロイン、ナスターシャ・フィリポヴナは、このツンデレから分離して独自の進化を遂げた「ヤンデレ」類型のヒロインになっているのである!
1868年にヤンデレを描いたドストエフスキー、すごすぎないか。
「カラマーゾフ」でも「悪霊」でも、ドストエフスキーの描く人物は、どういつもこいつも大事なところで無意識にヘンテコな言動をする。結果、事態はねじれ、あらぬ方向へ進む。
あらぬ方向に進んでいるように見えるのに、あらすじを書いてみると平凡な物語になる。
ここにこそドストエフスキー長編の真の非凡さがあるのだと思う。
僕らが普通だと思っているこの社会は、人々の奇矯さが作っているのだと、ドストエフスキーは作品を通じて言っているのだと思う。
コミュニケーションは、大部分がわかったフリで、本当はわかり合ってなんかいないけど、それでも社会は動くようになっている。
そう言っているのだ。
ドストエフスキーは、そのような構造になっている社会に、世知に疎い、純粋無垢な精神を放り込んだらどうなるかを、この「白痴」という小説で実験している。
結果は、ご覧のとおり。
ごく一般的な小説的ラブ・ストーリーの出来上がりだ。
無垢=イノセンス、は社会的責任や役割意識と無縁であるという意味である。
だから「白痴」でのムイシュキン公爵をめぐるラブ・ストーリーは、どこまでも社会性がない。それでもドストエフスキーはそこにエクスキューズを書き込まない。
これが「恋」のありのままなんだよと言わんばかりに。
実際の社会では、ここまであけすけに心変わりをすると社会的な信用を失う。
だから普通はこのような顛末にならない。
しかしその実、心のなかでは、表出すれば不条理になる想いを抱えているのが普通なんじゃないのかと、ドストエフスキーは言っているのだ。
そうかもしれない、と思う。
それでもムイシュキンのように生きてみたいとは思わない。
そんな生き方は、しんどすぎる。
これはおそらくドストエフスキー長編の中でもっともストレートな「面白さ」を持った作品ではないだろうか。
まず、主人公ムイシュキン公爵をめぐる女性たちの特殊な「デレ」が実に近代的である。
以前からドストエフスキーは予言者だよね、と思っていたが、本作もその根拠なき確信を補強してくれた。
まず、スイスでの療養からロシアに戻ってきた公爵が、親戚を頼って訪れたエパンチン将軍家の三女アグラーヤ。
まごうことなき、ツンデレちゃんである。
その計算のかけらも感じられない純度の高いツンデレ性は、戦場ヶ原ひたぎ型ではなく、涼宮ハルヒ型のそれで、充分進化して分化したツンデレ様式にも完全に対応しているドストエフスキーの人物描写は見事というほかない。
さらに、もっとも重要なヒロイン、ナスターシャ・フィリポヴナは、このツンデレから分離して独自の進化を遂げた「ヤンデレ」類型のヒロインになっているのである!
1868年にヤンデレを描いたドストエフスキー、すごすぎないか。
「カラマーゾフ」でも「悪霊」でも、ドストエフスキーの描く人物は、どういつもこいつも大事なところで無意識にヘンテコな言動をする。結果、事態はねじれ、あらぬ方向へ進む。
あらぬ方向に進んでいるように見えるのに、あらすじを書いてみると平凡な物語になる。
ここにこそドストエフスキー長編の真の非凡さがあるのだと思う。
僕らが普通だと思っているこの社会は、人々の奇矯さが作っているのだと、ドストエフスキーは作品を通じて言っているのだと思う。
コミュニケーションは、大部分がわかったフリで、本当はわかり合ってなんかいないけど、それでも社会は動くようになっている。
そう言っているのだ。
ドストエフスキーは、そのような構造になっている社会に、世知に疎い、純粋無垢な精神を放り込んだらどうなるかを、この「白痴」という小説で実験している。
結果は、ご覧のとおり。
ごく一般的な小説的ラブ・ストーリーの出来上がりだ。
無垢=イノセンス、は社会的責任や役割意識と無縁であるという意味である。
だから「白痴」でのムイシュキン公爵をめぐるラブ・ストーリーは、どこまでも社会性がない。それでもドストエフスキーはそこにエクスキューズを書き込まない。
これが「恋」のありのままなんだよと言わんばかりに。
実際の社会では、ここまであけすけに心変わりをすると社会的な信用を失う。
だから普通はこのような顛末にならない。
しかしその実、心のなかでは、表出すれば不条理になる想いを抱えているのが普通なんじゃないのかと、ドストエフスキーは言っているのだ。
そうかもしれない、と思う。
それでもムイシュキンのように生きてみたいとは思わない。
そんな生き方は、しんどすぎる。
2014年2月10日月曜日
文学の受難の時代
最近ネットで話題の中学生が書いたという、太宰の「走れメロス」のメロスは実は走っていなかったという論考を最初読んだ時、面白いことを考える子もいるもんだな、と思った。
微笑ましいこの小さな才能をみんなでシェアして楽しむのも悪くない風情に感じた。
そして、さらに叶うなら、文学を愛する者の立場から、大人になってしまった僕達がもう一度メロスを読む絶好の機会になるともっといい、と思っている。
そして、その時こそはこの少年の労作のことは忘れていただきたい。
メロスが妹の村に向かう場面を太宰はこう書いている。
「メロスはその夜、一睡もせず十里の路を急ぎに急いで、村へ到着したのは、翌あくる日の午前、陽は既に高く昇って、村人たちは野に出て仕事をはじめていた。メロスの十六の妹も、きょうは兄の代りに羊群の番をしていた。よろめいて歩いて来る兄の、疲労困憊(こんぱい)の姿を見つけて驚いた。」
実際には急ぎ足に歩いても充分着く距離を踏破したメロスが、体力がないせいかよろめいている、と読むべきではない、と僕は思う。
ぜひ、今一度、冒頭にある、王とメロスとの諍いの場面。その王のセリフに注目してご再読いただきたい。(僕はこの冒頭部こそが走れメロスの最重要部と思っています)
大人になった今、この王の気持には共感出来る部分がある。
むろん残虐な暴君を認めるわけではないが、
「仕方の無いやつじゃ。おまえには、わしの孤独がわからぬ。」
「疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心は、あてにならない。人間は、もともと私慾のかたまりさ。信じては、ならぬ。」
という王の言葉に、なにか思うに任せない社会というものへの諦めのようなものを感じ、他人事には思われないのだ。
そして、それを許せないメロスの「青臭さ」が、彼を走らせている。
そして、それを許せないメロスの「青臭さ」が、彼を走らせている。
友の命をかけてまで走らせている。
だから彼の走りは「燃焼」であり、「焦燥」なのだ。
そこに計算は、きっとないのだ。
だから彼の走りは「燃焼」であり、「焦燥」なのだ。
そこに計算は、きっとないのだ。
太宰は、そのような男としてメロスを描いたのだ。
そして、同時に確かに太宰には、このような距離と速度と時間の関係について「計算」をしておく義務があったように、僕も思う。
この論考を書いた中学生が発動した一級のユーモアに身を委ねて、文学を読む態度についての考察ができた。
だが、こちらはユーモアでは済まない。
村上春樹が文藝春秋誌に掲載した短編「ドライブ・マイ・カー」の一件だ。
小説内で、北海道中頓別町出身の女性が、車窓から火のついたたばこを外に投げ捨て、主人公が「たぶん中頓別町ではみんなが普通にやっていることなのだろう」と思う場面が描かれていたのだそうだ。
これに中頓別町議が抗議。
ノーベル文学賞候補となる作家が事実と異なることを小説にしたことが町のイメージダウンにつながり、このまま放置すれば、本町への偏見と誤解が広がる訳ですから、作家に遺憾の意を伝え、なんらかの対処を求めることの緊急性は高いと思います。
活字化の事実を知りながら公式には何もしないということは、不本意な表現を認めることになります。環境美化や交通安全に励む町の代表である議員や首長は、こうした問題に敏感に反応すべきでしょう。
と述べている。
この事案からは、常に他者の失点を探して、自分の得点を上げることが求められる現代の病も感じる。
そして、決定的に文学を読む態度が、この国から失われ始めている危機感を感じる。
北海道中頓別町出身の女性が、車窓から火のついたたばこを外に投げ捨て、主人公が「たぶん中頓別町ではみんなが普通にやっていることなのだろう」と思う
さて、この文中に、「中頓別町で、たばこを投げ捨てている人」は登場しているだろうか。
もちろんしていない。
この「ドライブ・マイ・カー」という短編小説を、小説として読んだ時、中頓別町に悪いイメージを抱く人はいないだろうと思うが、それは、分析的に読まなくても、中頓別町の何かの部分がたばこのポイ捨てをさせる、というつながりがそもそも書かれていないから、読者が感じ取らないからなのだ。
だが、中頓別町の関係者だけは、中頓別町の内実についてそれぞれ思うところを持っている。
その内実が、この短編小説の「中頓別町」という単語に強く結びついて、読み方が変わってしまう。
文学とはそういうものなのである。
とはいえ、それは読み違いであることには変わりなく、こういう読み違いをしないために、我々は教育というものを受けている。
しかしその教育にも実効はなく、だから日本人の読書時間は極限まで減っている。
結果として、このようないいがかりがまかり通るのである。
だから町議の懸念は見当違いだと思うが、それでもこれからは実在の町名で小説を書くことは控えたほうがいいのかもしれない、と思う。
だって、これが出版されたら、けっこうな人数が、北海道旅行のついでに中頓別町に行って、レンタカーの窓から火のついたままのたばこを投げ捨てて、写真をとって、「中頓別町で、たばこを投げ捨てているなう」とかやりそうな気がするもの。
村上春樹氏は、単行本化の際、町名を変更する旨を発言しており、事実上事態は沈静化したと言えるだろう。
文学の受難の時代は続く。
まいったね。
2014年2月1日土曜日
アガサ・クリスティ「なぜエヴァンズに頼まなかったのか?」
米澤穂信の「古典部シリーズ」は原作もいいが、京都アニメーションの渾身のアニメ化が素晴らしいわけで、もちろん全作読破&視聴している。
原作での第二作にあたる「愚者のエンドロール」は、学園祭の出し物に自主制作された映画が、結末部の撮影前に脚本担当の女生徒が倒れてしまうという事態に、みんなで脚本家の意図した真の結末を推理するというお話だ。
筆者はあとがきにて、バークリーの「毒入りチョコレート事件」と我孫子武丸の「探偵映画」からの影響を認めているが、サブタイトルには「Why didn't she ask EBA?」と記しており、これはアガサ・クリスティの「Why didn't they ask Evans?」(なぜエヴァンズに頼まなかったのか?)から名付けられている。
ストーリーには影響を受けていないと明言されているが、この、なぜエヴァンズに頼まなかったのか?というタイトル。
なんとも気になるではないか(古典部だけに)。
というわけで、久しぶりにクリスティを読んでみたのだが、これ無名の作と思ってたけど、実に面白い。
お転婆な貴族の少女フランキーが実にいきいきしてるし、これに純真な鈍感少年がセットになってて、もう現代のライトノベルに遜色ないヒット性の高いキャラクター造形がとてもいい。
二転三転していくプロットも、これぞ推理小説!という感じでドキドキするし、何気ない証拠から思いがけない真相を思いつかれた時に、やられた!と思うのが真の本格魂というものである。
クリスティ、やっぱすごいな、と思って見ると、本作はあのオリエント急行殺人事件と同年の作。納得の筆さばき。ノリにノッてるわ。
爽快このうえないラストも含め、読後もずっと手元においておきたい愛着ある一作となりました。
原作での第二作にあたる「愚者のエンドロール」は、学園祭の出し物に自主制作された映画が、結末部の撮影前に脚本担当の女生徒が倒れてしまうという事態に、みんなで脚本家の意図した真の結末を推理するというお話だ。
米澤 穂信
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アントニイ・バークリー
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なんとも気になるではないか(古典部だけに)。
アガサ クリスティー
早川書房
売り上げランキング: 97,060
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お転婆な貴族の少女フランキーが実にいきいきしてるし、これに純真な鈍感少年がセットになってて、もう現代のライトノベルに遜色ないヒット性の高いキャラクター造形がとてもいい。
二転三転していくプロットも、これぞ推理小説!という感じでドキドキするし、何気ない証拠から思いがけない真相を思いつかれた時に、やられた!と思うのが真の本格魂というものである。
クリスティ、やっぱすごいな、と思って見ると、本作はあのオリエント急行殺人事件と同年の作。納得の筆さばき。ノリにノッてるわ。
爽快このうえないラストも含め、読後もずっと手元においておきたい愛着ある一作となりました。
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