2014年5月30日金曜日

伊藤計劃×円城塔「屍者の帝国」について

伊藤計劃が、残したA4一枚の遺稿をプロローグとして、盟友円城塔が本編を書き継いだ「屍者の帝国」だが、正直、伊藤計劃の遺稿として読むと肩すかしを食う。

物語的感興がない。
どこへ連れて行かれるのか、知りたくてしかたない、という気持ちになれない。
それは、本作での円城の文章が、全体的に章末にて読者を突き放しているからではないか、と思う。

これは引用なんだから、何が言いたいのか書かなくてもわかるよね、と言って一番大事な事をぼやかす。
もちろんそういう表現はあっていいのだ。
が、技法には使いドコロというものがある。

ここに引用されている膨大な文芸作品の世界観を理解していなくても、作品の最後まで読者を連れて行くのが小説家の作法というものではないか。
これでは曲がり角ごとの案内板に曖昧なカタチの矢印がついているようなもので、迷子になってしまう。

僕はこの本で章が変わる度に、新しい本を読み始めたような気分になって、その度作品世界から引き剥がされ、ついに本の中に入り込めないままラストシーンを迎えてしまった。


で、ここからはちょっとネタバレだが、この本は、「ダーウィンが信じた道―進化論に隠されたメッセージ」というドキュメンタリーにそっくりだ。
読後気がついて、読み返してみると、このノンフィクションを<ノベライゼーション>すると「屍者の帝国」になるんじゃないか、と思ったくらいだ。

ダーウィンが信じた道―進化論に隠されたメッセージ
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主人公がワトソンだし、登場人物がみんな文芸上の架空の人物なので気付かないが、「屍者の帝国」中、最も重要なキャラクタは実在の人物ダーウィンで間違いない。

2009年に発表されたこの本は、それまであまり知られていなかったダーウィンという研究者の本当の姿を、そして進化論の本当の<動機>を教えてくれて衝撃的だった。
で、その波瀾万丈のダーウィン家の運命劇が、実にドラマティックで面白いのだ。
そして登場人物はかなり「屍者の帝国」とかぶっている。

僕は、「屍者の帝国」を読んだ後、こちらを読み返しているが、読めば読むほど、どちらが「物語」なのか、わからなくなってくる。


2014年5月25日日曜日

「木野」(村上春樹短篇集「女のいない男たち」収録)について

まえがきに書かれているとおり、この「木野」という小説は「ドライブ・マイ・カー」と同時期に書かれている。

そしてこの二編にはどちらも「火のついた煙草」が登場する。

「ドライブ・マイ・カー」では、この時代にはもう失われかけている人間のたくましさとかおおらかさの象徴として。
「木野」では、人間の底意に忍ばされた悪意や残忍さのようなものの象徴として。

そしてどちらの主人公も煙草そのものについては「好ましからざるもの」として扱い、しかしそれとの関わりを断ち切れない人間、の方は受け入れている。

人間の心には、このようにすっきりとは割り切れないところがある。
それがふとしたことで、良い方に転んだり、思いもしない事態を招いたりする。
考えても仕方がない。
そのために神頼み、という心の持ちようがある、ということだ。

中盤での「蛇」の登場は太宰の「斜陽」を思わせるが、斜陽での母蛇はかず子が蛇の卵を焼いたことに呼応して登場する。
母親に強く依存するかず子が、自身の隠喩である<卵>を焼く。
貴族という<時代>の継承を拒むことの表象である。
そのことに呼応して母蛇が現れたことは、 蛇が倫理や道徳の守り手であることを意味している。

その蛇は、BAR木野にも現れた。

この時代に再び現れた<蛇>が拒んだものが、火のついた煙草の表象する不道徳ではなく、むしろ自分自身を抑圧する<演技>であったということは、いかにも象徴的ではある。
確かに、現代という時代は、人による傷つかないための絶え間ない<演技>の集成によるものだ。
この部分でも「木野」は「ドライブ・マイ・カー」に呼応している。
「イエスタデイ」でも、「シェエラザード」でも<演技>は物語の重要なモティーフになっている。

僕自身が自分の人生で繰り返してきた、そしてまたこれからも演じ続ける<演技>のことを、この短篇集を読んでいる間中、僕は意識せざるを得なかった。

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2014年5月9日金曜日

「独立器官」(村上春樹短篇集「女のいない男たち」収録)について

村上春樹の短篇集「女のいない男たち」に収録の第三編「独立器官」のタイトルを見て、伊藤計劃の「虐殺器官」を思い出したのは僕だけではないだろうが、村上春樹が読むような小説ではない。偶然だろう。
しかし、器官の機能に奇妙な一致もあって興味深い。

さてこの物語は、一言でいえば「自分は何者であるか」という問いについての物語であるといえる。
渡会医師が、「自分は何者か」と考え始めるきっかけになったユダヤ人医師の本とはやはりフランクルの「夜と霧」だろうか。
内科医と精神科医のように細部は異なっているので、別に出典があるのかもしれないが、この著名なホロコースト生還者の手記は、渡会医師の衝撃を想像する手がかりになると思う。
著者のフランクルは、戦時下の強制収容所という極限状態の中で、自らも囚人でありながら冷静な学者の目で観察する。その目が、「人間」というものの姿を浮き彫りにしていく。
自分に対しての理解は、いつも他者の姿からやってくるのだ。

しかし他者の姿が、自分の理解を得るたったひとつの方法だったとしても、ただ見ているだけでは他者の姿が見えるだけだ。
その間にフィルタになる「鏡」がいるのである。
フランクルの場合のそれは精神科医としての専門知識だった。
しかし普通、人はそのようなユニバーサルな鏡を持っていない。

だから、我々は、貴方は何者か、と問うことから始めるほかない。
だが、自分が何者かわからないのに、貴方は何者か、と問うことはできるだろうか。
それができないのだとすれば、貴方が何者であってもかまいません、と表明する以外に他者と関係を結ぶことはできないだろう。
この無保留の受容の関係を<愛>というのだと思う。
そして、その<愛>についての理解は、自分が何者であるかすらも包括して受容する。

物語で、医師である渡会と、作家の谷村の二人が、ジムで行うスポーツがスカッシュであるのはおそらく偶然ではない。
壁に向かって、二人がボールを打ち合う姿は、まるである種のフィルタを通してお互いを理解していく過程のようだ。
そして、バーに移っても続けられる、対話による<スカッシュ>のさなか、渡会医師は谷村に「自分が何者であるかわからない」と告げるのだ。

複数の女性の間を巧みに立ちまわる渡会医師が、突然陥った恋愛に胸を痛める少年のような告白は、読者にとってはコメディー以外の何ものでもなかったはずだ。
しかしご本人にとっては、もちろんコメディーではない。
これは、恋を「独立器官」にまかせていた報いなのである。
つまり<愛>の理解のサイクルに自分自身への受容を含んで来なかったことへの報い。

そして、医師は、女性は皆、嘘を吐くための「独立器官」を持っていると言っていた。
これこそは、無保留の受容の対極にある態度である。
つまり彼は人を愛することそのものを“知らなかった”。
それでも彼が、恋を自身の「独立器官」にまかせているうちはまだよかった。
しかし、はじめて本当の愛を知り、そしてその愛をこともあろうに、とびっきりの独立器官謹製の“嘘”に撃ちぬかれたのである。
自分自身を受容する機会さえ、彼は永遠に喪ってしまったのだ。

人ごとではないのかもしれない。
僕らもきっと、程度の差こそあれ、このような独立器官を自分の心に持っているはずだ。
そうでなければ恋をするのも命がけになってしまう。
心から信じあえる人とでなければ何もできないという人生は、想像もつかないほど窮屈なものになるだろう。

このような他律性とどのように折り合っていくのかを識ることが、もしかしたら医師の望んでいた「自分が何者か」を知るということだったのかもしれない。

2014年5月8日木曜日

「イエスタデイ」(村上春樹短篇集「女のいない男たち」収録)について

村上春樹の新作短篇集「女のいない男たち」に第二編として収録された「イエスタデイ」は、
「昨日は/あしたのおとといで/おとおいのあしたや」
という、ビートルズ「イエスタデイ」の関西弁による創作訳詞ではじまる。

僕は読んでいないが、文藝春秋誌に掲載された時は、作者村上春樹による歌全体の訳詞が掲載されていたそうだが、中頓別騒動と同じように、こちらにも著作権代理人からクレームがついていたそうだ。
で、単行本収録時には、冒頭の部分だけを収録したようだ。
まあ、この印象的な冒頭部で、充分に、この<替え歌>を風呂で歌う男、木樽の奇矯さは伝わってくる。

「イエスタデイ」に登場する木樽と幼馴染のガールフレンドのことを考えると、カンガルー日和という初期の短編集の中でも特に人気の高い「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」を思い出す。

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両作品に通底して響く「運命的なものを拒絶する」という態度はいったい人間の真摯さなのか、それとも臆病さなのか。

例えば、血を分けた親子の関係ならば、それは疑いなく運命といえる。子は自分の親を選ぶことができない。だからこそ、子は自分に降りかかる不運をすべて親のせいにして「イノセント」な存在であることができる。ひとつの強い運命の絆を傘にして、他のすべての不運の責任から守られる(疎外される)存在を「子ども」という。
そしていつか子どもは、自分が歩んでいく道を自分で選ぼうとする時、それと引き換えに今まで親のせいにしてきたすべてを自分のものとして引き受けていく覚悟を学ぶのだ。
「運命的」という言葉そのものに、そのような疎外性が含まれているのだ。

だから、その覚悟がないまま、運命的なカップルになってしまった木樽とえりか(彼の幼馴染)は、(「100パーセント」のカップルと同じように)そのままでは本当の意味でのカップルになれないのである。
だから、二人はともに運命への迷子のようにその後の人生を送る。
そのことはすでに物語冒頭部に暗示されている。
“なんだか『三四郎』みたいだけど”の一言で。

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夏目 漱石
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夏目漱石の「三四郎」で、主人公三四郎が心惹かれる女性美禰子が口癖のように言う「迷羊(ストレイ・シープ)、迷羊(ストレイ・シープ)」は、実直な田舎出身の三四郎に対し、近代化した都市生活者の自我に振り回される欲深さのようなものへの自虐だ、と僕は読んだ。
ストレイ・シープとは「迷子」のことで、マタイ伝の、九十九匹の迷わぬ羊よりも一匹の迷える羊を大切に思う羊飼いの説話から来ている。
そして羊飼い(=神)は、この一匹を見放さないのである。

だから、物語世界のストレイ・シープである彼らもまた、決して見放されることはないはずだ。おそらく作品世界で木樽とえりかは、本当に主人公の言うように紆余曲折を経て偶然再会し、結ばれるのだと思う。
冒頭部の「三四郎」は、そこまでの示唆をしていると僕は読んだ。

かつて、「100パーセント」において運命を拒否したカップルに冷酷なエンディングを用意した村上春樹は、本作では(1Q84に続いて)あたたかな未来を示唆している。
順風満帆でないがゆえに実り豊かな人生というものもある、というこの示唆は、好意的に登場させた北海道の町に非難され、せいいっぱいのリスペクトをこめて作ったイエスタデイ・トリビュートにケチをつけられたこの短篇たち自身に、皮肉にも符合している。

2014年5月4日日曜日

「ドライブ・マイ・カー」(村上春樹短篇集「女のいない男たち」収録)について

村上春樹の短篇集「女のいない男たち」は、「多崎つくる」に較べると、ずいぶん早くわが町の小さな書店にも在庫が揃った。

女のいない男たち
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村上 春樹
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ページを開くとめずらしく「まえがき」があるが、これはもちろん例の中頓別騒動についての著者からのメッセージを織り込むためにわざわざ設置されたとみるべきだろう。「作品としての本筋に関係ないところだったので」という部分に、巧みに抗議の意を滑りこませている。

その中頓別町の表記は、上十二滝町になっていた。「羊をめぐる冒険」で星形の斑紋を背中に持っているという羊に会いに行く、あの町だ(羊に出てくるのは十二滝町だが)。そうと知っている人が読めば、そこで意識が途切れる。
どこまでもリアルで、誰にでも覚えのある心の揺らぎを丁寧に描きこんできた物語に、作者の著作中でもとびっきりファンタジックな作品の、それもそうとうにいわくのある村から出てきた娘だった、と明かされるのだから。

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できれば、別の名前が良かったと思う。
それも実在する田舎の村。

作者の村上春樹氏が一番そう思っているだろう。

この「ドライブ・マイ・カー」という物語は、人と人の間に横たわるきわめて不完全な<理解>についての物語である。
愛した女性という共通項を間に置いてさえ、ぎくしゃくしたプロトコルに頼るしかない人間の不器用さが、ここに描かれているものだ。

そのぎこちなさ、は自動車のシフトチェンジに仮託されて物語をドライブしている。
ドライバーとして雇われた女性の運転は、ほぼ感知できないほどにシフトチェンジがスムーズであると書かれている。
これは、マニュアル仕様の黄色いサーブとともに、この物語に現れる<異能>であり<特異点>だ。

つまりこれを対置して表現しようとしたものが主題ということになる。
そしてそれは、人間の内面と行動の乖離を職業化した「演技」というものだろう。
演技から始まった関係は友情に変わり、ぎこちなさを増していく。
その振動に耐えられなくなって関係は壊れてしまう。

そしてそのような表面的で移ろいやすく、葛藤にみちた人間関係の物語を聞きながら、女性ドライバーの運転はあくまでも強固にスムーズだ。
そして主人公が吐露する不完全な<理解>に関する葛藤を、沈黙で受け止められなくなった時、彼女が正論とともに吐き出したのが、車窓からの吸殻だ。
煙草の吸殻が車窓から投げ捨てられたのを主人公が見たとき、同時に感じた彼女の正しさや強さの源泉とみたのが、北海道の田舎で育ったシンプルだからこそ力強い価値観だったのではないか。
そしてそれを受けての台詞が、「中頓別ではみんなそうするのだろう」だったのだ。
そこにはきっと、都会のうわべの人間関係からは得られない、土に根ざした強固な何かがあるのだろう、という主人公の憧れのような気持ちが込められている、そう僕には感じられた。

だから、この台詞は決して「本筋に関係ない」ものではなく、それどころか、巧みに配置された道具立てを一点に集めて主題を描ききる重要なもので、それゆえに印象的に読者の心にせまる。不幸なことにだからこそ、それは看過されなかった。

単行本で「上十二滝町」と書き換えられた該当部分を読んだ時、雑誌掲載時に感じたその北海道への憧れの感覚が大きく損なわれているのを感じざるを得なかった。

それでもなお、筆者が、このような特別な町名に書き換えたことには相応の意味があると考えるほうが自然だろう。
僕は、完全な創作による文学作品の、実態として悪意のないエピソードに、このようなクレームがつくことに、文学という愉しみの危機を感じる。
テレビドラマは、描かれているものが実態と違うと言って、筋書きの修正を迫られ、スポンサーはCMを自粛した。
東京都の美術館は、政治色のある彫刻作品を撤去した。

「女のいない男たち」に付されたまえがきと、書き換えられた「ドライブ・マイ・カー」は、村上春樹がこのような時代に書き残そうとした<注記>なのかもしれない。