ゴムの木の花言葉は「永遠の愛」。
だから1Q84の背骨は、天吾と青豆の永遠の愛の物語であることは間違いない。
であると同時に、1Q84は「王殺し」の物語でもある。
深田保と青豆が対峙する重要なシーンで、深田はフレイザーの「金枝篇」を引用して王の役割を「声を聴くもの」と定義する。そしてその役割を終えるとできるだけ残虐な方法で殺され、贄とならなければならず、それこそが最大の名誉なのだと言う。そして、そうであったからこそ神聖であった王という役割もいつの間にか世襲の職業になってしまったと嘆いてみせる。
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「金枝篇」は未開社会の神話・呪術・信仰に関する集成的研究書で、タイトルの金枝というのは宿り木のこと。イタリアのネミにおける宿り木信仰に伝えられる、森のディアナ神の聖所の祭司になるためには、金枝(宿り木)を持って来て、現在の祭司を殺さなくてはならないという政権交代の作法から名付けられているのだ。
そしてこの祭司は「森の王」と呼ばれている。
祭司=声を聴くもの=王という構図は、いにしえの神話世界のものなのだ。
天吾が「ふかえり」に読み聞かせるチェーホフの「サハリン島」ではギリヤーク人という先住民がサハリン島が文明化されて道路が整備された後も、森から出ず「森の道」を使っていたというエピソードが登場する。
近代的な、いわば人のための宗教とは異なる価値観がそこでは語られている。
「森の王」や「森の道」に彩られた1Q84の世界は、その意味で、金を集め、権力を求め、政治を動かして世界に道を拓いていった近代的な思想を排除して神話世界に復古していく物語ともいえる。
この他にも1Q84という文芸作品には、まるで目くらましのように過去の文学作品などの引用が入り乱れている。
優秀な殺人者であるタマルはチェーホフを引用して「小説に拳銃が出て来たら、それは発射されなければならない」と拳銃を持つことの危険性を語り、さらに潜伏中の青豆にプルーストの「失われた時を求めて」を読むよう勧める。
天吾は幼少時にディケンズを愛読しているし、識字障害のあるふかえりは平家物語の任意の章を暗唱出来るほどテープで聴いている。
牛河は、自分を「罪と罰」の登場人物になぞらえてソーニャと出会えなかったラスコーリニコフのようだと感じた。
人は、この価値観の大きく揺れ動いた時代の波を超えてたくさんの「本」を読み継いで来た。失われた物語もあるかもしれないが、時の洗礼を受けて生き残ってきた物語が、これほど多様な彩りをひとつの小説に与えていることに私は深い感銘を覚える。
そしてもちろん、ジョージ・オーウェルの「1984年」。
1Q84は、今日的に「1984年」の問題意識を読み替えていく物語でもある。
オーウェルがイメージしたような全体主義による統制は起こらなかった。資本主義はそのままのカタチで暴走ともいえる発展を遂げた。
そして人間の欲望をどこまでもドライブした。
そしていろんな怪物が生まれた。
市場万能主義の陰で広がり続ける格差。
競争至上主義の陰で衰退する道徳心。
社会の中で居場所が見つけられない人たち。
他人の失点を目を皿のようにしてさがしている人たち。
蔓延する批評家気質。
1984年と1Q84。
どちらの行く末も、それぞれに問題がある。そういうものなのだ。
結局その中でどのような「生」を選び取るのか、ということにつきるのだ。
王を殺して新しい王を戴くことの繰り返しでは書き換えられない未来がある。
青豆と天吾だけが、なぜ1Q84の世界から脱出できたのか。
それはもちろん二人の心が繋がっていたということだ。
自分の心の中に「他人」をセットする機会は近代化の中で得難くなったもののひとつだ。
天吾は父を喪い、まるで他人のようだと思っていた父が実は深い愛情を寄せてくれていたことを知ることではじめて他人にも自分と同じように気持ちがあるのだ、と気付いた。
青豆は、潜伏期間中ずっとプルーストの「失われた時を求めて」を読んでいる。
プルーストの執拗な人間描写は、本人が気付かずに行動しているであろうことまで詳細に解き明かしながらいっさいの省略なく描かれ続けていく。
この読書体験はおそらく天吾の経験した喪失に匹敵するものだっただろう。
そうして二人は1Q84の世界を抜け出す資格を得たのだと思う。
私は確かに見届けたような気がする。
村上春樹が、世界を書き換えた瞬間を。