2014年6月17日火曜日

シャーロック・ホームズ「シャドウ・ゲーム」:戦争を作り出す者の経済原理

ガイ・リッチーのシャーロック・ホームズ映画化第一弾は、とてもいい作品だったと思う。なにしろロバート・ダウナー・Jrをシャーロック・ホームズに、ジュード・ロウをワトソン博士にというキャスティングで、つまらない作品ができるはずがない。
というわけで第二弾「シャドウ・ゲーム」も、もちろん観た。

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期待した部分には充分応えてくれたと思う。
主役二人の演技も、映像の出来も素晴らしかった。

しかし、脚本に関して言えば、前作に二歩も三歩も譲る。
冒頭でアイリーン・アドラーが毒殺されてそのまんまという歪さはどうあっても許容できる範囲にない。

まだある。
本作品では、モリアーティ教授に、19世紀末のビジョナリーとして、来るべき戦争の世紀を予想させ、その戦争を収益装置として機能させる仕掛け人を演じさせた。

これは物語の背骨を支える仕掛けとしては、すこしばかり迂闊すぎはしないか。
これでは安っぽい陰謀論だ。
シャーロック・ホームズという物語の器の頑丈さにまことに不釣り合いだとは思わないか。

戦争の経済原理も、武器という巨大な市場も確かに存在する。
現代の政治の裏側には無名の“モリアーティ”が無数に跋扈もしているのだろう。
しかし、それはあくまでも「合理性」のカテゴリーに属するものだ。

近代化された民主国家間の戦争というものはもっと不合理な「理性の限界」の果てに起こるものだろう。

映画の世界で表現しているもののほうが、現実よりも矮小で整然としているとき、僕たちはそこに何を感じ取ればいいというのだろう。

しかも、である。
この案件は、こともあろうに「最後の事件」を題材に採っている。
「最後の事件」で、ホームズはモリアーティからの決死の逃避行を行うが、大陸連絡急行列車をどの駅で降りるか、というところが最終的な争点になる。
ノイマンは「ゲーム理論と経済活動」の中で、この読み合いを「囚人のジレンマ」の典型例として挙げているのである。
ドイル卿は、これを最後と決めて(実際には続編を書かされたが)書いたホームズ作品に、限界まで合理を突き詰めた末に辿り着いた「理性の限界」を描いたのである。

ホームズ譚に対するリスペクトが足りない、と僕には感じられ、そこが残念ではあった。
まあ、このようなエンタテインメント作品に野暮な注文かもしれない。
映画そのものは充分楽しめたのだから。

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