2013年8月25日日曜日

浅田次郎「終わらざる夏」:人と人が殺しあう場所に、一片の正義だってあるはずがない

高校を卒業するまでを釧路で過ごした。
だから北方領土のことは他人事ではなかった。

大恩ある先生から、ラーゲリに収容された経験をお聞きしたこともある。
尊厳を奪われるということが、どんなに怖ろしいことか想像しただけで身が震えた。

だから、浅田次郎さんの「終わらざる夏」はどうしても読まなければならぬ、という思いと、人間の心の奥に巣食う真っ暗な怖ろしい淵を覗きこむ経験にしり込みする気持ちの間で迷っていた。


どうにもきな臭い世情が、少しずつ少しずつ現実に近づいてくるのを感じるたび、もう逃げられないという気分になって、そんな時、書店に文庫化された「終わらざる夏」が平積みになっているのを見て、意を決して手にとった。



ここに書かれているのは、国家と国家の事情に翻弄される人々の営みだが、結局、国家も人である。

民間人の女学生の撤退を検討しながらも、軍の理屈でしか動かない会議に、操船兵が発した「どいつもこいつも、人間と鮭缶を一緒くたにしやがって、あげくにこんな簡単な道理がまだわからねえんか」という叫びが耳に痛い。

我々は、どうしたって組織に所属するとその論理で動く傾向がある。
それは、自分が下さねばならない判断の責任が、組織と半分ずつになるような気がするからなのだと僕はいつも思っていた。
でも責任って何なんだ。

よく責任をとって社長を辞任するとか、退職するなどと言うが、そんなことで責任をとったことになるのか。その被害にあった人から見れば「溜飲が下がる」以外にどんな実益もなく、失われたものは取り戻しようがないのである。

だから結局どんなことも個人の覚悟の集積で出来ている。
失ったものは戻らないという覚悟を背負えるほどの責任の対象として、「終わらざる夏」は一貫して「家族」を描く。
すべての行動が愛に発し、すべての思いが矛盾なく無償で、犠牲と愛が同義の言葉になるたったひとつの絆「家族」

どう言い繕おうとも兵士は殺人者である。
家族を殺人者にしたくない。もちろん自分もそうなりたくない。
こんな簡単な真理より大事な「国益」なんてあるはずがない。
我々の心の基盤である「家族」の平穏こそが最大の「国益」なのだ。

人と人が殺しあう場所に、一片の正義だってあるはずがないのだ。
だから絶対に戦争だけはしてはいかん、という決意を。
隣国が攻めてきたらどうするのだ、という仮定すら許さない強い意思を。
その時に出来るありったけの誠意と、人間を信じる心で、最後の一瞬まで理解し合うことを諦めない覚悟を。


第二次世界大戦では、日本の多くの文士が戦争を支持した。
そして敗戦後、戦争否定に転向した。

僕は大学で文学と哲学を学んだ。
卒業してからも多くの文学に触れ、哲学に触発された。

だから、本来、戦争に向かう国を押しとどめる役割を担うべき文学が、先の大戦でまるきり役に立たなかったことが悔しい。
ようやく戦中文壇の過ちに落とし前をつけてくれたこの傑作戦争文学を深く胸に刻みつけて、これからの平坦ならざる世を、人間を見つめて生きていきたいと思う。

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