2012年6月6日水曜日

1Q84 REVIEW3 村上春樹は教養で世界を書き換える

青豆が、1Q84年の世界に入り込んでしまう首都高の非常階段から見えた、誰かの家のベランダのゴムの木は、BOOK3で青豆が潜伏に入ってからも登場するし、最後には出口の道案内ともなる重要な小道具だ。

ゴムの木の花言葉は「永遠の愛」。

だから1Q84の背骨は、天吾と青豆の永遠の愛の物語であることは間違いない。


であると同時に、1Q84は「王殺し」の物語でもある。
深田保と青豆が対峙する重要なシーンで、深田はフレイザーの「金枝篇」を引用して王の役割を「声を聴くもの」と定義する。そしてその役割を終えるとできるだけ残虐な方法で殺され、贄とならなければならず、それこそが最大の名誉なのだと言う。そして、そうであったからこそ神聖であった王という役割もいつの間にか世襲の職業になってしまったと嘆いてみせる。


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図説 金枝篇(下) (講談社学術文庫)
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「金枝篇」は未開社会の神話・呪術・信仰に関する集成的研究書で、タイトルの金枝というのは宿り木のこと。イタリアのネミにおける宿り木信仰に伝えられる、森のディアナ神の聖所の祭司になるためには、金枝(宿り木)を持って来て、現在の祭司を殺さなくてはならないという政権交代の作法から名付けられているのだ。
そしてこの祭司は「森の王」と呼ばれている。
祭司=声を聴くもの=王という構図は、いにしえの神話世界のものなのだ。


天吾が「ふかえり」に読み聞かせるチェーホフの「サハリン島」ではギリヤーク人という先住民がサハリン島が文明化されて道路が整備された後も、森から出ず「森の道」を使っていたというエピソードが登場する。
近代的な、いわば人のための宗教とは異なる価値観がそこでは語られている。


サハリン島 (上巻) (岩波文庫)
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サハリン島 (下巻) (岩波文庫)
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「森の王」や「森の道」に彩られた1Q84の世界は、その意味で、金を集め、権力を求め、政治を動かして世界に道を拓いていった近代的な思想を排除して神話世界に復古していく物語ともいえる。


この他にも1Q84という文芸作品には、まるで目くらましのように過去の文学作品などの引用が入り乱れている。
優秀な殺人者であるタマルはチェーホフを引用して「小説に拳銃が出て来たら、それは発射されなければならない」と拳銃を持つことの危険性を語り、さらに潜伏中の青豆にプルーストの「失われた時を求めて」を読むよう勧める。
天吾は幼少時にディケンズを愛読しているし、識字障害のあるふかえりは平家物語の任意の章を暗唱出来るほどテープで聴いている。
牛河は、自分を「罪と罰」の登場人物になぞらえてソーニャと出会えなかったラスコーリニコフのようだと感じた。

人は、この価値観の大きく揺れ動いた時代の波を超えてたくさんの「本」を読み継いで来た。失われた物語もあるかもしれないが、時の洗礼を受けて生き残ってきた物語が、これほど多様な彩りをひとつの小説に与えていることに私は深い感銘を覚える。


そしてもちろん、ジョージ・オーウェルの「1984年」。
1Q84は、今日的に「1984年」の問題意識を読み替えていく物語でもある。

オーウェルがイメージしたような全体主義による統制は起こらなかった。資本主義はそのままのカタチで暴走ともいえる発展を遂げた。
そして人間の欲望をどこまでもドライブした。
そしていろんな怪物が生まれた。

市場万能主義の陰で広がり続ける格差。
競争至上主義の陰で衰退する道徳心。
社会の中で居場所が見つけられない人たち。
他人の失点を目を皿のようにしてさがしている人たち。
蔓延する批評家気質。

1984年と1Q84。
どちらの行く末も、それぞれに問題がある。そういうものなのだ。
結局その中でどのような「生」を選び取るのか、ということにつきるのだ。


王を殺して新しい王を戴くことの繰り返しでは書き換えられない未来がある。

青豆と天吾だけが、なぜ1Q84の世界から脱出できたのか。
それはもちろん二人の心が繋がっていたということだ。

自分の心の中に「他人」をセットする機会は近代化の中で得難くなったもののひとつだ。
天吾は父を喪い、まるで他人のようだと思っていた父が実は深い愛情を寄せてくれていたことを知ることではじめて他人にも自分と同じように気持ちがあるのだ、と気付いた。

青豆は、潜伏期間中ずっとプルーストの「失われた時を求めて」を読んでいる。
プルーストの執拗な人間描写は、本人が気付かずに行動しているであろうことまで詳細に解き明かしながらいっさいの省略なく描かれ続けていく。
この読書体験はおそらく天吾の経験した喪失に匹敵するものだっただろう。

そうして二人は1Q84の世界を抜け出す資格を得たのだと思う。


私は確かに見届けたような気がする。
村上春樹が、世界を書き換えた瞬間を。

2012年6月5日火曜日

1Q84 REVIEW2 村上春樹は「暴力」で世界を読み解く

この1Q84という作品は、ジョージ・オーウェルの1984年という小説からタイトルをインスパイアされている。


一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)
ジョージ・オーウェル
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しかしどれだけ読んでも共通点はほとんどなく、すぐに見て取れるのは「1984年」で管理社会の親玉として描かれる「ビッグ・ブラザー」と「1Q84」での「リトル・ピープル」という言葉上の対比くらいだ。

ビッグとリトル。
対置する概念。

つまり、村上春樹は、オーウェルの思い描いたのとはまったく違う「1984年」像を描きたかったのだろう。


オーウェルの「ビッグ・ブラザー」が象徴しているものは、政治的な管理社会の脅威という名の「20世紀的暴力」だった。

フランス革命から始まった「近代」は、支配者であり、民の所有者であった「王」から市民自身に主権を委譲させて行くというモーメントだ。
しかし程なく、その近代化を支えたブルジョアジーが新たな簒奪を始めることになり、早くもユートピアの衰退が始まる。
王の簒奪から市民同士の簒奪にと、よりやるせない方向に舵を切っていったわけだ。

いかに経済が発展し科学が進化しても、その社会は新しくて深刻な歪みを抱え込んだものとなってしまう。
解決策として持ち出されたのは、社会主義や共産主義といった管理的な社会で、オーウェルはその管理社会の行く末を、個人の判断や自由が侵された社会の不自然さとして描くことで警鐘を鳴らしたのだ。

しかし、現実は残念ながらもう少し複雑で残酷だ。
マルクスが資本主義社会の爛熟の果てに出現すべく予想した社会主義は、資本主義が浸透せず経済的劣位にあった国々にこそ根付いてしまい、冷戦という薮睨みの構造を作り出す。
そしてその混沌を率いてくれるはずのリーダーのことを思うとき、現代に生きる我々は民衆に負担を強いるタイプの為政者を歓迎する傾向を持つことをすぐに思い出せるだろう。ナポレオン、ヒトラー、そして我らが小泉純一郎。

20世紀は、世界の枠組みを模索しながら我々が我々自身を傷つけていく暴力の時代だったのだ。


このように現実の1984年はもちろんオーウェルの予言したようなものにはならなかったことを誰もが知っている。
そこが近未来を題材にした小説のつまらなさ(あるいは無意味さ)だと村上春樹はインタヴューに答えて語っている。

だから現実の1984年を経験してきた立場で、もう一度1984年という時代に潜っていって、本当にそうだったのか、何かの悪意がそこにあったのではないのかと問い直すために、現実を書き換えて行く力を持ったリトル・ピープルを登場させた、とそういうことではないか。


オーウェルの1984年でも、不都合な情報に政府が目を光らせていて、それを文字通りいちいち書き換えていくことで現実を改変していく。

1Q84の世界では、リトル・ピープルが不思議な力で世界を改変していくが、ではリトル・ピープルもビッグ・ブラザーもいないこの現実の世界では、何が作用して世界がこのような姿になっているのか、と村上春樹は問うているのだ。

そしてリトル・ピープルは、露悪的な脅威というよりは、個人を通路として姿を現す、不可思議で原初的な「恐怖」として描かれているように思う。
あくまでもその力を地下の世界から引き込んだのは我々自身であるように書かれている。

大きな戦争の時代を経て、復興、オイルショック、新しいスタイルの高度経済成長、バブル経済、そしてそれ以降の「失われた時代」へと繋がっていく暗い底流はいったいどこから来たのか。

オーウェルが想像した国家的なアイコンとしてのビッグ・ブラザーに対置したものが、個人と地下世界の密通者であるリトル・ピープルであったところに村上春樹の思う「21世紀的な暴力の姿」を知る鍵が隠されているように思う。


かつてか弱い存在だった人類は、社会性を纏い、群れることでその欠点をカバーしていき、やがて充分な強さを得たとき、個人性や自由を重視するようになっていった。
オーウェルの問題意識が社会性の延長に想定された「暴力」であったのに対して、村上春樹の問題意識の核にある「暴力」はあくまで個人性に根源を求めようとしているのではないかと思われてならないのだ。

だからそれを知ることは我々一人一人の中に潜む「リトル・ピープル」と対峙することでしか見えてこないのかもしれない。


そして文学はそのために我々に残された数少ない有効な武器のひとつではないかと思う。

だからだろうか。この1Q84には、(おそらく)村上春樹の読んできた本がそのまま登場して、タマルや天吾や青豆によって読まれている。これはもしかしたら我々のために村上春樹が用意してくれたブックガイドなのかもしれない。

そのあたりに焦点をあてて、次回最終回になるREVIEW3の稿を起こそうと思う。

2012年6月4日月曜日

1Q84 REVIEW1 村上春樹は運命を冷徹で厳密な視線で扱う

全巻の文庫化が終了したのでようやく、村上春樹の「1Q84」を手に取った。


1Q84 BOOK1〈4月‐6月〉前編 (新潮文庫)
村上 春樹
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1Q84 BOOK1〈4月‐6月〉後編 (新潮文庫)
村上 春樹
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熱に浮かされるように全編を三日間で読み切って、最初に頭に浮かんだのは、ついに村上春樹は「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」ではすれ違うことしかできなかった運命の恋人たちを、再び邂逅させられるほどの「強い」情熱に貫かれた物語を書いたのだな、ということだった。

村上春樹を最初に読んだのは、大学生の頃だったと思う。

当時一番好きだったのは、「カンガルー日和」という短編集に収録された「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」という10ページにも満たないとても短い掌編だった。
そこに描かれていたのは、街ですれ違った女の子に何故か運命的な縁を感じるのだが、32歳になりある種の無邪気さを喪ってしまった彼には彼女にどう声をかけていいのかわからずに、そのまま声もかけないまま行き過ぎてしまう、というごく日常的な風景だった。

そして彼が後に「こう話しかければ良かった」と思いつく独白の中で、運命の出会いをしたのに、あまりにも簡単に叶ってしまった運命の人との出会いを疑ったがゆえにその縁を喪ってしまった恋人同志について語られる。


村上春樹の「運命」というものへの冷徹な視線がとても新鮮に思えた。ちょうどその頃大学の哲学科にいた私は、ハイデガーの「存在と時間」にある「時間というものは過去から現在、そして未来へと流れているのではなくて、「現在」という時間こそが過去や未来を参照したり開示したりして時間というものを生み出す「働き」をするのだ」との主張に触れ、ああ、もしかしたら村上春樹の言っていることもそういうものの延長にある考え方なのかも知れないなと思ったりした。


村上春樹は、同様に運命的な少年と少女の物語を、「国境の南、太陽の西」でも描いている。
これも大好きな物語だが、少年はここでは運命の女性とせっかく決定的な再会を果たすのに、最終的には積み重ねてきた平凡な日常の中に帰って行くことを選ぶ。

「ノルウェイの森」でも主人公は直子と結ばれることはなく、直子の服を着て現れる玲子さんと体を触れ合わすだけだ。

「スプートニクの恋人」では、主人公はすみれと再会を果たす(と私は読んだ)が、すみれの運命の人はミュウなのであって、やはり運命の恋は成就しないのだ。

そして、1Q84では(たぶん)はじめて運命の二人を、これ以上ないハッピーエンドに導いた。この青豆と天吾の顛末を読むに至って、村上春樹は運命に「冷徹」なのではなくて、そいつに抗うには相当なエネルギーが必要だと知っていて、まだ過去の諸作を書いた時点では物語にそういう超越的なエネルギーを持たせられなかったのではないのか、と思うようになった。

作者村上春樹本人が語っているように(新潮社「考える人」2010年夏号)この作品は、バッハの平均律クラヴィーアというピアノ曲にその構成を借りている。
この曲は1オクターヴの中にある12の半音それぞれを主音とする長調と短調を使った、計24曲で構成されていてBOOK1とBOOK2の二つの楽譜として発表されたものだ。


1Q84 BOOK2〈7月‐9月〉前編 (新潮文庫)
村上 春樹
新潮社 (2012-04-27)
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1Q84 BOOK2〈7月‐9月〉後編 (新潮文庫)
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1Q84では天吾と青豆をそれぞれ長調と短調に見立てて24章で構成してご丁寧にBOOK1とBOOK2という形で出版されたわけだ。

この構成のおかげで、1Q84は青豆と天吾の独立した一人称のふたつの物語となり、それぞれが影響を受けずに自分自身の強さでもって「時間」という存在と闘うことができ、そして勝利したのだ、と感じた。
だから感動した。BOOK2の終わりで、すべての運命が閉じた、と感じた。


そして、それを受けて完結した物語を再起動したように始まるBOOK3という物語。


1Q84 BOOK3〈10月‐12月〉前編 (新潮文庫)
村上 春樹
新潮社 (2012-05-28)
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1Q84 BOOK3〈10月‐12月〉後編 (新潮文庫)
村上 春樹
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最初のうち解説的で、村上春樹的でない物語運びだなあと感じていたのだが、読み進めていくうちに、BOOK3の各章は、BOOK1やBOOK2のそれのようには一人称としての独立性を持っていないように感じ始めた。
独立した一人称として機能しているのは牛河だけで、青豆と天吾はすでに引き合うように相互に依存しながら動いている。バッハに構成を借りてまで整った物語を書いたわけだから、もちろんBOOK3を書くつもりは最初なかったはずだ。

今までのほぼすべての作品で、村上春樹は作中を生きた愛すべき登場人物たちの「その後」を描くことを慎重に避けている。
場合によっては必要な記述さえも省いて。

それはきっと運命とか因果というものに対する村上春樹の態度に起因している。
人生は「こういう生き方をしてきたのでこうなりました」というふうにはいかないものだ、という考え方がそこには息づいているような気がする。
だからたいていの場合、物語は主人公が何かを決断したところで終わることになっている。

しかし、1Q84ではこれまでにないほどはっきりと運命の二人の結末を描いた。
きっと描きたくなった。
そのためには完全に調和して完結したBOOK1とBOOK2の外側にキャンバスが必要だったのだと思う。


そしてそれは、とりも直さず、私が「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」に感じている気持ち悪さへの回答でもあった。
あの物語は「ハードボイルド・ワンダーランド」側で終わるべきだった、と今でも思っている。
家に本をお持ちの方ははためしに39章と40章の順序を入れ換えて読んでみてほしい。
実に納まりが良く、「普通」の小説らしくみえるはずだ。

しかし、前述の理由で、「世界の終わり」側での決断が現実社会でどのような姿を取るのかを述べてしまうことは村上春樹にとってはどちらかというと不自然なことで、その決断そのものがあの物語の結末にふさわしいということなのだろう。
一人の人格の内と外を描いている以上、そして決断が心の裡で下されるものである以上、あれ以外の書き方はやはりなかったのだ。


そしてだからこそ、やはり1Q84のBOOK3はああいうカタチで書かれて良かったのだ、と思う。

しかしこの1Q84という物語、大量の紙幅を使いながらいつも以上に積み残した謎は多い。その中でもタイトルから推測するに物語の核心を担っているはずなのに、まるで内実については語られなかった「リトル・ピープル」を主題に、稿を改めて感じたことを書いてみたい。

REVIEW2に続く。