あらすじを読むと、パリ、セーヌ川河岸で古書店主が次々と消える事件を扱っているようで、パッと見ミステリに見える。
しかし、これはハヤカワ文庫NVというミステリ、SF以外のフィクションを扱うレーベルに分類されているのだ。
確かにミステリ用レーベルHMとNVレーベルとの境界はあいまいではある。
ハードボイルドの傑作中の傑作「深夜プラス1」はHMだが、物語に探偵も出てこないし、謎解き要素もほとんどない。チャンドラーの諸作も名作ではあれど、マーロウは事件の整理はしても謎は解かない。しかしそれでもあれを(広義の)ミステリに分類すべきでないという人はいないだろう。
これらの冒険活劇を広義のミステリに含めるのなら、「鷲は舞い降りた」だってそうとうなレベルのミステリだと思うが、あれはNV扱いである。
さて「古書店主」だが、実際に読んでみるとこれはミステリ以外の何物でもない。
古書店主たちを殺害しているのは誰なのか。
一見仲間に見えるように描かれて、共感を誘うところがかえって怪しい、主人公を取り巻く個性的な登場人物たち。
裏側で何やら怪しげに蠢く犯罪組織の影。
さらに要所要所でチラリと見え隠れするクリスティとホームズへのオマージュ。
しかしそれでも、筆者がラストに練りこんだ、いかにも熱心なミステリ・ファンらしいトリックを読み終えて本を閉じた今、これをNVに分類した編集者に僕も同意せざるを得ない。
この小説はよくできた「ミステリ仕立てのストーリイ」ではあっても、ミステリの「魂」は備えていないから。
どんな人の人生も清廉潔白ではない。
友達についてしまった嘘。
拾ったけど警察に届けなかったコイン。
躊躇しているうちに譲るタイミングを失った電車の席。
もしかしたらもっと大きな罪の記憶を持っている人もいるかもしれない。
我々はミステリを読むとき、そうとは知らず、そのような人間の背徳を「そういうこともあるよね」と承認してもらいたいと望んでいる。
そしてその代弁者が糾弾されているのを安全な場所から見て、ほっとしている。
「善」の心地よさを右手に、しかし心の中に確かにある妬みや他者を憎む気持ちを左手に持って、その両手の重みが釣り合っているのが人間なんだと僕らは心のどこかで理解している。
それを左手の方から見つめていくのがミステリの魂なんだと僕は思う。
「古書店主」は、あくまで右手側の小説で、犯罪さえも右手から見て書いている。最後のトリックだけが唐突に見えるのはそのせいだ。真犯人にこっそりと共感することもできない。心の裏側の真意が描かれていないからだ。
もちろんだからといって詰まらない小説だ、ということにはならない。
後半のスピーディな展開に興奮させられるし、ちょっと都合のよいラブ・アフェアも不快でなく読んでいて楽しい。
ましてやこれが処女作だというのだから恐ろしい才能だ。
次作にも期待したいと思う。