クリント・イーストウッド監督の「ミスティック・リバー」という映画を観た時、「許されざる者」にも通ずる人間の業の深さや、それがもたらす善と悪の境界を巡る葛藤に放心した。
また、マーティン・スコセッシ監督の「シャッター・アイランド」を観た時も、人の心の狂気と正気の境界と、その尊厳を守ろうとするキツい戦いのドラマに痺れた。
後になってこの二つの映画の原作がデニス・ルヘインという同じ作家によるものだと知った。
彼の最新刊「夜に生きる」も、ベン・アフレックによる映画化が決定していると聞いて、先に原作を読んでみたくなって手にとった。
その「夜に生きる」にもミスティック川が登場する。
禁酒法時代のボストンはギャングの街だ。
この作品においても、ミスティック川は人間のあらゆる想念を巻き込みながら流れていく。しかし、大きく蛇行していくアメリカ、いや世界の命運を象徴してか、この物語はミスティック川を離れ、フロリダ州のタンパへ、さらにキューバへと舞台を移していく。
主人公は、ジョー・コグリン。警察署長トマス・コグリンの息子でありながら、「自分でルールを決める」生き方を求めてギャングの手下として生きていた。
強盗に入った賭博場で知り合ったエマという女と恋に落ちるが、エマは対立する組織のボスの情婦であった。
その恋は悲劇を引き起こし、ジョーは囚人となる。
父の助けで刑務所内でチャンスを掴むが、その代償として父そのものを失う。
ジョーは、刑務所で知己を得たギャングの首領からシマを得て、ビジネスを成功させのし上がっていく。
その上り階段のさなかにも繰り返される裏切りと殺し。
そして新しい恋。
その恋は新しい生きがいを生み、彼をただのギャング以上の存在にしていく。
それでもそれは血塗られた道。
前に進んでいるように見えても、彼は失い続けている。
まるで、失うためにあらゆるものを得ているかのようだ。
「夜に生きる」が描いているのは殺伐としたアメリカの裏面史そのものだが、作品から得られる文学的愉悦はとびっきりだ。
気の利いた台詞。
教養に溢れた修辞的表現。
歴史背景を巧みに織り込んで描かれる見事な心象風景。
刑務所の中の人間模様や、クー・クラックス・クランの人々のねじ曲がった信仰と暴力、キューバの絶対的な貧困の中で少年たちがすがる「野球」という名の希望。
そういった人間を描く描写の中に、ルヘインの文学的技術が見事に結晶化していて、一文読むごとに、登場人物の心まるごとありありと脳裏に再現され、読んでいる自分自身の、もう忘れかけていた過去までが照らされていく。
この深みのある人間描写こそが、ルヘインの作品の多くが映画化される理由なのだろう。
そしてそれは映画化されたものが一級のものになる理由でもある。
どうやら続編も予定されているようだし、映画も楽しみだ。
角川から出版されている「私立探偵パトリック&アンジー」シリーズにも興味がわく。(コチラの方は、デニス・「レ」ヘインと表記されているが、同一人物である)
2013年9月20日金曜日
2013年9月19日木曜日
火星のプリンセスの映画化「ジョン・カーター」は、誰のための映画であるべきだったのか
「火星のプリンセス」が映画化されると聞いて、興奮しないSFファンはいないだろう。
魅力的な主人公と、SF史上に残るヒロイン、デジャー・ソリスの恋。
奇想天外な火星人社会と恐ろしくも魅力的なクリーチャーたち。
そしてなんといっても異形の火星犬ウーラの外見を裏切る忠実さと能力といったら!
めまぐるしく展開する物語構成も含めて、これが映画になるならぜひ観てみたいと、少年時代にスペースオペラに胸を熱くした者なら誰でも思うはずだ。
そしてそれは実現した。
したものの、ファンは一抹の不安を覚えたはずだ。
製作がディズニーで、2億5000万ドルを投じる「ウォルト・ディズニー生誕110周年記念作」なのだというのだから。
スペースオペラというのは、科学的根拠なんてそっちのけの荒唐無稽さが面白いのだし、安っぽい色気こそが似合うのだし、クリーチャーはグロテスクだからこそイイのである。
万人が面白いと思うようなものではないのだ。
これは中途半端なものになりそうだぞ、と多くのファンは思ったに違いないし、報道でも興行的には映画史に残る大失敗になりそうだと報じられていた。
実際に観てみると、半分は予想通りで、半分は嬉しい裏切りが待っていた。
監督を務めたアンドリュー・スタントン監督(ピクサー)は、バロウズへの愛情をこの映画にきちんと盛り込んでいる。
映画の序盤、ジョン・カーターが買い物をするところで、店主に黄金を突きつけたカーターは、豆(beans)を出せと大声で怒鳴る。
これはエドガー・ライス・バローズが、自分の書いた処女作が余りに突飛な作品であったために、Normal Bean(普通のソラ豆=正気の男)というペンネームでデビューしようとしたという、故野田昌宏宇宙軍大元帥がご著書で紹介してくれた有名なエピソードに引っかけた洒落だ。
もうこれだけでニヤリなのだ。嬉しいではないか。
昔のSFファンの初恋の人はだいたいデジャー・ソリスか、ジョオン・ランドールと相場が決まっているが、正気を疑われるのを覚悟で個人的な見解を申し上げれば、日本では武部本一郎画伯の挿絵の清楚さでデジャー・ソリスが半馬身ほど有利だったと思う。
鶴田謙二氏の挿絵で復活したジョオンがすごい勢いで形勢逆転したわけだが、それに関してはここで語られるべき話ではないだろう。
で、普通に考えれば、このデジャー役にハリウッドの有名美人女優をあてて興行収入を稼ぐというのが常道だろうが、ここでもスペースオペラのいい意味での「安っぽさ」を監督は尊重してくれている。
しかし、だ。
ものが「ウォルト・ディズニー生誕110周年記念作」なのだ。そんなキッチュな造りでスポンサーが納得するはずがないのである。
また、アンドリュー・スタントン監督の所属するピクサーは、集団でストーリー作りをすることで知られている。
結果物語は整理され、科学的整合性を得て、非常に安定感のある物語になった。
この安定感が「敵」なのだよ。
ジョン・カーターが火星へ移動する理屈は、原作では「不思議なことに」の一言ですましている。
これに納得行く説明を与えて、説明する画面作って、登場人物出して、とやっているうちに普通のSF映画になってくる。
そうすると今度は、重力の差で凄いジャンプが出来るということだけが優位性だったジョン・カーターに、どうしてあそこまでの大活躍ができるんだろうかという、まあこの物語の背骨ともいえる構造に亀裂を入れてしまう。
だから今度はカーターの人物造形に力を入れることになるが、その際、ピクサーの方程式に合わせるために、大切なものに執着するカーター像を作る必要があって、地球にも妻子がいたことにしなくちゃならなくなる。
唐突だし、書き込み不足と感じられてもしかたないだろう。
反面、いいこともある。
移動の根拠に使った、不思議な力を使う民族「サーン」は、原作には出てこない。
もっと後の続編に出てくるのだ。
これを地球往復のエピソードに使ったことで新しい物語の幅が出てきたと思う。
続編への自然な導入にもなるだろう。
この映画は故スティーブ・ジョブス氏に捧げられている。
続編には、唯我独尊と言われても我が道を貫いた故スティーブ・ジョブスに倣って、これがいったい誰のための映画であるべきだったのか、をもう一度考えていただきたいと心から思う。
魅力的な主人公と、SF史上に残るヒロイン、デジャー・ソリスの恋。
奇想天外な火星人社会と恐ろしくも魅力的なクリーチャーたち。
そしてなんといっても異形の火星犬ウーラの外見を裏切る忠実さと能力といったら!
めまぐるしく展開する物語構成も含めて、これが映画になるならぜひ観てみたいと、少年時代にスペースオペラに胸を熱くした者なら誰でも思うはずだ。
そしてそれは実現した。
したものの、ファンは一抹の不安を覚えたはずだ。
製作がディズニーで、2億5000万ドルを投じる「ウォルト・ディズニー生誕110周年記念作」なのだというのだから。
スペースオペラというのは、科学的根拠なんてそっちのけの荒唐無稽さが面白いのだし、安っぽい色気こそが似合うのだし、クリーチャーはグロテスクだからこそイイのである。
万人が面白いと思うようなものではないのだ。
これは中途半端なものになりそうだぞ、と多くのファンは思ったに違いないし、報道でも興行的には映画史に残る大失敗になりそうだと報じられていた。
テイラー・キッチュ ウォルト・ディズニー・ジャパン株式会社 2012-08-22
監督を務めたアンドリュー・スタントン監督(ピクサー)は、バロウズへの愛情をこの映画にきちんと盛り込んでいる。
映画の序盤、ジョン・カーターが買い物をするところで、店主に黄金を突きつけたカーターは、豆(beans)を出せと大声で怒鳴る。
これはエドガー・ライス・バローズが、自分の書いた処女作が余りに突飛な作品であったために、Normal Bean(普通のソラ豆=正気の男)というペンネームでデビューしようとしたという、故野田昌宏宇宙軍大元帥がご著書で紹介してくれた有名なエピソードに引っかけた洒落だ。
もうこれだけでニヤリなのだ。嬉しいではないか。
昔のSFファンの初恋の人はだいたいデジャー・ソリスか、ジョオン・ランドールと相場が決まっているが、正気を疑われるのを覚悟で個人的な見解を申し上げれば、日本では武部本一郎画伯の挿絵の清楚さでデジャー・ソリスが半馬身ほど有利だったと思う。
鶴田謙二氏の挿絵で復活したジョオンがすごい勢いで形勢逆転したわけだが、それに関してはここで語られるべき話ではないだろう。
で、普通に考えれば、このデジャー役にハリウッドの有名美人女優をあてて興行収入を稼ぐというのが常道だろうが、ここでもスペースオペラのいい意味での「安っぽさ」を監督は尊重してくれている。
しかし、だ。
ものが「ウォルト・ディズニー生誕110周年記念作」なのだ。そんなキッチュな造りでスポンサーが納得するはずがないのである。
また、アンドリュー・スタントン監督の所属するピクサーは、集団でストーリー作りをすることで知られている。
結果物語は整理され、科学的整合性を得て、非常に安定感のある物語になった。
この安定感が「敵」なのだよ。
ジョン・カーターが火星へ移動する理屈は、原作では「不思議なことに」の一言ですましている。
これに納得行く説明を与えて、説明する画面作って、登場人物出して、とやっているうちに普通のSF映画になってくる。
そうすると今度は、重力の差で凄いジャンプが出来るということだけが優位性だったジョン・カーターに、どうしてあそこまでの大活躍ができるんだろうかという、まあこの物語の背骨ともいえる構造に亀裂を入れてしまう。
だから今度はカーターの人物造形に力を入れることになるが、その際、ピクサーの方程式に合わせるために、大切なものに執着するカーター像を作る必要があって、地球にも妻子がいたことにしなくちゃならなくなる。
唐突だし、書き込み不足と感じられてもしかたないだろう。
反面、いいこともある。
移動の根拠に使った、不思議な力を使う民族「サーン」は、原作には出てこない。
もっと後の続編に出てくるのだ。
これを地球往復のエピソードに使ったことで新しい物語の幅が出てきたと思う。
続編への自然な導入にもなるだろう。
この映画は故スティーブ・ジョブス氏に捧げられている。
続編には、唯我独尊と言われても我が道を貫いた故スティーブ・ジョブスに倣って、これがいったい誰のための映画であるべきだったのか、をもう一度考えていただきたいと心から思う。
2013年9月16日月曜日
コニー・ウィリス「航路」:心と体はやはりどうしようもなく不可分なんだよ
現代アメリカSF界を代表するストーリー・テラー、コニー・ウィリスの大傑作「航路」は、それがヴィレッジ・ブックスから出版されていたという不幸から、広く知られていたとはいえない。
ヴィレッジ・ブックスは、2001年のソニー・マガジンズのメディア事業撤退に際して作られた後継レーベルであったが、2006年のソニー系列会社大規模リストラで会社ごと売却されてしまった。
そのような事情で、この世紀の大傑作は永い間重版されず、僕も手にとる機会がなかった。
商業出版なんだから、こういうこともあるだろう。しかし、そういう事情の犠牲になるべきでない作品というものもあるのだ。
出版という事業には「ココロザシ」が必要だ。
で、その志ある出版社のひとつである早川書房が、メインレーベルのハヤカワSF文庫から「航路」を再出版してくださった。
発売日を待ちに待って、入手。
上下巻にわたる大作で、しかもコニー・ウィリス作品なんだから、どうせ読み始めたら他のことはできなくなる。
用事のない休日を待っていてなかなか読み始められなかったが、昨日、雨の日曜日。
「今日だな」と思い定め、ページを開いた。
まったくの予想通り、夜の11時までほぼぶっ通しで読み続け読了した。
傑作なのである。
この作品に関してだけは、あらすじを書くような野暮はやめるが、これはSFのフォーマットでなければ書けなかった「心」の物語なんだと思う。
村上春樹の「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の世界の終わり側の物語を医学的考証に基づいて書いた、とでもいえばイメージしてもらえるのではないか。
言うまでもなく、心は体と一体だ。
そんな身体のメカニズムが「意志」を帯びるということの不思議を、この物語は人格の形成プロセスに仮託して描いているのだと思う。
人間が他者とともに時間の中を生きている、ということ自体が「心」の一部なのだと。
ひたすらに実験データにしがみつき、脳内物質の濃度に囚われて人間を見ることがなかった科学者と、自分の人生を足を使って振り返り、多くの人と再会し、話を聴き続けた実験助手がたどり着いた場所がどれだけ隔たっていたか!
そしてこの隔たりを文学の奇跡で埋めてしまわなかった作者の英断にも拍手を贈りたい。
そんなことをしたら、文学史にきっと残る、あの最後の一文が生まれなかっただろうから。
この一文が指し示す心のありようこそ、僕が「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」のラスト・シーンに欠けていると感じていたものだ。
それまでの記憶や、関わった者たちの想いを背負ってひとつの世界となった「心」が消えて行く時に必要なものは、運命への諦念ではないはずだ。
そして僕にも、「その時」は来る。
その時、彼女のように力強い「祈り」の言葉が僕の中からも出てくるといいと思う。
ヴィレッジ・ブックスは、2001年のソニー・マガジンズのメディア事業撤退に際して作られた後継レーベルであったが、2006年のソニー系列会社大規模リストラで会社ごと売却されてしまった。
そのような事情で、この世紀の大傑作は永い間重版されず、僕も手にとる機会がなかった。
商業出版なんだから、こういうこともあるだろう。しかし、そういう事情の犠牲になるべきでない作品というものもあるのだ。
出版という事業には「ココロザシ」が必要だ。
で、その志ある出版社のひとつである早川書房が、メインレーベルのハヤカワSF文庫から「航路」を再出版してくださった。
発売日を待ちに待って、入手。
上下巻にわたる大作で、しかもコニー・ウィリス作品なんだから、どうせ読み始めたら他のことはできなくなる。
用事のない休日を待っていてなかなか読み始められなかったが、昨日、雨の日曜日。
「今日だな」と思い定め、ページを開いた。
まったくの予想通り、夜の11時までほぼぶっ通しで読み続け読了した。
傑作なのである。
この作品に関してだけは、あらすじを書くような野暮はやめるが、これはSFのフォーマットでなければ書けなかった「心」の物語なんだと思う。
村上春樹の「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の世界の終わり側の物語を医学的考証に基づいて書いた、とでもいえばイメージしてもらえるのではないか。
言うまでもなく、心は体と一体だ。
そんな身体のメカニズムが「意志」を帯びるということの不思議を、この物語は人格の形成プロセスに仮託して描いているのだと思う。
人間が他者とともに時間の中を生きている、ということ自体が「心」の一部なのだと。
ひたすらに実験データにしがみつき、脳内物質の濃度に囚われて人間を見ることがなかった科学者と、自分の人生を足を使って振り返り、多くの人と再会し、話を聴き続けた実験助手がたどり着いた場所がどれだけ隔たっていたか!
そしてこの隔たりを文学の奇跡で埋めてしまわなかった作者の英断にも拍手を贈りたい。
そんなことをしたら、文学史にきっと残る、あの最後の一文が生まれなかっただろうから。
この一文が指し示す心のありようこそ、僕が「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」のラスト・シーンに欠けていると感じていたものだ。
それまでの記憶や、関わった者たちの想いを背負ってひとつの世界となった「心」が消えて行く時に必要なものは、運命への諦念ではないはずだ。
そして僕にも、「その時」は来る。
その時、彼女のように力強い「祈り」の言葉が僕の中からも出てくるといいと思う。
2013年9月10日火曜日
トマス・H・クック「ローラ・フェイとの最後の会話」:時が満ちてこそ気付く親子の愛情の盲目性こそがこのミステリのトリックである
自分に娘ができ、子育てに悩み、成長に喜ぶ日々を送ってみると、自分がいかに両親に愛されて育てられたかに気付く。
そして子どもの頃、思うようにならないことのすべてを親のせいにしてみたり、感謝すべきことにも、親が子どもを育てるのは当たり前のことさ、とうそぶいてみせた自分が恥ずかしくてたまらない気持ちになる。
親子の愛情とはまるで時間に隔てられたマジックミラーのようだ。
時が満ちなければ決して見ることができない。
トマス・H・クックの「ローラ・フェイとの最後の会話」では、この不思議な盲目性をミステリの構造の中に隠し持っている。
物語の主人公ルークはアラバマ州グレンヴィルという田舎町の高校で抜きんでた秀才ということで知られていた。担任はハーバードへの進学を薦め、市長の推薦も受けた。
彼の夢は市井の人々を生き生きと描いた小説を書いて世間に認められることだった。
そしてハーバードから入学許可の通知が来る、しかし肝心の奨学金は認められなかった。
父親はだらしない性格で、流行らないバラエティ・ストアを開いていた。雑貨屋そのままに、商品の整理も出来ていない、父親の性格そのもののような雑然とした店だった。
母は体が弱く、そのころはもう回復の見込みの無い病気に蝕まれていた。
ルークは店員の女(ロ-ラ・フェイ)と父の関係を疑っていた、倉庫を探って浮気を確信した。そして愛して尊敬する母をいっそう不憫に思っていた。
そして父が射殺される。犯人はローラ・フェイの別居中の夫でウディという男だった。
父の保険金が20万ドルあると聞いてルークは胸をなでおろす。
受取人の母はそれを自分の進学資金に充ててくれるだろう。
ところが父は亡くなる二ヶ月も前に保険も解約して、手にしたという三万ドルもなくなっていた。負債を抱えていた父の死後、債権者に店も品物も母の貯金も渡ってしまう。
彼は絶望して途方にくれた。
しかし重病だった母が亡くなり、家を売って学費が出来た。
ルークはハーバードを出たが、思い通りの本は書けなかった。
しかし何冊か本を出し、小さい大学で小さな講座を持ち、時々は地味な講演を頼まれる。夢に描いた姿とは程遠いが、今回も自分の新刊本を並べてサイン会の席に座っている。
そんなとき、講演先のセントルイスに彼女は現れた。
27歳の若さに輝いて父を誘惑した娘は、老いの影の忍び寄った47歳の太目の女になっていた。
彼女はル-クに話があるといい、気が乗らないままにルークはホテルのラウンジに誘う。
ローラ・フェイは馴染みのないカクテルを前に、話し始める。彼女はその後事件を追って調べつくしていた。
ルークは謂れの無い緊張感とおびえを感じる。彼の過去はそういうものと「輝かしい青春」が混在するものであったが、すべては思い出したくないものだった。
ローラは「ルークの旅路」に迫ってくる。ほのかな当てこすりと、遠まわしな感想。それはルークの傷をまた開かせる時間だった。
そして、過去のあの時、事件の原因と結果が、二人の前に真実の光景を広げてみせる。
その二人の謎に満ちた会話の中にクックがしかけたいくつものミスリードをかいくぐり、話題の一つごとに明らかになっていく嘘に翻弄され、辿り着いた結末がもたらす不思議な感動は、ミステリのそれではなく、スタインベックの諸作から感じられるものに似ている。
結局のところこの作品に書かれているのは「謎=ミステリ」ではない。
「愛情」そのものだ。
その愛情そのものが、内包する時間軸をも味方につけて我々を欺く謎なのだ。
短いエンディングを読み終えた後、それまでこの物語に感じていた重苦しさは姿を消し、不思議にシーリア・フレムリンの中編のような、とても愛らしい、人間の良心のようなものにほっとする、いつまでも手元に置いておきたい書物に見えてくるのだ。
アメリカ・サスペンス・ミステリの懐の深さを感じる一冊だ。
そして子どもの頃、思うようにならないことのすべてを親のせいにしてみたり、感謝すべきことにも、親が子どもを育てるのは当たり前のことさ、とうそぶいてみせた自分が恥ずかしくてたまらない気持ちになる。
親子の愛情とはまるで時間に隔てられたマジックミラーのようだ。
時が満ちなければ決して見ることができない。
トマス・H・クックの「ローラ・フェイとの最後の会話」では、この不思議な盲目性をミステリの構造の中に隠し持っている。
物語の主人公ルークはアラバマ州グレンヴィルという田舎町の高校で抜きんでた秀才ということで知られていた。担任はハーバードへの進学を薦め、市長の推薦も受けた。
彼の夢は市井の人々を生き生きと描いた小説を書いて世間に認められることだった。
そしてハーバードから入学許可の通知が来る、しかし肝心の奨学金は認められなかった。
父親はだらしない性格で、流行らないバラエティ・ストアを開いていた。雑貨屋そのままに、商品の整理も出来ていない、父親の性格そのもののような雑然とした店だった。
母は体が弱く、そのころはもう回復の見込みの無い病気に蝕まれていた。
ルークは店員の女(ロ-ラ・フェイ)と父の関係を疑っていた、倉庫を探って浮気を確信した。そして愛して尊敬する母をいっそう不憫に思っていた。
そして父が射殺される。犯人はローラ・フェイの別居中の夫でウディという男だった。
父の保険金が20万ドルあると聞いてルークは胸をなでおろす。
受取人の母はそれを自分の進学資金に充ててくれるだろう。
ところが父は亡くなる二ヶ月も前に保険も解約して、手にしたという三万ドルもなくなっていた。負債を抱えていた父の死後、債権者に店も品物も母の貯金も渡ってしまう。
彼は絶望して途方にくれた。
しかし重病だった母が亡くなり、家を売って学費が出来た。
ルークはハーバードを出たが、思い通りの本は書けなかった。
しかし何冊か本を出し、小さい大学で小さな講座を持ち、時々は地味な講演を頼まれる。夢に描いた姿とは程遠いが、今回も自分の新刊本を並べてサイン会の席に座っている。
そんなとき、講演先のセントルイスに彼女は現れた。
27歳の若さに輝いて父を誘惑した娘は、老いの影の忍び寄った47歳の太目の女になっていた。
彼女はル-クに話があるといい、気が乗らないままにルークはホテルのラウンジに誘う。
ローラ・フェイは馴染みのないカクテルを前に、話し始める。彼女はその後事件を追って調べつくしていた。
ルークは謂れの無い緊張感とおびえを感じる。彼の過去はそういうものと「輝かしい青春」が混在するものであったが、すべては思い出したくないものだった。
ローラは「ルークの旅路」に迫ってくる。ほのかな当てこすりと、遠まわしな感想。それはルークの傷をまた開かせる時間だった。
そして、過去のあの時、事件の原因と結果が、二人の前に真実の光景を広げてみせる。
その二人の謎に満ちた会話の中にクックがしかけたいくつものミスリードをかいくぐり、話題の一つごとに明らかになっていく嘘に翻弄され、辿り着いた結末がもたらす不思議な感動は、ミステリのそれではなく、スタインベックの諸作から感じられるものに似ている。
結局のところこの作品に書かれているのは「謎=ミステリ」ではない。
「愛情」そのものだ。
その愛情そのものが、内包する時間軸をも味方につけて我々を欺く謎なのだ。
短いエンディングを読み終えた後、それまでこの物語に感じていた重苦しさは姿を消し、不思議にシーリア・フレムリンの中編のような、とても愛らしい、人間の良心のようなものにほっとする、いつまでも手元に置いておきたい書物に見えてくるのだ。
アメリカ・サスペンス・ミステリの懐の深さを感じる一冊だ。
2013年8月28日水曜日
島田荘司「改訂完全版 占星術殺人事件」:何度読んでも面白い推理小説、ここにあります
同じ推理小説を何度も読む、という人はそう多くはいないだろう。
犯人がすでにわかっているのでは、その本を読む動機のほとんどが失われているわけだから当然だ。
しかし、世の中には再読に堪える推理小説というものが稀に存在する。
シャーロック・ホームズの諸作は別格で措くとして、ジョン・ディクスン・カーの「火刑法廷」やウィリアム・アイリッシュの「幻の女」、ここにチャンドラーの「ロング・グッドバイ」を付け加えてもいいかもしれない。
日本でなら京極夏彦の「魍魎の匣」や奥泉光の「鳥類学者のファンタジア」などがそれにあたるか。
それらの本は、一たび気まぐれに本棚から取り出してページを開けば、その独特の匂いを放ちながら世界を構築していく文体に絡め取られて、次へ次へと読まされてしまう。
そんな時、僕の中の理性的な部分では、「あ、犯人が出てきたな」とか、「お、トリックへの伏線だ」などと認識しているのだが、物語を楽しんでいるもう一人の僕は、「ああ、犯人はいったい誰なんだろう」「いったいどうやったんだろう」と矛盾なく探偵の謎解きに参加しているのだ。
この推理の過程を文学の主題としたものが推理小説なのであるから、何度読んでも推理の過程が面白いと感じられないなら、それはすなわち推理小説として二流であるということになるまいか。
例えば、父フョードルを誰が殺したのか、という興味が結末まで読者を長い旅に誘う「カラマーゾフの兄弟」を推理小説だという人はいないだろう。
そして犯人が誰かがわかった後でも、何度も何度も再読してその度に違う印象を受け取ることができる良質の文学であることを否定する人もいないだろう。
推理小説の場合も事情はまったく同じだと思う。
探偵が、その天才的な直感で証言の矛盾を突く一瞬の見事な描写や、思いもよらないトリックを、気付き難い状況的証拠から天啓を得たかのように導く思考に酔う。
これこそが、推理を主題とした文学、推理小説の真の醍醐味であり、その文学的感興は、たとえ犯人が予めわかっていたとしても削がれることはないはずなのである。
しかし、その感興の一部を犯人の意外さが形作っていることが多いこのジャンルでは、それを超えて、文学的資質のみをもって読者を推理の興奮に誘う力量を持った作品が数少ないのは、これまたやむを得ないことだと思うのだ。
そして僕にとって、犯人がわかっていてもいささかも魅力を減じない最右翼の作品が島田荘司先生の「占星術殺人事件」である。
現在刊行中の島田荘司全集に改訂、収録されていた「完全改訂版 占星術殺人事件」が、講談社文庫にも収録されることとなり、さっそくこれを買い求めて一瞬も躊躇せず読み始め、ほぼノンストップで読了。
四度目の通読になるが、まったく色褪せない感動を得た。
作品中、三つの手記が物語のコアになるが、読んでいて別々の人間によって書かれたことがはっきりわかるくらい魂のカタチの透けてくる「入り込んだ」書きぶり。
前半の探偵の迷走が、読者をも迷宮に誘い、これには合理的な解決はないだろう、と思わせて、セロハンテープ一本でその印象のすべてをぐるんとひっくり返してみせる見事な力技。
これ以上ないほど意外な犯人が姿をあらわす時のあの寂寞感。
どこをとっても読むことの喜びに満ちている。
その世界に入り込んだこと自体がとても幸せな体験に感じられる特別な小説だ。
僕はあとどのくらいこのような小説に出会えるだろうか。
犯人がすでにわかっているのでは、その本を読む動機のほとんどが失われているわけだから当然だ。
しかし、世の中には再読に堪える推理小説というものが稀に存在する。
シャーロック・ホームズの諸作は別格で措くとして、ジョン・ディクスン・カーの「火刑法廷」やウィリアム・アイリッシュの「幻の女」、ここにチャンドラーの「ロング・グッドバイ」を付け加えてもいいかもしれない。
日本でなら京極夏彦の「魍魎の匣」や奥泉光の「鳥類学者のファンタジア」などがそれにあたるか。
それらの本は、一たび気まぐれに本棚から取り出してページを開けば、その独特の匂いを放ちながら世界を構築していく文体に絡め取られて、次へ次へと読まされてしまう。
そんな時、僕の中の理性的な部分では、「あ、犯人が出てきたな」とか、「お、トリックへの伏線だ」などと認識しているのだが、物語を楽しんでいるもう一人の僕は、「ああ、犯人はいったい誰なんだろう」「いったいどうやったんだろう」と矛盾なく探偵の謎解きに参加しているのだ。
この推理の過程を文学の主題としたものが推理小説なのであるから、何度読んでも推理の過程が面白いと感じられないなら、それはすなわち推理小説として二流であるということになるまいか。
例えば、父フョードルを誰が殺したのか、という興味が結末まで読者を長い旅に誘う「カラマーゾフの兄弟」を推理小説だという人はいないだろう。
そして犯人が誰かがわかった後でも、何度も何度も再読してその度に違う印象を受け取ることができる良質の文学であることを否定する人もいないだろう。
推理小説の場合も事情はまったく同じだと思う。
探偵が、その天才的な直感で証言の矛盾を突く一瞬の見事な描写や、思いもよらないトリックを、気付き難い状況的証拠から天啓を得たかのように導く思考に酔う。
これこそが、推理を主題とした文学、推理小説の真の醍醐味であり、その文学的感興は、たとえ犯人が予めわかっていたとしても削がれることはないはずなのである。
しかし、その感興の一部を犯人の意外さが形作っていることが多いこのジャンルでは、それを超えて、文学的資質のみをもって読者を推理の興奮に誘う力量を持った作品が数少ないのは、これまたやむを得ないことだと思うのだ。
そして僕にとって、犯人がわかっていてもいささかも魅力を減じない最右翼の作品が島田荘司先生の「占星術殺人事件」である。
現在刊行中の島田荘司全集に改訂、収録されていた「完全改訂版 占星術殺人事件」が、講談社文庫にも収録されることとなり、さっそくこれを買い求めて一瞬も躊躇せず読み始め、ほぼノンストップで読了。
四度目の通読になるが、まったく色褪せない感動を得た。
作品中、三つの手記が物語のコアになるが、読んでいて別々の人間によって書かれたことがはっきりわかるくらい魂のカタチの透けてくる「入り込んだ」書きぶり。
前半の探偵の迷走が、読者をも迷宮に誘い、これには合理的な解決はないだろう、と思わせて、セロハンテープ一本でその印象のすべてをぐるんとひっくり返してみせる見事な力技。
これ以上ないほど意外な犯人が姿をあらわす時のあの寂寞感。
どこをとっても読むことの喜びに満ちている。
その世界に入り込んだこと自体がとても幸せな体験に感じられる特別な小説だ。
僕はあとどのくらいこのような小説に出会えるだろうか。
2013年8月25日日曜日
浅田次郎「終わらざる夏」:人と人が殺しあう場所に、一片の正義だってあるはずがない
高校を卒業するまでを釧路で過ごした。
だから北方領土のことは他人事ではなかった。
大恩ある先生から、ラーゲリに収容された経験をお聞きしたこともある。
尊厳を奪われるということが、どんなに怖ろしいことか想像しただけで身が震えた。
だから、浅田次郎さんの「終わらざる夏」はどうしても読まなければならぬ、という思いと、人間の心の奥に巣食う真っ暗な怖ろしい淵を覗きこむ経験にしり込みする気持ちの間で迷っていた。
どうにもきな臭い世情が、少しずつ少しずつ現実に近づいてくるのを感じるたび、もう逃げられないという気分になって、そんな時、書店に文庫化された「終わらざる夏」が平積みになっているのを見て、意を決して手にとった。
ここに書かれているのは、国家と国家の事情に翻弄される人々の営みだが、結局、国家も人である。
民間人の女学生の撤退を検討しながらも、軍の理屈でしか動かない会議に、操船兵が発した「どいつもこいつも、人間と鮭缶を一緒くたにしやがって、あげくにこんな簡単な道理がまだわからねえんか」という叫びが耳に痛い。
我々は、どうしたって組織に所属するとその論理で動く傾向がある。
それは、自分が下さねばならない判断の責任が、組織と半分ずつになるような気がするからなのだと僕はいつも思っていた。
でも責任って何なんだ。
よく責任をとって社長を辞任するとか、退職するなどと言うが、そんなことで責任をとったことになるのか。その被害にあった人から見れば「溜飲が下がる」以外にどんな実益もなく、失われたものは取り戻しようがないのである。
だから結局どんなことも個人の覚悟の集積で出来ている。
失ったものは戻らないという覚悟を背負えるほどの責任の対象として、「終わらざる夏」は一貫して「家族」を描く。
すべての行動が愛に発し、すべての思いが矛盾なく無償で、犠牲と愛が同義の言葉になるたったひとつの絆「家族」
どう言い繕おうとも兵士は殺人者である。
家族を殺人者にしたくない。もちろん自分もそうなりたくない。
こんな簡単な真理より大事な「国益」なんてあるはずがない。
我々の心の基盤である「家族」の平穏こそが最大の「国益」なのだ。
人と人が殺しあう場所に、一片の正義だってあるはずがないのだ。
だから絶対に戦争だけはしてはいかん、という決意を。
隣国が攻めてきたらどうするのだ、という仮定すら許さない強い意思を。
その時に出来るありったけの誠意と、人間を信じる心で、最後の一瞬まで理解し合うことを諦めない覚悟を。
第二次世界大戦では、日本の多くの文士が戦争を支持した。
そして敗戦後、戦争否定に転向した。
僕は大学で文学と哲学を学んだ。
卒業してからも多くの文学に触れ、哲学に触発された。
だから、本来、戦争に向かう国を押しとどめる役割を担うべき文学が、先の大戦でまるきり役に立たなかったことが悔しい。
ようやく戦中文壇の過ちに落とし前をつけてくれたこの傑作戦争文学を深く胸に刻みつけて、これからの平坦ならざる世を、人間を見つめて生きていきたいと思う。
だから北方領土のことは他人事ではなかった。
大恩ある先生から、ラーゲリに収容された経験をお聞きしたこともある。
尊厳を奪われるということが、どんなに怖ろしいことか想像しただけで身が震えた。
だから、浅田次郎さんの「終わらざる夏」はどうしても読まなければならぬ、という思いと、人間の心の奥に巣食う真っ暗な怖ろしい淵を覗きこむ経験にしり込みする気持ちの間で迷っていた。
どうにもきな臭い世情が、少しずつ少しずつ現実に近づいてくるのを感じるたび、もう逃げられないという気分になって、そんな時、書店に文庫化された「終わらざる夏」が平積みになっているのを見て、意を決して手にとった。
ここに書かれているのは、国家と国家の事情に翻弄される人々の営みだが、結局、国家も人である。
民間人の女学生の撤退を検討しながらも、軍の理屈でしか動かない会議に、操船兵が発した「どいつもこいつも、人間と鮭缶を一緒くたにしやがって、あげくにこんな簡単な道理がまだわからねえんか」という叫びが耳に痛い。
我々は、どうしたって組織に所属するとその論理で動く傾向がある。
それは、自分が下さねばならない判断の責任が、組織と半分ずつになるような気がするからなのだと僕はいつも思っていた。
でも責任って何なんだ。
よく責任をとって社長を辞任するとか、退職するなどと言うが、そんなことで責任をとったことになるのか。その被害にあった人から見れば「溜飲が下がる」以外にどんな実益もなく、失われたものは取り戻しようがないのである。
だから結局どんなことも個人の覚悟の集積で出来ている。
失ったものは戻らないという覚悟を背負えるほどの責任の対象として、「終わらざる夏」は一貫して「家族」を描く。
すべての行動が愛に発し、すべての思いが矛盾なく無償で、犠牲と愛が同義の言葉になるたったひとつの絆「家族」
どう言い繕おうとも兵士は殺人者である。
家族を殺人者にしたくない。もちろん自分もそうなりたくない。
こんな簡単な真理より大事な「国益」なんてあるはずがない。
我々の心の基盤である「家族」の平穏こそが最大の「国益」なのだ。
人と人が殺しあう場所に、一片の正義だってあるはずがないのだ。
だから絶対に戦争だけはしてはいかん、という決意を。
隣国が攻めてきたらどうするのだ、という仮定すら許さない強い意思を。
その時に出来るありったけの誠意と、人間を信じる心で、最後の一瞬まで理解し合うことを諦めない覚悟を。
第二次世界大戦では、日本の多くの文士が戦争を支持した。
そして敗戦後、戦争否定に転向した。
僕は大学で文学と哲学を学んだ。
卒業してからも多くの文学に触れ、哲学に触発された。
だから、本来、戦争に向かう国を押しとどめる役割を担うべき文学が、先の大戦でまるきり役に立たなかったことが悔しい。
ようやく戦中文壇の過ちに落とし前をつけてくれたこの傑作戦争文学を深く胸に刻みつけて、これからの平坦ならざる世を、人間を見つめて生きていきたいと思う。
2013年8月17日土曜日
マリリン・モンローは「イヴの総て」で観よう
名画「イヴの総て」を知ったのは、コニー・ウィリス経由だった。
現代アメリカSFの女王と言っていい作家、コニー・ウィリスの特集がSFマガジンの2013年7月号に組まれ、そこに掲載された短編「エミリーの総て」が面白いよ、でも「イヴの総て」という映画を下敷きにして作られてるから出来れば、映画を観てから読んだほうがいい、と友人から聞いたのだ。
その映画を観るのにまずは一苦労した。
まず近所のTSUTAYAに行くも「お取り扱いありません」と。
仕方ない、名画らしいし買っちゃおうと調べてみるも現在はワンコイン版しか生産していない。
僕はあのワンコイン版で映画を観ると、映画そのものがみすぼらしく思えてしまう質で、すでに生産を終えたスタジオ・クラシックス版の在庫を求めてタワー・レコードまで出かけたが、既に在庫はなく、最後の手段のワンコイン版すらも大手書店にも見当たらない。
困ったなあ、と思っていると件の友人が、スタジオ・クラシックス版を貸してくれて、やっと観ることが出来た。
持つべきものは善き友である。
さて、「イヴの総て」と言うからにはアン・バートン演じるイヴ・ハリントンが、手をつくして演劇界でのし上がっていくサクセス・ストーリーかと思いきや、いやまあそれでもあながち間違ってはいないのだが、何しろベティ・デイヴィスがすごいのだ。
ベティ・デイヴィスという女優さんの出演作を僕は「八月の鯨」しか観ていなくて、往年の名女優が実年齢の役で出演し人生の黄昏を演じるというコンセプトを十全に味わえなかったわけだが、ここでやっと全盛期のベティ・デイヴィスに出会えた。
ここでも彼女は現実に近い役を与えられ、全盛期であるがゆえにこの後訪れる衰えを恐れている。
しかし、愛や生というものはその時々のものを慈しめば良いのだと気づいてから「別人」のようになる、という演技が本当に別人になってしまったようなのだ。
その時のベティ演じるマーゴ・チャニングは本当に光り輝いて見えた。
その鏡像のように、印象を変えていくイヴもベティの演技あってのものだろう。
それに、この映画でチャンスを掴んでブレイクしていくマリリン・モンローの纏うこの特別な空気感は何だろう。
そこにいるだけで場の空気をさっと攫っていってしまう。
その後の主演作では観ることのできなくなった、スペシャルなマリリンがここにいる。
この映画に用意された台詞は、どれもハイセンスなユーモア精神によって磨きぬかれたもので、聞いていると「舞台芸術っていいもんだなあ」と思わされる。
演出家役や脚本家役が時折興奮ぎみに語る演劇論も実にいい。
人気商売ゆえのいろいろもあったりするんだけど、やっぱり舞台っていいよね、という演劇賛歌なのだと思う。
現代アメリカSFの女王と言っていい作家、コニー・ウィリスの特集がSFマガジンの2013年7月号に組まれ、そこに掲載された短編「エミリーの総て」が面白いよ、でも「イヴの総て」という映画を下敷きにして作られてるから出来れば、映画を観てから読んだほうがいい、と友人から聞いたのだ。
その映画を観るのにまずは一苦労した。
まず近所のTSUTAYAに行くも「お取り扱いありません」と。
仕方ない、名画らしいし買っちゃおうと調べてみるも現在はワンコイン版しか生産していない。
僕はあのワンコイン版で映画を観ると、映画そのものがみすぼらしく思えてしまう質で、すでに生産を終えたスタジオ・クラシックス版の在庫を求めてタワー・レコードまで出かけたが、既に在庫はなく、最後の手段のワンコイン版すらも大手書店にも見当たらない。
困ったなあ、と思っていると件の友人が、スタジオ・クラシックス版を貸してくれて、やっと観ることが出来た。
持つべきものは善き友である。
さて、「イヴの総て」と言うからにはアン・バートン演じるイヴ・ハリントンが、手をつくして演劇界でのし上がっていくサクセス・ストーリーかと思いきや、いやまあそれでもあながち間違ってはいないのだが、何しろベティ・デイヴィスがすごいのだ。
ベティ・デイヴィスという女優さんの出演作を僕は「八月の鯨」しか観ていなくて、往年の名女優が実年齢の役で出演し人生の黄昏を演じるというコンセプトを十全に味わえなかったわけだが、ここでやっと全盛期のベティ・デイヴィスに出会えた。
ここでも彼女は現実に近い役を与えられ、全盛期であるがゆえにこの後訪れる衰えを恐れている。
しかし、愛や生というものはその時々のものを慈しめば良いのだと気づいてから「別人」のようになる、という演技が本当に別人になってしまったようなのだ。
その時のベティ演じるマーゴ・チャニングは本当に光り輝いて見えた。
その鏡像のように、印象を変えていくイヴもベティの演技あってのものだろう。
それに、この映画でチャンスを掴んでブレイクしていくマリリン・モンローの纏うこの特別な空気感は何だろう。
そこにいるだけで場の空気をさっと攫っていってしまう。
その後の主演作では観ることのできなくなった、スペシャルなマリリンがここにいる。
この映画に用意された台詞は、どれもハイセンスなユーモア精神によって磨きぬかれたもので、聞いていると「舞台芸術っていいもんだなあ」と思わされる。
演出家役や脚本家役が時折興奮ぎみに語る演劇論も実にいい。
人気商売ゆえのいろいろもあったりするんだけど、やっぱり舞台っていいよね、という演劇賛歌なのだと思う。
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